第6話 留まるか立ち止まるか
「詩織ちゃん、あのリーマンだよ。地震の時の」
私は飛び上がって驚いた。しょうちゃんだ。
あの地震の日から1か月とちょっと。もらった名刺は、しょうちゃんの匂いが消えた頃に目につかないところにしまっておいた。もちろん連絡もしていない。
私の事なんて忘れているだろうと思っていたし、いっそ、その方がいいと思っていたけど…
「どうする?もう詩織ちゃんいるって言っちゃった」という困り顔の店長のために重い腰を上げる。
どんな顔をして会えばいいんだろうと思った。せっかく連絡先を渡したけど、ナシのつぶてだった女。自分だったらどう思うだろう。
ムカついてるから文句の一つでも言うつもり?せっかく外で会おうと思ったのにとか。そのくらいしか思いつかない。想像力の無さは底辺女の悲しい性とでも言うべきか。
呼び鈴を鳴らす。足音が聞こえる。思わず身構えた。が、ドアを開けたしょうちゃんは満面の笑みだった。身体や顔はまるでゴリラのようだけれど、笑顔は子犬のようだった。ブルドックやパグがもし笑ったら、こういう顔になるんじゃないかと思うような、何とも人懐っこい笑顔だった。
私がつられて笑うと、マシンガンのようなトークが炸裂する。
「あの地震の後始末が大変でさぁ、取引先の倉庫の後片付けの手伝いとか支店に帰って片付け手伝ったり、実家もぐちゃぐちゃになっててさぁ。片付けて仕事して、また片付けて…ってやってるうちに1か月も経っちゃったんだ。この前は、途中で帰っちゃってごめんね!埋め合わせしようと思って…」
あんまり早口でまくし立てられて呆気にとられている私に、しょうちゃんは言った。
「1か月色々考えたんだけど俺、詩織ちゃんの事好きだなぁ、と思って」…はぁ。
「嬉しい!ありがとう!」と満面の営業スマイルで答えた。少しでもきゅんとした私がバカだった。結局、お気に入りを手籠めにしたいだけの普通の客か。少し、いや、心底がっかりした。勝手に舞い上がっていた自分が恥ずかしくなった。さっさと帰りたかった。あと1時間ちょい、この堕ちたメンタルをどうやって保とうか。
今日は自分の欲望に素直になる、と言うので一緒にお風呂の後にベッドに入る。手を繋いだり足を絡めたりするイチャイチャタイムに突入したのだが、一向にその先に進まない。何かがおかしい。
「俺、今日ダメかもしれない…緊張しすぎて…」と両手で顔を覆っている。…やっぱり。
初回のお客でこういう人に出会ったことはあるが、3回目でこれは初めてだった。結局残りの時間は、ベッドの中で他愛もない話をして終わった。180センチを超える身体を小さくして「ごめん…こんなはずじゃないんだけど…」と何度も謝っていた。自分が落ち込んでた気持ちがどこかに飛んでいってしまうくらい可哀想だった。
「…純粋なのかバカなのか」帰りの車の中で、店長と話をした。
「相変わらず口が悪いねぇ…でも、一人の男として名誉のために言っておこう」
「たぶんね、それ、詩織ちゃんに心底惚れたのかもしれないよ。ホントに大事にしたい人の前だとさぁ、ダメなときあるんだよ。なんでなのかわかんないけど。」
「まぁわかるけど、あたしただの嬢だよ。毎回金もらってんだけど。」
「…彼はいい奴っぽいからさぁ、連絡先知ってるなら一回外で飯でも食ってきたら?俺知らないふりしててやるから。もしトラウマになっちゃったら詩織ちゃんのせいになっちゃうよ」
「そんなに後引くもん?」
「そりゃそうだよ。ナイスバディの美女を前にして勃たないなんて、自信なくすと思うよ。それに、もう24なんだからちょっとくらいそういう楽しみあってもいいんじゃない?って、俺の個人的な意見だけどね。だって、ずっとこの世界で走ってきたんだろ?」
そうか。私、もう24か。鉄砲玉みたいに飛び出して来てもう4年も経ってるのか。別人として生きることに解放感と喜びを感じていたけど、本当に欲しかったものは、実はよく考えてこなかった。
最初は「自分らしく生きられるようになりたい」と思ってた。誰にも邪魔されず、暴力や暴言に怯えることなく、笑いたい時に笑える暮らしが欲しかった。けれど4年の月日が経つ間にいつの間にか「自分=詩織」になっていて、それを演じ切ることばかり考えるようになっていた。綺麗で美しく、ナイスバディを保ってチヤホヤされる時に感じる喜びを、自分らしく生きているということに置き換えて満足していた。
中身がないとか、頭が悪いと思う人もいるだろう。
でも、中身なんて抽象的なものを追って何になるんだろう。本当の自分と理想の自分の差も、なぜそんなに重要だと言うのか私にはわからない。たった20数年生きてきただけの人間が、そんな大層な人生の理想を掲げられるんだろうか。そんなマイワールド全開の夢とも理想ともつかないものを掲げるより、今ここで、理不尽でも不本意でもきちんと二本足で立っている自分を愛したほうがよっぽどいいと思う。それを頭が悪いと言うのなら、それはそれまでのこと。
ただ、そうやって走ってきた。
けれど、ちょっと立ち止まって寄り道をしてみたくなった。
ただ、それだけ。
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