第2話 エーファの葬列(1/4)
陽が
エーファは、ぼんやりと、その花の名は何であったかと思いを巡らせていた。見慣れているはずのその花の名を、彼女はどうしても思い出すことができなかった。彼女の思考力は茫洋としていて、著しく集中を欠いていた。
しばらくして、エーファはようやく、その花の名がシャムロックであることを思い出した。このエールの大地を象徴するエメラルドグリーンの植物、聖なるパトリキウスが
だが、すぐに、それも無理のないことだとエーファは思い直した。彼女は湿った地面に横たわっている、自分の細い華奢な体を見た。服はところどころが裂けており、胸が露出している。純白だったはずの生地は余すところなく真っ黒に汚れていた。両腕は捻じれており、どちらも裂傷を負っている。右腹部には大きな穴が開いていて、奇妙なまでに色鮮やかなピンク色の内臓が零れ出ていた。傍らには破損した杖が転がっている。
エーファの美しい長い金髪は乱れていて、未だに幾分か幼さを残しているが充分に
顔が傷つけられなくて良かったと、エーファは
どこかから小さなミツバチが飛んできて、彼女の血の気の失せた右の頬に止まった。休憩のためか、それとも新たなる花を探すためか、ミツバチはつかの間、もぞもぞとその場で体を動かすと、気のない様子でまた飛び去っていった。
死んでいる。エーファは改めて自分を観察し、そのように結論した。間違いなく、自分は死んでいる。肉体が役目を終えた正確な時刻こそ分からないが、もはや自分は生者ではなく、死者として数え上げられるべき存在であると、彼女は自分自身に言い聞かせるように認識を新たにした。
また風が吹き、草花がざわざわと音を立てた。その音は却って、あたり一帯の静けさを強調していた。静寂の湖の中で、意識という小島だけがぽっかりと浮かんでいるような、ある種の詩的な情感をエーファは抱いた。
それに触発されたように、ぼんやりとした思考を働かせて、エーファはあの時のことを思い出していた。
彼女が思っていたよりも、その瞬間は呆気なく、そして唐突だった。まだ陽の薄い早朝、野営をしていた森を抜け、草原に差し掛かり、霧雨が淡く大地に注ぐ中を一時間ほど歩いたところで、彼女は突如として騎乗した魔物に襲われたのだった。
その魔物の騎士は、全身を黒い装備で固めていた。騎士には首がなく、その馬もまた頭部を持たなかった。丸い盾に長い槍、鞘に収められた長剣、銅鎧、脛当てに至るまで、曇り一つなく磨き上げられていた。騎士はエーファに狙いを定めると、首無し馬に一鞭を当てて突進し、無言で槍を突き出してきた。彼女はそれを避けることができなかった。槍は彼女の腹部を貫き、捻じるようにして引き抜かれた。
痛みはなかったが、衝撃は強かった。傷を負ったエーファは撥ね飛ばされて、無様に地面を転がった。不思議なことに、その瞬間においても彼女の意識ははっきりとしていた。このままでは服が血と泥に汚れてしまうと、そんな場違いなことを考えられるほどに、彼女の意識は明確な思考力すらも保っていた。
彼女は呪文を唱え、自分自身に回復術を行使した。体から魔力が失われていくのを感じるのと同時に、腹部に開いた大穴が見る間に塞がっていく。母親から受け継いだ彼女の術は、このような切迫した事態においてもしっかりと効果を発揮した。
それでも、それはエーファの人生の終局をほんのわずかだけ延ばしたに過ぎなかった。一撃のもとに葬り去ったはずの人間の娘が絶命していないのを確認した首のない騎士は、自身の武技が侮辱されたと受け取ったらしい。馬から降りると、騎士は腰の長剣を抜いて、勢い良く彼女に斬りつけた。
今度こそ、エーファは痛みを感じた。鋭い、叫び出したくなるような、激しい痛みだった。
数分間か、それとも数十分か。長くとも一時間は経っていないだろう。騎士は剣を振るい続け、エーファはそれを杖で防ぎつつ、回復術を使い続けた。騎士の剣は
やがて、戦いとも言えない、無益なエーファの抵抗は終わった。騎士は倒れて動かなくなった彼女をしばらく、ないはずの首から見下ろしていた。黒い剛毛に覆われた手を彼女の首筋に差し伸べ、脈拍が消えたのを確認すると、騎士は真っ赤な血糊を拭うこともなく長剣を鞘へと収め、離れた場所に佇んでいた馬に跨り、遠く去って行った。
エーファにとって、騎士の行動は不可解なものだった。凶悪そのものと言われている魔物ならば、瀕死になった自分を食い散らかすか、または欲望のままに辱めるか、それとも首を切断して頭部を持ち去るか、そういった行為に及びそうなものであるのに。騎士がただ自分の命を奪うだけに留めたことが、彼女にはにわかに信じられなかった。
あるいは、騎士は敵に対する尊敬の念を示したのかもしれない。エーファはそう考えた。最後の瞬間まで抗い続け、時間を稼ぎ続けた自分に対して、それがどれほど絶望的で無意味なものであったとしても、騎士には何かしら思うところがあったのかもしれない。
撫でるように、またしても風が吹いた。エーファは、再度自分の死体を見た。騎士の行為以上に、今の状況は彼女にとって理解のできないものだった。自分は死んでいるはずなのに、どうして未だにこうして意識が現世に留まっているのだろうか。器である肉体が損なわれ、その生理的な機能が完全に失われたのならば、霊魂は直ちに肉体から抜け出て、あの世へと歩みを始めるはずなのではないのだろうか。
だが、エーファはそれ以上そのことについて考えるのをやめた。死したる後も霊魂はしばらくの間この世に留まっていると、前に誰かが言っているのを聞いたことがあったし、それに、現にこうして死んでしまった以上、自分にはもはやどうすることもできない。
ならば、成り行きのままに状況に身を委ねるのが一番ではないだろうか。彼女はそう思い直した。そうだ。何も考えず、何も思わず、ただ自然のままに、流されるように時間を過ごすのが最善なのではないだろうか。
なにしろ、自分は今までそうやって生きてきたのだから。そうやって生きてきて、その結果死んだのだから。
自分自身に納得を強いるように考えに耽っていたエーファは、その時、無粋で乱雑な羽音を耳にした。見ると、大きな黒いハエが彼女の死体の上を緩く旋回していた。ハエは眼下の死体の値打ちを見定めるかのように、少しの間飛び続けていたが、やがて彼女の腹部に降り立つと、穴からはみ出ている臓物へ向かって歩き始めた。
エーファは不快感に顔をしかめた。ハエはきっと、彼女の死体を無遠慮に食い荒らし始めるだろう。そればかりか仲間を呼び、交尾をして、無数の卵を産み付けるかもしれない。数日も経たずして卵からは乳白色の蛆虫が
直前まで状況のままに時間を過ごすべきだと考えていた自分が甘かったことを、エーファは思い知った。
彼女の見立て通り、ハエは続々とその場に集まってきた。この草原のいったいどこに、これだけのおびただしい数のハエたちが潜んでいたのか。半時間後には、彼女の体の上を数十ものハエが這いずり回っていた。
覚悟はしていたが、やはりおぞましい。エーファはうんざりとした気持ちになった。ハエたちが体の上を歩き回る感触が、ほんのわずかながら感じられる。ハエたちはエーファの死肉に唾液をまぶし、細胞組織を溶かして、それを啜ることで滋養を得ているようだった。
ハエたちにしてみれば、彼女は唐突に
エーファは、幼い日に見たある光景を想起していた。村の外れの林の中で、病気か怪我のせいか一頭のヤギが息絶えていて、彼女が発見した時にはハエが群がり寄っていた。彼女が近づいてもハエたちは傲慢なことに逃げる様子を一切見せなかった。遠目に見ると白い骨だと思われた部分は、近くから見るとびっしりとへばりついた蛆虫の集合体だった。好奇心に負けてその蠢く様を目前で見てしまったエーファは、林から出た後、嘔吐した。
自分もあの山羊のようになるのだろうか。エーファは軽く身震いした。自然の成り行きというものが、自分が思っていたような純粋で美しいものなどでは決してなく、実際はハエと蛆虫で構成される凄惨なものなのだとしたら、この世界はなんと醜く、見るに堪えないものなのだろうか……
突然、乾いた銃声が辺りに響き渡った。空気の振動を受けて、ハエたちが動揺したように羽を震わせた。とりとめのない思考に沈んでいたエーファの意識は、急速に外界への接触を取り戻した。
見ると、そこには一人の小さな妖精がいた。尖った耳をした、精悍な顔つきをした妖精だった。彼は小さな灰色のネズミに騎乗していた。濃緑色の軍服を身に纏い、茶褐色の平たいヘルメットを被っている。腕には騎兵銃を抱えていて、腰には弾入れを巻いていた。彼は土埃にまみれていて、あまり見栄えが良くなかったが、その目つきは鋭く、兵士らしい迫力を有していた。
エーファが息を呑んで見守る中、妖精は落ち着き払って再度銃を構え直し、狙いをつけて引き金を引いた。銃声が響くのと同時に、ハエたちは一斉に死体から飛び上がった。死体の上には一匹のハエが残された。ハエは頭部を射抜かれていた。焼け焦げた銃創からは透明な体液が流れ出ている。
戦果に満足した様子もなく、妖精はボルトを操作して銃から空薬莢を排出すると、今度は腰に提げていた革製のホルスターから、一丁の信号拳銃を取り出した。彼は手慣れた様子で拳銃に弾薬を装填すると、天に向かって銃口を向け、一発の信号弾を発射した。
信号弾は蛇が水面を泳ぐような軌跡を描いて宙を昇り、炸裂した。その光と煙の色は鮮やかな赤色だった。エーファはそれを、好ましい色だと思った。村の夏至を祝う祭礼で打ち上げられる花火の中でも、彼女は特に赤い花火を好んでいた。その花火と比べると、妖精が今発射した信号弾は非常にささやかなものだったが、美しさにおいては遜色がないように彼女には思われた。
妖精はネズミに拍車をかけると、エーファの死体に近寄り始めた。ネズミの目の色は穏やかで、妖精の手綱捌きに素直に従っている。小さな鳴き声を漏らしつつ、鼻をぴくぴくと動かし、ネズミは妖精を背に乗せて、死体の周りをぐるぐると歩き続けた。時折、妖精は弾丸を空中に向けて連発した。どうやら、ハエがまた死体に接近しようとするのを防いでいるようだった。
妖精の表情は真面目腐っていて、青い目には真剣な色がこもっていた。エーファは微笑ましい気持ちでそれを見ていた。見たこともない窮屈そうな服装をし、連発できる不思議な銃を持ち、手に持てるほど小さいのに花火を打ち上げることができる道具を操る妖精。どうやらこちらに害意はないらしい。少なくとも、厄介なハエたちを追い払ってくれただけでもありがたい存在と言えた。
ややあって、草を掻き分けて何かがそこへやってきた。それは、またしてもネズミに乗った妖精だった。妖精は複数いた。彼らの先頭に立つ、襟に三つの星のマークを付けた妖精が、最初に死体の元へやってきた妖精に声を掛けた。
「パトリック、お手柄だったな。よく見つけてくれた」
エーファの予想に反して、その妖精の声音は低く、渋いものだった。その言葉は間違いなくエーファも話すゲール語だったが、どこか耳慣れない訛りも含んでいた。言葉こそが人間を人間にしているものだと村の老人は言っていたが、どうやら実際は違っていたらしい。彼女はそう思った。
パトリックと呼ばれた妖精は、背筋を伸ばし威儀を正して、凛とした大きな声で答えた。
「ありがとうございます、小隊長殿。こちらは異常ありません。発見した時には既にハエが集まりかけていましたが、一匹を撃ち殺すと全て飛んで逃げていきました。他愛のない奴らです」
小隊長は無言で頷いた。そして、彼の周りにいる部下たちに顎で示すようにして指示を出した。部下たちはネズミを走らせ、死体の周囲を警戒するように取り囲んだ。そのうちの一人は先ほどパトリックが撃ったのと同じ型の信号拳銃を取り出して、今度は白い信号弾を空に打ち上げた。空中に花咲くそれが、エーファには昼間の星々のように儚く見えた。
小さなシガレットケースから煙草を取り出すと、小隊長は悠然と一服し始めた。手でパトリックを差し招き、近寄って来た彼に一本を渡すと、雑談を始めた。
「お前の信号弾を確認した時、すぐにジェームズを本隊へ連絡にやった。直にみんなここへやって来るだろう。それで、どうだ? 見たところ、確かに死んでいるようだが……」
「はい、小隊長殿、確かに死んでおります。血が全て流れ出てしまったようですし、それに臓物が零れ出ていて身じろぎ一つしません。呼吸もしておりませんし。軍医殿が来れば正式に死亡診断をするでしょうが……」
「うむ。それにしても気の毒なことだ。せっかく村から出て来たのにこんなところで呆気なく死んでしまうとは。あの
「本当に、こんなところで旅が終わってしまうとは思いませんでした。可哀想なことです。エーファはまだ十六歳で、二か月後には誕生日を迎えるはずだったのに……」
エーファは驚いた。こちらは妖精たちのことを全く知らないのに、向こうは自分のことをよく知っているらしい。名前どころか、誕生日まで知っている。この分では、どうやら彼女が村から出て来た事情まで把握しているようだった。誰にも知られていないはずの、その事情を。
彼女を余所に、妖精たちは雑談を続けた。ちょうど無風だった。針のように細い煙草の煙が二筋立ち昇っていく。
「
「なに、連中は素人集団ですよ。我々は戦闘の専門家ですが、奴らは銃を真っ直ぐ構えることすらできません。この間の『シカの骸骨の砦』の戦いだって……」
「いやいや、あいつらも最近妙な知恵をつけてきているからな。ササナの国から軍事顧問を招いたらしい。油断をするのは禁物だぞ……」
彼らが二本目の煙草を吸い終えた頃、また草原にさっと風が吹いた。ちょうどその時、向こうからドロドロというざわめきが聞こえてきた。エーファは視線を移した。そこへやって来たのは、大勢の妖精たちだった。いずれも緑色の軍服を着て、小銃を肩に担いでいる。ネズミに乗った妖精たちが騎兵ならば、彼らは歩兵といったところだろうか。
歩兵の妖精たちは三列の縦隊を作っていた。装備が擦れて、ガチャガチャと金属音が鳴っている。隊列の中ほどで軍旗が翻っていた。軍旗は紺色の布地に金糸で四葉のシャムロックが縫取られている、豪華な意匠のものだった。
威風堂々たる容姿の、大柄な妖精が先頭を進んでいた。それは隊長だった。隊長は立派な口ひげを蓄えていた。銀のサーベルを
彼は大きなハリネズミに騎乗していた。針が尻に刺さらないのだろうかとエーファは心配になったが、頑丈な鞍がそれを防いでいるようだった。あえて危険な動物に騎乗することが隊長であることの証なのかもしれないと、彼女は考えた。
隊長は短く、鋭い声を発した。総勢三百人ほどの数の歩兵たちが、一斉に歩みを止めた。小隊長とパトリックはネズミを走らせ、隊長の傍へ行った。報告が行われているようだった。隊長は鷹揚な態度で頷くと、隣にいた副官に声を掛けた。副官は列の後方へ走って行った。
ほどなくして、後ろの方から副官に連れられて一人の妖精が小走りでやってきた。妖精は白い肩掛けカバンを提げていて、分厚い丸いレンズの眼鏡をかけていた。細長い、貧相な顔つきだった。彼は運動が苦手なようで、ちょっと走っただけで息を切らしていた。どうやら、彼が先ほどの雑談の中で出てきた、軍医のようだった。
軍医は隊長から二言か三言ほど何かを言われ、小刻みに頭を何度か下げると、それからおもむろにエーファの死体へ向かって歩き始めた。二人の歩兵が梯子を担いでその後ろに従った。梯子は乾燥した蔓草で出来ていた。
地面からエーファの左頬にかけて、梯子が立てかけられた。エーファはほんの少しだけ、こそばゆいものを感じた。軍医は横木に手を掛け、昇ろうとした。だが、彼の昇り方は非常に遅々としていた。そのあまりにも鈍い動きを見ていられなかったのか、二人の歩兵は軍医の尻を押し上げた。それに助けられて、軍医は死体の顔の登頂を果たした。歩兵もその後に続いた。
三人の妖精はエーファの顔の上を進んでくる。あまり土足で顔を踏まないで欲しいと彼女は思った。そんな彼女の思いを無視するように、彼らはまず、顔にかかった長い金髪を払い除けた。エーファの死に顔が露わになると、彼らは次に、閉じられているエーファの右目の
軍医は独り言を漏らすように言った。
「瞳孔散大、対光反射は消失している」
見た目に違わず、彼の声は陰気で、ぼそぼそとしていた。次に軍医は顔から降りて、エーファの剥き出しになった薄い胸へと向かった。首から下げた聴診器を取り出すと、彼はもったいぶった手つきでそれを肌に当てた。
エーファは、ほのかにひんやりとした感触を覚えた。妖精とはいえ男性に胸を見られ、触れられているのにも拘わらず、彼女は羞恥を覚えなかった。死が、そういった感情をおぼろげなものにしているのかもしれなかった。
しばらくして、軍医は顔をあげた。結論づけるように、彼は言葉を発した。
「心臓拍動停止。呼吸も完全に停止している。死んでいる。エーファは確実に死亡している。残念なことだが」
クリップボードに挟んだ黄色の紙に鉛筆で何かを書きつけたあと、軍医は二人の歩兵を連れて死体から降りて行った。
エーファは軍医の言葉を聞いて物悲しい気持ちになった。確かに、自分はもう死んでいるとは自覚していたが、たとえ妖精でもこうして第三者によって死亡を宣告されたとなると、ほろ苦い感情を覚えずにはいられなかった。
ついでなら、こうして死んでいるのに自分を見ることができている状況について説明してくれても良いのに。そう思うエーファの周りでは、妖精たちの動きがにわかに活発化していた。隊列を組んだまま待機していた歩兵たちは三つの小隊に分かれて死体の頭の方へ回り、黙々と草花を刈り始めた。(続く)
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