第10話 境界線

 2週間後、わたしは実家に向かうために電車に乗っていた。


 特急オホーツクに飛び乗る。最後の電車の乗り換え。ここから更に、1時間バスに揺られなければならない。


 人間の数より牛の方が多い、海沿いの小さな街に実家はある。いっそ牛に生まれた方がよかったと何度も思ったものだ。生まれた子牛には名前が付けられ、一頭ずつテントに入り、時間になったら人間が哺乳瓶で乳を飲ませる。撫でてみたり、お腹空いたかい?と聞きながら自分の手を吸わせたり、人間の愛情を受けながらすくすく育つ。そんな風にされてみたかった。お腹空いてないかい?なんて、聞かれてみたかった。


 人口が少ないから家の事情は何でも筒抜けになる。私の実家の事も例にもれず。母親は朝から酒飲んでばかり。頭がおかしくなったのか、誰にでも突っかかっていく。旦那は家に帰らない。知らない女や、モンモン(刺青)の入ったやつが出入りしてる。関わらん方がいいよ、と。


 悲しいけど、脚色は一つも入っていない事実。当然仲良くしてくれる子なんていなかった。イジメと言うのとは少し違う、触っちゃいけない子という扱いを受けてきたし、顔にアザができていた時も、みんな何も見ていないかのように振舞った。誰も「どうしたの?」とさえ聞かない。


 そんなところに帰ってこなければならなかった理由。それは、普通の暮らしをする準備。もし捜索願でも出されているのなら取り下げてもらわねばならないし、住民票を異動させなくてはならない。それをしないと銀行口座も作れないし、携帯も、住むところも自分の名前で契約できないし昼間の仕事を探すことができないのだ。


 あの夜を越えてから、拍子抜けするほど普通の恋愛が始まっていたように思う。確信はない。自分の事だけどよくわからないのだ。


 そもそも、人との距離を掴むのが苦手で、少し仲良くなっても、どこまで自分をさらけ出していいかわからない。もし、こんなことを言って嫌われたらどうしよう、嫌われてショックを受けないように最初から、あまり相手の懐に飛び込まないほうがいい。それに、元カレとの気持ち良くない別れがずっと尾を引いていた。


 好きになっても叶わない可能性があるのだから溺れるのは危険、と無意識のうちに線を引いていたように思う。「ここからはあなたは入れない」と。


 風俗を辞めるのには、ちょっと時間がかかる。雑誌の掲載の都合と退店のイベントを打たなければならないから最短で2か月。その前に、できるだけいろんな問題をクリアしておきたかった。。「普通の女の子」になって、もう一度きちんと自分の気持ちに向き合う必要があると思った。


 しょうちゃんには、まだ何も言っていない。まだ将来を約束するような付き合いでもないのに、風俗辞めます、昼職やりますなんて言ったらなんか期待してる重い女だとドン引きされるんじゃないかと心配だった。期待してなかったわけではないけど「早く仕事辞めなよ」と言わないあたり、まだそういうことも考えていないんだろうと思っていたから。


 バスを降りると、海の匂いが容赦なくまとわりついてきた。私はこの匂いが大嫌いだ。この匂いを嗅ぐと、一緒に涙の味と血の味を思い出してしまう。からかわれた時や殴られた時、夏だろうが冬だろうがいつも砂浜まで走った。


 冬、この海は凍る。


 波の音は聞こえず、ただ、氷がぶつかって軋む音だけが響く。海に来て心地よいと感じるのはその時だけだった。水平線まで広がる氷の世界を、みんな綺麗だという。私もこの景色のようになれたら誰か褒めてくれるかな。そんな風に思っていた。どんなに波がうねっても、氷の上は静寂だけが広がる。そんな人間になりたかった。


 この海以外は、誰も救ってくれなかった。愛着も何もない街。


 さっさと済ませて早く帰りたい。ここは私がいるべきところじゃない。そう考えながら足早に歩いていると、向こうから見たことのある歩き方の人間が近づいてきた。母だった。


 酒の匂いをプンプンさせて、私に抱き着いて「心配したんだよぉ~」とと背中を撫でる。やけに優しい雰囲気に一瞬動揺したけれどすぐにその理由が分かった。


 「母さん、お金が足りなくて大変なんだ…何だかあんた、いい恰好してるじゃない。それに綺麗になって。お金あるんでしょ?働いているんでしょ?」…私の着ているものや持ち物を舐めるように見ながら猫なで声が忌々しい。


 変わらない。何もかも変わってない。私には長かった4年、だけどこの人にとっては何でもない4年だったという事実に頭がクラクラした。


 「母さんの苦労を少しはわかってくれてもいいでしょ!あんたは逃げれば済むけど母さんは逃げられないんだからね!」そう喚き、私の髪を掴んで振り回そうとする。


 祖母は私がいないうちに鬼籍に入り、父も妹も、ここ何年かは毎日深夜にならないと帰ってこないらしかった。やっとたどり着いた家の中はろくに掃除もしてないように見える。ビールの空き缶タバコの空き箱、レディースコミックや新聞やティッシュ、脱ぎ散らかした服が散乱している。


 哀れだと思った。


 人生なんて、選択の連続だ。自分で自分を守る道を選んだ私と、ひたすらに「誰か守ってよ」と懇願し縋り付くことしかしなかった母。結局は誰も寄り付かなくなって、依存先が酒になっただけなんだろう。私は逃げられないなんて言ってるけど、勝手に、逃げない選択をしたのはあんただ。


 私に何とか纏わりつこうとする母を、力いっぱい振りほどいた。「どうせまともな仕事じゃないんでしょ?私が育ててやったのに、偉そうに!」という絶叫が虚しく響く。


 ぷつんと糸が切れた。育ててもらった?あんたがしていたのは生かさぬように殺さぬように飼育してただけじゃん。


 「育てる力量もないくせに勝手に産んだのはあんたでしょ?育ててやったって言えるくらい大したこともしてないくせに。確かにまともな仕事はしてません。だけど、あんたと違って私は一人で生きていけてるの。偉そうなのはどっち?」


 母の胸倉をつかんで、静かに言い放った。私にやり返されたことに驚いたのか、母はその場にへたり込み何も言わなくなった。


 このやり方が乱暴なのはわかっている。けれど、言わせっぱなしだとこの人はヒートアップしてたぶん暴力を振るうだろう。昔はそういう人だったから。


 そんな目に遭いたくなかったのもあるけれど、この人にこれ以上そんなことさせたくないという気持ちの方が大きかった。産んでくれて、生かしてくれたから今の自分がある。感謝の言葉なんてこの人には届かないから、せめて娘に暴力を振るうという行為を減らしてあげたかった。暴力なんて無益だと、少しでも分かって欲しかった。


 心配をかけた、せめてもの償い。


 次の日、町役場でさっさと手続きを済ませ帰路につく。私がここでやるべきことは終わった。


 私はもうここにきてはいけないと思うことができた。来てよかったんだと思った。


 何だか清々しくて、世界が変わって見えた。どうしてなのか今になってもよくわからないけれど、重い鎧を脱ぎ捨てたように、身体まで軽くなったように思えた。


 


 


 


 

 


 


 


 


 


 

  

 


 


 


 

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