バニラの手

石田明日

カナブン

 髪の毛が乾き切らない放課後。もうすぐ四時になるというのに、天色の空と入道雲が校庭を照らしている。ひぐらしが鳴くことなく、授業すら邪魔をするあいつらはまだ鳴いていた。それに紛れて、小さく野球部の声やサッカー部の声がした。声自体は大きいはずないのに、蝉のせいで小さく聞こえてしまう。

 端の方にあるグランドで汚れた手で顔を拭っている裕介と目があったような気がした。サッカー部は相変わらずふざけている。マネージャーの美穂が何か注意している様子は見えるが、まんざらでもない表情だ。生ぬるい風が吹き、閉じっぱなしの片方のカーテンが揺れた。濡れている髪の毛のおかげで風が心地いい。生ぬるい風を冷たく感じることはできないのに、体温は下がってく一方だった。

 私以外の人生に触れて、ある程度満足したら窓とカーテンは開けたままにして席に戻った。こんなことで満足できるわけがないけど、私はこれから先も気づかないふりをして生きていく。私しか感じられないこの気持ちと景色を鮮明に思い出して生きていくんだ。

 今日、たまたま隣の席の高柳くんが学校を休んだ。先生には夏風邪だと聞いた。高柳くんは他の男子より色が白く、細い。病弱とまではいかないが、少し心配になる体型だ。そして、今日の日直は私たちだった。

 正直、あまり話したことがなかったし、こうやって放課後暗い教室で二人きりは少し気まずかったから、休みと聞いた時ホッとした。だけどなぜか今日に限って日直の仕事が多く、居残りする羽目になってすぐに帰る予定が壊れてしまった。頼まれたら断れない性格というわけではないが、何でもかんでも引き受けてしまう。断ったことによって頼んできた人の何かが失われてしまうことが怖くて、笑顔を作ってしまう。理由はどうであれ断れていない時点で断れない性格なのか。

「何よそれ」

 小さく声を出し、体を丸めながら笑いを捨てた。


 何もかも引き受けてる私を、見ていた裕介が

「何でもかんでも引き受けてんじゃねーよ」

と、冷たい目で言葉を放った。

「そうだね、ごめんね」

 反発してしまえば、私が目を背けていたことと向き合わなくちゃいけなくなる。

 裕介は私にだけ言葉が強く、冷たい。だから、ごめんね。と言ってしまえば何も言い返すことはない。毎回何か言いたげな表情をして、静かに何事もなかった表情や声色でクラスの人たちのところへ戻っていく。彼の考えていることはなんとなくわかる。やりたいことも、言いたい言葉も大体予想はつく。だけど、私たちにそれはいらない。私たちは違うんだから。

 これが何度もあった。断りきれない私に裕介が何かしら言葉をかけてくる。私が何かおかしいことでもしているのか? と、腹が立つ回数も多かった。でも、だからと言って感情的になっても仕方ない。何か解決するのであれば、喜んで感情を出すだろう。裕介には毎回申し訳ない気持ちが伝わっているのだろうか。

 日誌をペラペラとめくりながら、目を閉じた。高柳くんって、どんな人なんだろう。と、気になったわけではない。たまたま開いたページに、高柳と書いてあっただけだ。

 こんな繊細でおとなしい字を書く人なのか、と驚きはしなかった。彼自身もそんな感じがする。だから、目を閉じたときに高柳くんのことが思い浮かんだ。でもいくら考えたって、考え込むには情報が少なすぎる。

 考えることをやめて、ゆっくり目を開けようとしたら、外から監督の罵声や怒鳴り声が聞こえた。私たちの学校の野球部は三年生が多く、今の時期は緊張が走っている。甲子園に詳しいわけではないが、父が必ず甲子園を観ていたので、知りたくもないことを知ってしまっていた。

 必ずしも三年生が選ばれるわけではないことはきっと本人たちは分かりきっている。私なんかがわかったような口を聞いてはいけない。同情もダメだ。無念を噛み締めている彼らの表情は、今日の空の天色とぴったりで、彼らはこの日のために生まれてきたような気がする。

 四月ごろに選ばれるレギュラーメンバーや補欠はいつでも外せるし、いくらでも変わりがいることをきちんとわかっている。部外者の私でこんなに胸が苦しくなるということは、彼らが野球を始め、甲子園を目指すと決めた時からこの葛藤はあったのかもしれない。

 今更そんなことを思ったって、来月には人生のかかった試合が待っている。彼らの人生は私には関係ないが、だとしても苦海に身を放り投げた気分になる。

 徐々に体温が上がってきた。私の髪の毛が乾いたことを感じとり、ハンカチを探した。おでこから汗がじんわりと出てきた。

 この後、六限目に使ったプールの掃除がある。ハンカチで汗を拭いながら、気が進まない私をなんとかなんとか納得させようとした。プール掃除は私一人だと大変だ。どうしたものか、と考えていると、緊迫した空気を破るかのように、笑い声が教室に溢れた。

「もしもし? どうしたの?」

「今平気?」

「大丈夫だよ。てか、ずっと見てたんならわかるでしょ」

 そう言いながら、美穂は上を向いた。美穂の目は愉悦の色で満ちていた。

 電話を切り、窓から少し身を乗り出して、大きな声を出した。

「サッカー部の皆さん、今から水遊びしたくないですか?」

 保育園児に話しかける時と同じように、めんどくさいことを比喩して伝えた。すると、

「それってプール掃除でしょー?」

 美穂が余計なことを言った。隠してたのに! と、静かにしてよ。のジェスチャーをしたがもう遅い。なんだよー。と落胆した声がちらほら聞こえるが、最終的にはみんな素直に謝って断ってくれた。仕方ない、一人で行くか。ととっくに書き終わっている日誌と荷物、体育着を抱えて教室を出た。廊下は教室よりずっと静かで冷めている。二年生の夏、きっと皆汗をかきながら、色々なことを謳歌してるはずだ。昼休みの騒がしい男女の声を思い出しながら、職員室に向かった。

 「吉田先生いらっしゃいますか」

 クーラーが効き、コーヒーの匂いが充満している職員室では、先生たちが死んだ目でデスクトップと向き合っている。中学の時、涼しいという理由だけで羨ましくなっていたが、今、この光景を理解することができるようになってしまい、何の感情もない。

「今はいないみたい、どうしたの?」

 保健室の先生が優しく笑いかけてくれた。私はこの人が苦手だ。

「日誌渡したくて。あと、屋上の鍵借りていいですか? プールの掃除も頼まれてるので。」

「えー! 加藤さん偉いね。もう一人の子は?」

 甲高く、鬱陶しい声を出し、職員室にいた先生たちの視線が一斉に私たちに集まった。いい加減にしてくれ、だから私はこいつと関わりたくなかったんだ。

「休みです、鍵もありがとうございます」

少し勢いよく頭を下げてしまったが、急いで職員室を出た。

 もらった鍵にはボロボロになったストラップがついていた。それを優しく包み込み、あまり使われていない階段に向かった。一段目に足をかけたときに、着替えていないことに気づいた。今から更衣室に戻るのはめんどくさい。屋上のドアの横に更衣室があるが、私が借りたのは屋上の鍵のみだ。

 ため息をつきながらダラダラ歩いていると、階段の端に死んだカナブンがいることに気がついた。なんとなく足を丸め、干からびてまだ輝きを失ってない死骸は、生きていなくても不気味で、反対側にわざとらしく詰め寄って階段を登った。

屋上の扉を開けると、誰かが座っていた。もう五時をすぎたというのに、日差しが強い。誰なのかよく分からないが、遠くの方を見つめている気がした。

 ふと下を見ると、扉のすぐ近くに丁寧にカバンと靴、そして靴下が並んでいた。きっと彼のものだろう。

 ミーンミンミンミンとまだ止まらない。まだ、まだ鳴き続けている。

 目眩がした訳では無いが、今見ている世界はグラグラと揺れていて私を不安にさせた。

 汗がくすぐったい。手が異様にベタベタする。私はこの夏を愛せない。

 静かにカバンを置き、私も彼と同じように裸足になった。足音を立てないように、彼にバレないように。ではなく、流れるように彼の隣に座った。惹きつけられたわけではない。ただ、私が流されてしまいたかったのだ。

「暑くないですか」

 彼は驚きもせず私の顔を少しだけ見つめ、また遠くの方に視線を戻した。

「暑いです」

 当たり前の会話で、私の嫌いな質問。

高柳くんがどうしてここにいるのかわからない。風邪だといい、休んでいたくせにどうしてこんな所にいるんだろうか。

「日直の仕事私が全部やったんだよ」

 顔を覗き込んだ。夏にふさわしくない白い肌が、今は羨ましい。彼はどこにいたって寒さに怯えてしまうのではないだろうか。そう考えると夏とお似合いなのかもしれない。

「明日だと思ってたんだけど、もしかして今日日直だった?」

 優しく私を見つめているが、この目を私は知っている。無駄に手に力が入り、ザラザラとしたプールサイドのせいで手のひらの皮膚が削れた気がした。

「残念でした〜。今日なの。風邪だって聞いてたから心配してたの、よかった」

 どうして安堵したのかわからないが、よかったと口からこぼれてしまった。本当に安堵したのか? そもそも心配していたかだってわからなくなってきた。なるべく彼に無責任なことは言いたくなかったのに。

「仮病だよ。小林さんに全部任せちゃってごめんね、お詫びにアイス奢るよ」

「私の名前知ってたの? 全然いいよ、気持ちだけ受け取っとくね。でもアイスは食べたいから帰り一緒に買いに行こ」

「知らないわけがないでしょ。いいね、行こうか」

 桜の花びらが散る時と同じ風が吹いたような気がした。彼はまるで桜のような笑い方をする。無責任に前を向けと言わんばかりの桜の花。無くなると春が終わったと錯覚してしまう桜の花。

 夏になればセミたちが集まり、水分を含みすぎた葉の影が私たちを休ませてくれる。彼はきっとそんな人だ。強くなければ弱くもない。ただ、毎年必ず花を咲かせ、葉を落とし、死んでいく。

「じゃあ私掃除始めるから濡れたらごめんね」

 まだヒリヒリと痛む手のひらを庇いながら、立ち上がった。その勢いで汗がプールサイドに落ちたが、どうだっていい。ワイシャツも汗できっと透けているはずだ。汗を私は彼のいる夏を、存分に楽しまなければいけない。


 酷く暑い蛇口を何とかひねり、ホースをプールの中に投げ込んだ。元々少し水は溜まっていたが、入る気にはなれず、新しい水をゆっくりと貯めていった。

 プールは小さい頃、母のチラシを無理やりとって見つけた宝石と同じような輝きを放っていた。あの時と同じように心は弾まないが、どこか懐かしい気持ちになった 魅力のな口なったものたちを見つめていると、どうすることもできずに必死に生きていたことを後悔してしまう。

 見つめていた水から目を逸らし、モップを取りにいくことにした。

 モップの置かれている倉庫は鍵が壊れている。掃除したくないななんて思いながら、壊れた鍵を弄んだ。カチャカチャと冷たい音を鳴らすカギが羨ましくて、その場に座り込んだ。私も早くこれになりたい、早く無駄なものに変わってしまいたいと思えば思うほど体の力が抜けていった。

 高柳くんは何を思ってあそこに座っていたのだろうか。何度も頬を伝って垂れたであろう汗が襟に染み込んでいたことを思い出した。

 倉庫の中に入ると、むせてしまいそうなほどじめじめとしていて、埃の匂いが充満していた。ずっとここいたら息の吸い方すらも忘れてしまいそうなほど、何かで溢れていた。

 下には蝉の死骸が転がっている。裸足で来てしまったことをすぐに後悔した。見る気は一切なかったが、足の裏を見てしまった。顔の自由が効かなくなってしまうくらい汚れていた。口の中になんとなく苦みが広がり、さっさと綺麗なモップを選んで倉庫から出た。

 生暖かい風が私を殴ってきた。そして気づけば空が真っ赤になっていた。さっきまであんなに青く、楽しげに輝いていたのに、私がダラダラしてる間にただ切ないだけの赤い空になってしまっていた。

 ホースの水が止まっていた。きっと高柳くんが止めてくれたんだろう。

 スカートが捲れないように気をつけてプールの中に入った。すると高柳くんも落ちてきた。私にも、高柳くん自身にも水がかかり、少しの間二人で首を傾げてしまった。

 それがどうもおかしくて、泣きそうになった。夏はきっと、夏というだけで私たちの思い出に残ってしまう。何も考えたくないくらい暑くて、暑いと言うだけで無駄に疲れる。きっとそれのせいだ。汗をかいたり、水を多く飲んだりして、自分達の努力をどうにかして認めようとする。

「楽しいね」

 高柳くんが私に笑いかけてきた。りんごが噛み砕かれる音が蝉の鳴き声と共に私の口元に響いた。


 せっかく髪の毛が乾いたと思ったのに、高柳くんのせいでまた振り出しに戻った。お互い湿った制服のお陰でさっきよりは汗をかいてはいなかった。

「あそこの角曲がったら駄菓子屋さんがあるんだけど、コンビニの方がいいかな」

「今の僕たちがコンビニなんて入ったら風邪引くよ」

「誰のせいよ…」

 小さく笑い、足取りが軽くなっていることを悟られないために、いつもよりゆっくり歩いた。私のスピードの合わせて歩いている高柳くんは相変わらず冷たいままだった。

「私何にしようかな」

「このアーモンドのアイス懐かしくない?」

 駄菓子屋につき、外にあるアイスケースに二人で顔を近づけた。これ懐かしいね、こんなの売ってたんだ、初めて見た。とはしゃぎながらアイスを選んだ。

 この時間が一生続けば、だなんて思わなかった。幸せは無くならないと幸せとして成立しないからではない。失うことが怖いからでもなんでもない。ただ、私は彼とだけは人生の一部であろうと楽しみたくなかったのだ。幸福感と触れ合ってしまえば私の何かが壊れるような気がした。

 私は結局定番なはずなのに一番多く余っていたバニラアイスにした。当たり付きと書いてあった。高柳くんは、見つけた時に目を輝かせていたアーモンドのアイスにしたらしい。

 駄菓子屋を出ると、目の前に分かれ道がある。聞いたところ高柳くんは右で、私は左。だけどアイスを買ってしまったからまだ帰りたくなかった。

 それは高柳くんも同じだったみたいで、来た道を戻った。

 暗くなってきたからと言って、外はまだ暑かった。アイスが溶けて私の手についたが、そんなこと気にしなくていい。手がベタベタして不快だけど、私はそれを夏だからと言う理由で許してしまった。


 家に着くと案の定、姉の喘ぎ声と母が腕を切ったであろう血痕が床に落ちていた。父はまだ帰っていないみたいだ。

 ハイブランドのダサい靴を踏まないように、靴を脱いだ。

 家を飛び出してしまえばいい、息を切らして、地面に寝転がってしまえばいい。こんなところから抜け出してしまえば。と何度も考えた。何度も頭の中で走っている私を想像した。だけど、そんなことはできなかった。

 なんで? と言うことは簡単だ。わからない人が私の行動に違和感を抱くことはきっと普通なのだ。普通なんて今更通用しないと思っていたがそんなことないんだ。

 諦めたくないんだ。私が愛されていた事実はまだ残ってる。まだ消えていない。だから家族を信じて、希望を捨てずに苦しむことはなんでもないんだ。かすり傷にもならない。痛くも痒くもない。

「ただいま」

「遅いね、何してたの? 美香も私のこと見捨てるの? こんな血だらけなのにお姉ちゃんは無視なんだよ? ひどいよね、なんでなんだろう。お母さんが悪いのかな。お母さんが死ねばいいのかな」

「今日も頑張ったのね。もっと早く帰ってくればよかった。ごめんなさい。傷の手当てしない? 私はお母さんのこと愛してるよ。死んじゃったら私だって生きていけないよ」

 顔に激痛が走った。これは切れたな。とそっとこめかみあたりに触れた。血がべったりついた手を母が見た瞬間、反対側にもさっきと同じような痛みと感触が私を包み込んだ。母が何を私にぶつけてきたのかしらないが、とにかく母を抱きしめた。

 声を荒げ、私に手をあげる。私がいないときはリストカットやODをくり返している。いつからこんなことになってしまったんだろう。なんて考えたって意味がない。とにかく今は母が落ち着けるように、私の痛みを無視した。

「ごめんね、ごめんね。こんなんでごめんね」

「うん、うん」

 私の血が母の肩に落ちた。

 謝り続ける母に対して感情なんてない。同情して、母が一番可哀想だったらきっとなんでもいいのだ。もう機能しなくなった人間に残るのは欲だけだ。壊れることを知らない私はその欲を満たすためだけに生きていないといけない。信じるものがあるから、私は逃げられない。

 やっと母が眠りについた。姉の喘ぎ声も止んだ。その代わり、この前とは違う男の笑い声と、姉のはしゃぐ声が部屋に咲き乱れていた。

 むしってもむしっても無くならない花。指先がボロボロになり、血が滲んでも私は花をむしり続けた。


 バッと広げた掌にはあの時垂れてきたバニラの香りが残ったままだった。

 

 


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