第3話 離婚をつきつけられる
夕食の準備をしていると、翠に声をかけられた。彼女からこのようにされるのは非常に珍しいことといえる。
不吉な予感に見舞われたのか、裕の体内でジトっとした汗が溢れていた。どんなに乾燥させたとしても、乾きそうにないタイプのものだった。
青く染まった唇をブルブルと震わせていると、翠は冷たい口調でいった。
「離婚しましょう」
翠の二つの瞳を覗き込む。彼女の決意は固く、翻すのはほぼ不可能なのを悟った。身体を拘束しなければ、彼女は今日にも実家に帰ってしまうだろう。
裕は情に訴える作戦に出た。1パーセント未満であったとしても、可能性に賭けてみたかった。未練がましいと思われるけど、もがかずにはいられなかった。
「子供のことはどうするんだ。まさか見捨てるんじゃないだろうな」
翠は想定していたのか、軽くあしらってきた。栗色の瞳は感情を失ってしまったかのような色だった。
「あなたが面倒を見ればいいじゃない。小学生にあがったことだし、自分のことは自分でできるでしょう」
翠は左右に髪をかき分ける仕草をした。口にはしないものの、さようならといっているかのようだった。
未成年の子供を捨てようとするのは、親の所業とは思えない。翠の心に悪魔が宿っているのかな。
裕は心の奥底にある怒りメーターを調整し、冷静になるように心がけた。こういうときに、血がのぼってしまうのは避けたい。冷静になれなくなった時点で完全なる敗北となる。
「俺との生活をどうこうしろとはいわない。ただ、息子を成人するまで見届けると考え直してくれ」
翠は開けっ放しのカーテンを見つめていた。裕の方に視線を送ろうとはしなかった。
「私の中ではもう限界。ここに住むことすら耐えられない」
直哉の結婚話を耳にしてからは、目に見える形で疲弊していく現実を目の当たりにした。同級生であるはずの女性の実年齢は一〇、二〇歳も老けて見える。年を重ねるのをコマ送りさせたかのようだ。
「パソコンに打ち込むことで、感情を誤魔化せるかなとおもったけど、現実はそうじゃないみたい。忘れようとすればするほど、脳裏によぎってしまうんだ」
翠はどうにかして忘れようとしていたのか。彼女なりにもがいている姿が浮かんできた。
翠の全身は夕日によって包み込まれた。光を受けた女性の姿は、身長は変わらないのに小さく映し出されていた。
「一カ月前に、二人が親しくしているところを目撃してしまったの。以降はこの場所で生きる活力すら見いだせなくなってしまった」
翠はパソコンに打ち込んでいるため、外出する機会は限定されている。一年に一度くらいしか帰宅しない、二人と顔合わせをするのは奇跡に近い。
結婚話で意気消沈していた女性に、ラブラブなところを見せるとは。運命の神様は残酷すぎやしないか。翠にその場面を回避させてあげればいいのに。
翠は二人の姿を忠実に表現した。
「二人は心から笑っていた。私もあんなふうになりたいと思った」
二人は互いが互いを利用するという偽装恋愛に近かったため、笑顔を浮かべる機会はなかった。本心を偽りながら、関係を続けていた。
社会を渡り歩くならそれでよかったけど、恋愛ともなると勝手は違った。お互いの想いをぶつけ合うため、偽りの感情ではうまくいかなかった。
互いに本物の恋愛感情を持っていないため、交際中であっても手をつなぐ機会すら訪れなかった。翠の温もりを感じることはできないまま、高校生活は幕を閉じた。
指一本絡ませることないまま時間は過ぎていき、周囲に流される格好で挙式を挙げた。元々、愛し合っていなかったこともあって二人に笑みはなかった。
結婚後は夫婦としてやっていきたいと思ったものの、翠はそうではなかった。彼女は仕事にのめりこみ、裕と顔を合わせる機会を意図的に減らしていた。
身体を交わすこともなく、結婚三年目を迎えようとしていたときのことだった。翠の妊娠が発覚する。一緒に住んでいるだけの状態だったため、新しい命を誕生させるとわかったときは、目
の玉が飛び出すほどの大きな衝撃を受けた。
名前も顔も知らない男と不倫して作った、子供であると勘繰った時期もあった。赤の他人の遺伝子を育てるのは、絶対にしたくなかった。
血液検査の結果、高確率で二人の子供であることが判明。裕は腑に落ちなかったものの、自分の子供として愛情を捧げようと決意した。
「ここに住まいを構えていれば、いずれは二人きりの場面を目撃することになる。私にとって、それだけは耐えられないんだ。命を奪われるよりもつらい」
直哉の背中を追い続けて、同じ場所に住むことを決意した翠。彼女にとって最悪の選択で、自分自身も傷つけてしまっていた。
「未熟な女でごめんなさい。どんなに年を重ねても、精神的な部分は変わらないみたい」
翠は瞳から涙をこぼしていた。最低なことをされたはずなのに、わずかながらに同情心を芽生えさせていた。女の涙というのは最大の武器になりうるのかな。
裕はどうにかして慰留させようとした。自分のためというより、子供のことを第一に考えてのことだった。
「翠、一緒に生活しよう。支えあって生きていこう。とっても大切に思っているんだ」
「裕は昔からやりくり上手だね。愛してもいないのに、感情を利用したのはわかっていたよ。子供を産むための道具としてみていたんじゃない」
翠の心ない言葉に、我を忘れてしまった。家庭内に届いてもおかしくないくらい、大きな声を出した。
「翠も好意を持っていないくせに、直哉との機会をうかがうためにやってきたんじゃないのか」
「そうだね。私はあなたのことを一ミリたりとも愛していない。魅力の欠片も感じない男性を好きになる女性なんていないよ」
男としての人格、プライドを完全否定されたことで、裕は我慢の限界を超えてしまった。衝動的に胸ぐらを掴んでしまった。
「お前、ふざけんなよ。俺のことを何だと思っているんだ」
翠の胸ぐらを掴んだ直後だった。祐樹の弱々しい声がこちらに届いた。
「おとうさん、暴力を振るわないで」
翠は手を振り切ったあと、究極の選択を迫ってきた。
「離婚に応じるのか、警察に出頭するのか、どちらから選択してちょうだい」
胸ぐらをつかんでしまったことで、形勢を一気に悪くしてしまった。言い逃れのできない状況になってしまった。
近年は暴力に対して厳しい。一度きりであったとしても、警察に通報される社会が構築されてしまった。
事情については全く考慮されない。基本的に手を出したほうが完全に負けである。
「身の危険を感じるから、荷物を整理していなくなるね。力で押さえつけようとする男とは一緒にいられないもの。子供を育てる人間がいなくなると困るから、しばらくは暴力をふるったこと
は黙認してあげる」
離婚しようと言い出した張本人なのに、あくまで旦那のせいにしようとする。翠はとことん最低な女性のようだ。
「夕食もいらないよ。私はすぐに実家に帰る」
貞夫も夕食のために階段を下りてきた。母親に甘えられないストレスを蓄積させているのか、水を与えられていない花さながらだった。翠はこんな状況を目の当たりにして、心は痛まないのかな。彼女の心センサーに、他人の感情を察する力はないようだ。
貞夫は二人の会話を理解していた。年齢を重ねた分、頭は賢くなっている。
「おかあさん、いなくなっちゃうの」
「うん。私たちは離婚するんだ」
翠の胸ぐらを掴んでしまったことで、離婚は避けられない情勢となった。愛情を持っていない女性なら、警察に通報しても違和感はない。
「りこんってなに?」
翠は言葉を咀嚼していた。
「婚姻契約の解消。簡単にいうなら、夫婦でいなくなるってことだよ」
「夫婦でなくなったらどうなるの」
「この家からいなくなるってこと」
貞夫は瞳に涙を浮かべていた。パソコンにのめり込む状況になっても、母親のことを大切に思っていたのかな。
「おかあさんはどうしてこの家を出ていくの」
「大人の事情だよ。大人になればわかるんじゃないかな」
大人の事情の一言で片づけていいのか。夫婦間の絆って指で一本押しただけで崩れてしまう脆さなのかな。脆弱すぎやしないか。
祐樹は小学生になったばかりなのか、三人のやり取りを理解していなかった。今はいいかもしれないけど、明日になったら思いっきり泣いているのではなかろうか。
「おかあさんのために、ドラえもんのぬいぐるみを編んだんだ。受け取ってくれない」
小学一年生ゆえに、形は整っていない。目は丸くないし、ひげは一本落ちてしまっていた。ドラえもんというよりも、アザラシに近い印象を受ける。
お世辞にも上手とは言えないものの、子供なりに一生懸命編んだのは伝わってきた。真心を込めたぬいぐるみは、何よりも大切なものとなるのではなかろうか。
ドラえもんを選択したのは、ポケット一つで悩みを全て解決してくれるからかな。子供は夢を持っているのを感じさせた。
大人ともなると、ドラえもんの世界は架空であったことに気づかされる。個人を待ち受けているのは、ドロドロとした陰険な世界観。利害関係の絡む世界を生きているうちに、純粋な心は抜け落ち、汚染物のみに支配されていく。自分を生かすために、他人を平気で蹴落とす人間で溢れかえっている。直哉、纏のように純粋な想いで付き合えるのは稀といえる。多くの家庭では、家庭内で山積みとなった問題を解決する日々に追われる。
お互いに我慢、忍耐を繰り返すだけの日常に限界が訪れたとき、離婚という形になる。40パーセント近い確率で破局していることから、婚姻継続の難しさを感じさせる。
翠は拒絶すると予想したものの、素直に受け取っていた。
「ありがとう。大切にするね」
お守りみたいにぞんざいに扱うのではなかろうか。実家に帰った途端、ゴミ箱送りになっていても不思議はない。
翠は二階へと上がっていった。自分の荷物を整理するためだと思われる。
離婚を想定していたのか、ものの一〇分で身支度を整えてきた。自分と縁を切る意思を前々から固め、いつ切り出すのかだけ悩んでいたのかな。
「さようなら・・・・・・」
翠はドラえもんの人形を抱えながら、家からいなくなってしまった。背中からは、純粋さを欲しいといわんばかりだった。裕は小学生のときに捨ててしまっただけに、取り戻すのは容易ではなかった。
子供のドラえもんの人形を抱きしめていたのは意外だった。息子への愛情を完全に忘れてしまったと思っていたために、置き去りにする可能性は十分に残されていた。
翠との接し方を変えていれば、離婚につながらなかったのかな。裕にはどうすればよかったのかを導き出す力はなかった。
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