或る転生者の目覚め

室太刀



 何かを成すには勇気が要る。物事を為すには判断、決断が必要だからだ。何をしたいか。そのための手段は何か。どのような危険があるのか。何を犠牲にするのか。為せば成る、とは、それを為すための決断こそが何よりも難しいものであることを示した言葉だ。決意し、覚悟を決めて行動する勇敢さを持つ人間を、僕は尊敬する。






 「───誰か───」


 いつか、助けを求める声を聞いた。か細く、弱々しい小さな声。しかしその声は、確かに誰かの助けを求めて発されたものだった。


 「待ってて───!」


 その「声」を聞いた瞬間、僕は走り出していた。心からの、助けを求める呼び声。それを聞いた時、僕はいつだって居ても立ってもいられなくなる。どうすることもできなくなって、魂が叫んでいるような悲痛な求めを、僕は無視することができなかった。

 大事なものを失くして泣いている小さい子だったこともある。道に迷ったお婆さんだったこともある。人混みの中で進めなくなった目の見えない男性だったこともある。急に倒れた人を救急救命したこともある。喧嘩に巻き込まれている人を見て通報で助けを呼んだこともあるし、線路に飛び込もうとした人を引き留めたことだってある。

 何も考えずに動いた訳じゃないし、向こう見ずだった訳でもない。考えなしに動けるほど、僕は直感に優れている訳ではない。怖いものは怖いし、危ない目に遭いそうな時は身体が竦んでしまう。自分に何ができるか、どうしたらいいのか分からないことだってあった。僕は決して頭の回転が速い訳ではないのだ。

 それでも僕は、「助ける」という判断において迷ったことは無かった。ただ、最初のひとつを除いては。





~~~~~~~~~~






 「さくら───ッ!!」


 その時、僕はただ何をすることもできず、妹の名前を叫んでいた。



 その日は季節外れの大雨だった。一帯に降り注いだ急な豪雨を集めて、見る間に川が氾濫。住宅地が水に浸かった。あまりに早い洪水に避難は遅れ、僕たち兄妹は家に取り残されていた。両親がともに働きに出ていたということもある。不安だけが募る中で、僕たちはただ怯えるしかなかった。

 浸水していく建物。いつ天井まで達するやも分からない、そんな恐怖は小さな女の子には耐えがたいものだったのだろう。


 「おにいちゃん、逃げよう……!」

 「逃げるって言っても、どこに……道も全部川みたいになってるんだよ!?」


 もはや逃げ場もないほどに、僕たちは孤立した状況に置かれていた。周囲が浸水して逃げられない時は、可能な限り一番高い場所に上がって救助を待つのが良いことは報道で知っていた。それでも妹は、逃げると言って聞かなかった。


 「こっち! この道は高いところに繋がってるから、こっちからなら逃げられるもん! 逃げよう!!」

 「待ってよ、こんな雨の中逃げたら余計に危ない……ああもう!」


 脇目も降らず駆けていく妹を追って、僕も家を飛び出した。

 次の瞬間、先ほどまで僕らの家のあった場所に“山”が落ちてきた。雨で緩んだ地盤が崩れ、土石流となって家を押し流した。もしあのまま家にいたら……想像するとぞっとする。妹が逃げ出し、無理矢理にでも僕を引っ張り出さなければ、今ごろ僕はあの土石流の下で命を落としていただろう。この子のおかげで命拾いした……


 「……桜?」


 気が付くと、前を走っていた妹の姿が見えない。ほんの少し、目を離した隙にいなくなっていた。


 「……ぃちゃ……」

 「!? 桜っ!!?」


 向こうの方から声がした。見ると、道が途切れて濁流が小さな川をなしていた。そして目に映るのは、その川の中ほどにある木にしがみついている妹の姿。


 「おにいちゃ……たすけて……」


 どうやら桜は、目の前のこの川に気付かず落ちてしまったらしい。さっきの土石流の轟音に気を取られていたのかもしれない。助けに行きたいが、問題はこの泥の川。一歩でも足を踏み入れたら、押し流されてしまいそうな荒々しさがあった。大蛇おおへびのように大地を這って唸り声を上げ、僕らを飲み込もうとする奔流。桜は、手を伸ばせば届きそうな距離にいる。しかし、ひとつでも間違えたら足を踏み外し、二人揃って流されてしまう。

 手が出せなかった。伸ばそうとした手をひっこめて、周りを見回す。少し上に行ったところに、木々が倒れて橋のようになった場所が見えた。あそこを渡って反対側へ行けば、より確実に桜を助けられる。


 「桜……待ってて! 向こう岸から助けに行くから……それまで待っててくれ!」

 「……うん……待ってる……!」


 桜は、怯えながらも信頼のこもった目で頷いた。



 道なき道をかき分けて進み、倒木でできた自然の橋を渡る。下流を見ると、桜がまだ木にしがみついているのが見えた。


 「お兄ちゃんが必ず、助けてみせる……!」


 対岸の道は、さらに深い森のようになっていた。必死になって道を探し、桜の元へ急ぐ。



 そして、あの川の向こう岸まで来た時。


 「……桜?」


 妹の姿も、彼女がしがみついていたあの桜の木も。跡形もなく消え去っていた。





~~~~~~~~~~





 あの大雨の日、僕は自分の家と妹を失った。あの時、手を伸ばしていれば。もし迷うことなくあの子の側にいられたら。あの手を掴んで離さなければ、失わずに済んだかもしれないのに。そんな後悔と絶望、そして自分に対する怒り。二度と取り返しのつかない「あやまち」への、果てることのない慟哭。

 そしてあの日以来、僕は誓ったのだ。助けを求める人がいたら、迷わないと。

 臆病さゆえに大切なものを失い、自分だけが生き延びた。大事なものを犠牲にして救われた命だ。決して無駄にはできないけれど、かといって何も為さないことだけは許されない。



 だから今、助けを求める声を聞いて、身体が動かずにはいられなかった。

 “助けて”。確かにその声を聞いた。町のはずれの川の、橋の真ん中。奇しくもそれは、あの日のように雨の強い夕方だった。橋の下の方から声が聞こえた気がして、そちらの方を探して回る。すると、女物の靴が一組、綺麗に並べられているのが目に入った。これは……

 嫌な予感が頭をよぎる。目を凝らして川を見下ろすと、川岸に近い橋桁に掴まっている少女を見つけた。


 「助けて───」


 僕を見つけた瞬間、彼女は助けを求めてきた。


 「待ってて! すぐに助けに行くから!!」


 僕は即座にそう言い放った。

 橋を渡った先の護岸から、川岸に降りられる場所を探しつつ、電話で助けを求める。災害救助を求めるにはどこへ連絡すればいいかなんて分からなかったが、この国には頼れる119番の通報先がある。幸いにもその判断は間違いなかったようで、すぐにも救助に向かうとのこと。併せて、絶対に助けに川へ入らないようにも念押しをされた。ただの素人が水難救助をすることなど難しいことは、僕だって充分わかっている。だが……


 「! まずい!」


 助けを求める彼女がぐったりとする様子が目に映った。もう限界が近いのかもしれない。電話越しに止められるのも聞かず、僕は彼女のもとへ駆け出した。幸い川は途中までは水深も浅く、流れも速くないので少し泳いだだけで辿り着くのは容易だった。


 「……あなた……は……」

 「大丈夫。もうすぐ助けがくるから。」


 橋桁に掴まり少女を抱きかかえると、彼女は安心したのかぐったりと身体から力が抜けた。僕が彼女を助け出すことは無理でも、一緒に救助を待つことならできる。僕が考え得る限りで最良の選択だった筈だ。ただ僕が何もせず助けを待っているだけだったら、きっとこの子は力尽きていた。この決断が間違いであったかどうかなど、後になってからじゃないと分からない。

 救助を待つ間、無事を確認する電話口の声に応えながら、僕はずっと腕の中の少女を抱きしめていた。あの日救えなかった女の子を、僕は今度こそ救うのだ。何があっても、絶対にこの手を離さない。その決意を胸に、僕は何分でも何時間でも待つつもりだった。



 だが、災禍とは積み重ねてやってくるものだ。

 ドン、という轟音とともに、周りの空気が変わった。この土のような臭いは……覚えがあった。

 濁流が押し寄せ、みるみるうちに水位が上がっていく。どうやら上流で土砂崩れがあったようだ。水の色が土色に変わり、勢いもぐんぐん増していく。僕たちを飲み込み、連れ去ろうとする。片腕で女の子を抱えている今、橋桁に掴まるにも片手しか使えない。なんとか両腕で掴まろうとしても、この水流ではこの子が流されていってしまう。

 限界が近かった。だが、諦める気などさらさらない。僕は、絶対にこの子を助ける。


 「……あ……」


 腕の中の少女が声を出した。どうやら気が付いたようだ。絶望的な状況の中で、ただひとつ希望を持てる朗報だ。


 「目が覚めたか。とにかく掴まってて……!」

 「あ……う……」


 少女が必死になってしがみついてくる。自由になった右腕で、橋桁に掴まる。

 絶対に助ける。その想いを新たにした、そんな時。


 ゴゴゴゴゴ───ッ!


 ひと際大きな濁流が、僕らを押し流した。


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