行き合いの空

希子

行き合いの空


「まあ、そうね。キューピッドってより、生愛染ね」

「いきあいぜん?」

 紬は首をかしげて、そのまま言葉を返した。

 美緒は、「おじいちゃんが言ってたじゃない」と肩をすくめる。

「……そうだっけ?」

 紬と同じように苦笑いをして、美緒は話を続けた。

「この神社が祀っているのは、愛染明王。恋とかの煩悩を悟りに変えてしまう、恋愛成就の仏様のこと」

「じゃあやっぱり、わたしが美緒ちゃんと克樹くんをくっつけたら、恋のキューピッド?」

「紬ちゃんは、この仏様の生きてるバージョンだから、生愛染ってことよ」

 ――いきあいぜん、生きてる仏様かぁ。

 大きくうなずいてから、紬はあごに手を当てた。

「仏様って、神社にいるの?」

 美緒は、こくりとうなずく。

「基本的に、神社っていうと神様のイメージよね。でも、仏様を祀る神社もあるわ」

(へえ、さすが美緒ちゃん。よく知ってるなあ)

 美緒は、紬の感心しきった顔に満足しているようだった。

 人混みを抜けて、神社の入り口にたどり着く。

「みんな、なにを叶えてもらうのかな?」

「神様は、願いが叶うお手伝いをしてくれるだけなのよ。私はこれを頑張りますから、どうかうまくいくよう見ていてくださいって、努力しますってことを伝えなくちゃ」

「そっかあ」

 石段をのぼりながらぽつりといって、暗くなり始めた空を見上げた。

「あのへんに、織姫と彦星が見えるんだよね?」

「そうね。きっと天の川はよく見えないと思うけど」

 美緒が、ちょっと低い声でいった。

「残念。こんなに田舎なのに」

「本当ね」

 電車の駅は一つしかないし、ブランド物の店もない。あるのは商店街と小学校、中学校、塾が一つくらい。生活には困らないけれど、物足りないって感じてた。

 だから、今日のお祭りに誘われたときは、すごくわくわくした。

 何か新しいことに、出会える気がして。

 


1 七夕祭り


 少し湿気を含んだ夕方の空気が、「七夕祭」と書かれた丸い提灯をゆらした。商店街に面した神社の鳥居の下を、大勢の町民がくぐっていく。本殿両脇の大笹には、もういくつもの願い札が結わえられている。

 ここは北西を山、南東を海に囲まれた、自然の豊かな朝霧町。町側に峠を超えたあたりにある、昔ながらの商店街に鳥居を構えている魚谷神社は、ふだん、漁業神と愛染明王を参拝する人がちらほらと訪れる。

中学一年の立石紬は、友達の松戸美緒と一緒に、笛や太鼓の音の中を抜け、鳥居をくぐった。

「あ。おばあちゃんに、お土産買っていきたいな」

『朝顔市』と大きく看板が出ている前で、紬は立ち止まった。

綺麗な朝顔たちが、下を向いて並んでいる。

藍色のアヤメ模様の浴衣を着た美緒が、ぷっと吹きだした。

「紬ちゃんって、おばあちゃんのこと大好きよね」

 紬は、頬を少し染めてはにかむ。

「だって、すごく優しいし、物知りだし、いつもおいしいご飯をつくってくれるし」

紬の家は、おばあちゃんとお母さん、お父さんに紬の四人家族だ。いつもおばあちゃんがご飯をつくってくれている。

「そうね。うちのおじいちゃんより博識だと思うわ」

 紬は驚いて、首を横にふった。

「そんなことないよ! だって、美緒ちゃんのおじいちゃんは神主さんだもん」

 実はここは、美緒のおじいちゃんの家でもある。今日の七夕祭りに誘ってくれたのも、おじいちゃんだった。

「神主っていっても、とくべつ神様や幽霊が見えるわけじゃないのよ?」

 長くつやのあるポニーテールを左右にゆらしながら、美緒がいった。

「美緒ちゃんは見えるのにね」と、紬は肩をすくめる。

「見えてもいいことないわよ?」

 美緒は小さなころから、人には見えないものが見える体質だった。幼稚園で友達に気味悪がられ、それは幽霊だということを知ったといっていた。でも、今となってはさほど気にならない当たり前の光景らしい。

「どうせなら、恋愛の神様にでも会えたらいいのに」

 なんで? って聞かなくても、紬にはわかっていた。

 美緒には、好きな人がいるから。

「願い札に、克樹くんの名前書くの?」

「ええっ⁉」

 美緒が突然ピンと背筋をのばし、かーっと顔を赤くさせる。

「な、なんで克樹⁉︎」

「書かないの?」

 ふつうに聞いただけなのに、美緒は「知らないっ」とそっぽをむいた。

 そのまま、『願い札』のところへ歩みを進める。

こういうときの美緒は、いつもより乙女で可愛い。

 紬は笑いながら、願い札を一枚、台の上に置いた。

薄いピンク色をしたハート形の紙。ハートの片側に自分の名前、もう片側に相手の名前を書くと、恋が叶うとか長続きするとかって言われている。相手の名前はフルネームでもイニシャルでもよくて、理想のタイプでもいいらしい。

(なんて書こうかな)

 美緒のななめうしろから、そうっとのぞきこんでみた。

(あ、やっぱり――)

「だ、だめっ!」

 ばっと願い札を取って、背をむける。

 紬は、「ごめん」と頬をかいた。

「えへへ、やっぱり克樹くんだ」

 耳まで真っ赤になった美緒が、大げさに怒ったふりをする。

「いいじゃない、私がだれの名前書こうとっ」

 安野克樹。バスケ部でレギュラーの人気者だ。紬の家の近所に住んでいて、小さい頃からの友達でもある。克樹くんは、隣の家の渡瀬綾人くんと大の仲良し。小さい頃、内気だった紬に優しくしてくれた二人は、ヒーローのような存在だった。

 美緒は、小学校に入ってから一番にできた友達。お姉さんみたいな美緒には、たくさん助けられた。

 そのころから、克樹くんのことを想っているみたい。

(叶うといいな)

 紬はにやにやしながら、ハートの片側に「優しい人」と書いた願い札を手に、大笹のほうへいく。

まったくもう、というように下駄をカランと鳴らして、美緒がついていく。

 二人は、こよりを願い札に通して、笹にくくりつけた。美緒は人に見られるのを気にして、奥のほうにこそこそと結わえた。

「たくさんあるわね」

 美緒が笹の葉を指でよけて、一枚の願い札を手に取った。

「これ、舞花のよ。ほら、相手のところに優希くんの名前が書いてある!」

「ほんとだ!」

 そこには、二人と同じ吹奏楽部の、尾崎舞花と畑本優希の文字があった。

「正反対なのに、すごく仲良いよね」

「反対だから、きっといいのよ」

 さらっという美緒。

 やっぱり、お姉さんって感じだなぁ。

(なんで、だれかを好きになるんだろう)

(人を好きになるって、どんな気持ちかな)

 本殿の方へ歩いていく後ろ姿に、ふと聞いてみたくなった。

「ねえ美緒ちゃん。克樹くんを好きで、楽しい?」

 突然のことに、美緒はまた頬を赤らめる。

「急になによ」

「なんとなく、気になったの」

「うーん……、難しい質問ね。紬ちゃんもだれかを好きになったらわかると思うけど」

 紬は、浴衣を着ていることも忘れて腕組みをし、眉をよせる。

(どうやったら、好きになれるんだろう)

「あ、私たちの番」

 美緒の声にぱっと前をむき、石段に足をかけた。

 お賽銭を入れて、二回礼をして、二回拍手。

 目をとじて――。

(あっ、なにをお願いするか考えてなかった!)

 美緒がとなりでじっと願っているのを感じながら、あわてて願いをしぼりだす。

(わたしも好きな人がほしいから、えっと、えっと……)

(美緒ちゃんがいってた仏様? 神様? いき……あ、そうだ!)

(いきあいの神様に、会えますように!)

 ぎゅっと目をつぶって、念を送り続ける。遠く笛の音を聞きながら、しばらくそうしていた。

 その間に、美緒はもう一礼して顔を上げた。

「紬ちゃん、いこう」

「あ、うんっ」

 はっと目を開けて、美緒のあとを追う。

 浴衣に足を取られそうになりながら、石段をかけおりた。

 そのとき、


 びゅうっ


 背中から、湿った風が吹いた。

 ハーフアップにした髪がすくわれ、視界に入る。

(あれ、なんかへん……)

 紬は、ふと体が気だるくなる感じに襲われた。

「どうしたのー?」

 待っている美緒にいわれ、行列のわきで立ちどまる。

「今、へんな風が吹かなかった?」

 美緒はちょっとまわりを見てから、首をひねった。

「そう? なんにも感じなかったけど。それより、早くお店回らない?」

「うん、……そうだね!」

 気のせいか。

 紬は顔をほころばせ、こうばしい香りのする屋台に歩いていった。



2 恋愛の神様⁉


「いってきまーす」

 からからと音を立てる引き戸の玄関をでると、朝の光に目を細めた。


 ワンワンワン!


 若い木の幹のような色をした小さな柴犬のまめきちが、「いってらっしゃい」と元気にほえる。

 紬はまめきちに手をふって、庭をでた。

「ふわぁ……」

 大きなあくびをしながら、いつもの集合場所にむかう。

 坂を下る直前の、赤い自販機の前。

「綾人くん、おはよう」

 紬がかけよると、単語カードをぱらぱらとめくっていた色白の男の子が顔を上げた。

「紬、おはよう」

 綾人は、細い糸のようなさらさらの前髪をわずかにゆらしてほほ笑む。

 すると突然、はっと息を吸った。

「う、うしろ……」

「え?」

 ふり返ると、そこには歴史の教科書で見るような水干姿の少年が立っていた。青みがかった薄い色の水干に長袴を着ているけど、烏帽子(えぼし)は身に着けていない。代わりに、伸ばしっぱなしの髪が肩まで流れていた。

「だ、だだだだれ⁉」

 思わずあとずさって、綾人とぶつかる。

 綾人は単語カードを持ったまま、少年を見つめていた。

 暗い夜のような漆黒の髪が目にかかっていて、表情がわからない。

 少年は、だるそうなため息をついていった。

「なぜ聞く」

 紬は驚きすぎて、言葉を返すことができないでいた。

 綾人は少年のそばにいき、上から下までまじまじと見つめる。

 背は綾人と同じくらい、紬より十センチくらい高いだろうか。同い年か、少し年上にも見えるが、声は大人のように低い。

(コスプレ、かなあ。それとも、不審者……⁉︎)

 紬の心配をよそに、綾人は少年にふれようとした。しかし綾人の手は、少年の腕をすり抜けた。

「え⁉︎」

「やっぱりね。きみ、この時代の人間じゃないんだ」

 綾人の言葉に、少年はふんっと鼻を鳴らした。

「おまえは、私が見えるようだな」

 綾人はこっくりとうなずく。

「本物の幽霊って、あんまり恐怖を感じないって聞くけど、本当なんだね」

(え、幽霊なの? もしかして、大昔からタイムスリップしてきた人?)

 困惑する紬。

 綾人は冷静にたずねた。

「きみ、何者なの?」

「私は本来ここにいるべき存在ではない」

(待って。この衣装、昨日神社で見たのに似てる……)

「おまえたち人間からすれば――」

 紬は「ああっ!」と声を上げた。

 綾人の横から、少年にずいっと顔をよせる。

「あなたもしかして、恋愛の神様⁉」

「神?」と、綾人は裏返った声を出す。

 少年は紬の迫力に驚いたのか、ぽかんと口を開けていた。

「そうだよね? お願いしたの、叶えてくれたんだ!」

 紬は、ぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいる。

「わ」

「ありがとう!」

 少年は口をつぐんで、ほんの少し頬を染める。

 そこへ、肩からかけたエナメルバッグをおしりにぶつけながら、克樹がかけてきた。

「おっはよー! ……って、そいつだれ⁉」

 克樹は少年の前で、急ブレーキをかけてとまる。

 紬は少年を手でさして、前から友達だったかのように紹介した。

「この人は恋愛の神様! 昨日、神社でお願いしたら本当に会えたんだよ。すごいでしょ?」

 綾人は眉を下げて、呆れたようにいう。

「いや、すごいでしょって――」

「すっげえぇぇぇ‼」

 克樹が綾人の言葉をさえぎるように、大きな声を上げた。

「すげーよ! 神様ってほんとにいるのか! しかも見えんのか!」

「まだ決まったわけじゃないよ」と、綾人がいう。

「誰も見たことないし、なんで僕らに見えるのかもわからないし」

「でも触れないし! なんか変な見た目だし!」

 克樹はすっかり興奮した様子で、少年をいろいろな角度から見ている。

 少年は腰に手を当てたまま、すり抜ける克樹の腕を受け止めている。

(確かに、綾人くんの言うように神様っぽくないかも?)

「じろじろ見て、なにが面白い」

 明らかに面倒くさそうな言い方だ。

(あんまり態度よくないけど、神様ってみんなこう?)

 紬はさっきまでのわくわくした様子とはうってかわって、疑うような目で少年を見つめた。

「なんか感じ悪いなぁ。雰囲気もちょっとくすんでるっていうか……」

 少年はぴくっと眉を動かすと、紬を指さした。

「おまえが人間だから、わざわざ人の姿をとっているのだ。顔色も悪くなる」

「な、何、その言い方っ」

「私の気も知らずにおまえは」

 綾人は「まあまあ」と二人をなだめて、少年にたずねた。

「人の姿を、ってことは、きみはもともとちがう姿をしているってこと?」

 少年は、少し暗い顔をする。三人にも、目は隠れていても雰囲気が変わったことはわかった。

「もとは、人間だ。だが、今は形を持っていない」

 綾人はさらに質問を重ねる。

「人間が神様になれるの?」

「くわしいことは私にもわからない。私の場合はこうなったというだけだ」

(神様によって、ちがうってことかな)

(っていうことは、普段はもっと輝いてるとか?)

 二人が首をかしげるなか、綾人はなにか考えているようだった。

 克樹が口を開く。

「恋愛の神様って、なにするんだ?」

 少年は、ぶっきらぼうに答える。

「人間と人間の恋を叶えることだろう」

そして、紬を見ると、頭をがしがしとかきながらいった。

「呼ばれたからには、おまえとだれかを恋仲にするしかないようだな」

(すごい、できるんだ!)

 紬は、キラキラと瞳を輝かせた。

「で、相手はだれだ?」

 少年が、紬に近よる。

 坂の下から上がってきた一台の軽トラが、三人のそばを通りすぎた。

 克樹は、興味津々な顔で紬を見た。

 めずらしく、綾人もきゅっと唇をむすんで見つめている。

 それでも紬は、きょとんとしている。

「おまえ、だれとくっつけてほしいって願ったんだよ?」

 克樹が声をかけると、紬はあっけらかんといった。

「わたし、好きな人いないよ?」

「はあ⁉」

「ええっ⁉」

 少年と克樹があんぐりと口を開ける。

 綾人は、ふうっと鼻から息をはいて、冷静さを取り戻した。

「じゃあ、なんで恋愛の神様にお願いなんてしたの……?」

 紬は、「うーん」と腕を組む。

「だれかを好きになってみたいなーって思ったから」

 克樹が、額に片手を当てた。

「なんだよ、その理由!」

「だって、美緒ちゃんが――、はっ!」

 紬はあわてて口をつぐむ。

 あやうく、美緒が克樹を好きだということをばらすところだった。

 克樹が眉間にしわをよせて、顔をのぞきこむ。

「美緒がなんだよ?」

「な、なんでもないよ! そうだ、早く学校いかないと遅れるよ!」

 そういうと、すたすたと歩きだした。

 綾人が、笑いながらあとに続く。

「お前もくんのか?」

「仕方ない」

 しぶしぶ、三人の後ろをついていく。

「他の人たちには見えないんだよね?」と、綾人がいった。

 少年は、綾人と克樹に目をやりながら、淡々と言葉を並べていく。

「そうだ。思いの強い者にしか見えん。どうやら、その人間に近しい者には見えているようだがな」

「じゃ、堂々と紬の相手を探せるな!」

 克樹の元気な声に、紬がふり返る。

「そういえば自己紹介してなかった。わたしは紬。あなたは?」

「え? ああ……。名前は、ない」

 少年は、きっぱりといいはなった。

「ないのか⁉」と、克樹が目を丸くする。

 紬は、にこっと笑っていった。

「名前がないなんて寂しいよ。なにかあだ名をつけてあげる」

 少年が、目を細めて紬を見る。

「別にいい」

「じゃないと、みんなだって呼びにくいでしょ。そうだなあ……」

(七夕祭り、朝顔市、彦星、天の川、笛の音……)

「あまね、とかどうかな?」

 克樹がまぬけな声をだす。

「あまね? 天の音って、なんかカッコよすぎじゃね?」

「ちょっとはかっこいい方がいいでしょ、神様なんだし」

 神様――

「だよね?」

 少年は少し間を置いて、こくりとうなずいた。

「よかった。よろしくね」

 差し出された手に、少年は戸惑った。

「あくしゅ!」

 紬が手を取って、にっこりと微笑む。

 綾人はそれを見て、目を瞬いた。

「ちょっと待って。なんで紬だけ触れるの?」

「確かに」と、克樹も触れようとするが、やっぱり触れない。

(わたしが呼んだからかな?)

 紬は不思議そうに首をかしげる。

 少年がいった。

「おまえの思いが強いのだろう」

 克樹は肩をすくめて、先を歩き出す。

「神様って、よくわかんねーのな」

「あまねだよ、克樹くん」

 紬は嬉しそうに、後をついていく。

「やっかいなことになったな」

 あまねは、大きく深いため息をついた。



3 学校見学


 中学校は、克樹と綾人、紬が住んでいる坂の上と反対の、町が広がっているほうにある。山につくられた、左右にカーブをくり返す坂を下り、ふもとの小学校を右手に歩いていくと、左手に見えてくる。

 通用門から入り、運動場わきのアスファルトの道をまっすぐ歩けば、教室のある校舎へとのびる階段がある。

 三人は階段を上がり、靴箱で美緒に会った。

「あ、美緒ちゃんおはよう」

「おは……えっ、紬ちゃんなんかついてるよ⁉」

 美緒が、紬のうしろを指さす。

「あまねっていうの。恋愛の神様なんだよ。七夕祭りのときに、神社でお願いしたんだ」

「願いが叶うなんて、すごいわ!」

 美緒らしくなく興奮した様子で、一オクターブ高い声でいう。

 あまねは、「こいつも見えるのか」と、頭をふった。

「学校にもついてこなきゃいけないの?」

 美緒が聞く。

「仕方ないだろう。見物して、相手になる人間を見つけるためだ」

 あまねの様子に、美緒は眉をひそめる。

「あなた、本当に恋愛の神様なの? なんか、そんな感じしないわよ」

「わたしもそう思ったけど、本物みたいなの」

 紬の声に、早々と上靴にはきかえていた克樹もいう。

「絶対本物だろ! こんなへんな格好してるし、体にはさわれないんだぜ」

 あまねは機嫌をそこねたのか、ふらっと靴箱をでていってしまった。

「あ、まって」と、紬があわてて靴をぬぐ。

「じゃあまた、部活でね!」

 紬と綾人は二人と別れて、一年一組の教室へむかった。

 あまねが堂々と歩いていく。初めて見る学校に興味があるのか、きょろきょろしている。二人の前を歩いたり、右の壁に消えたと思ったら、左の壁から出てきたりした。

(体はものをすり抜けられるんだ)

 音もなく動くあまねは、だれにも見えていないようだ。

 紬は前をむいたまま、静かにいった。

「みんなには見えないからいいけど、おとなしくしててね」

「わかっている」

 紬は綾人と顔を見合わせて、「大丈夫かな」とささやいた。



 あまねは丸一日、学校内を散策していた。

最後の授業は数学も二十分が過ぎるころ、紬は数字の羅列にすっかりまいっていた。

 真ん中の列の一番後ろの席で、ノートと参考書と黒板を見ることを繰り返しながら、小さなため息をつく。

 あまねはというと、クラスの男子たちの顔を一人一人のぞきこんでいた。

(なにやってるんだろう)

 背筋をのばしてあまねを見る。

 あまねは、前から順番に目の前の男子を十秒ほどじっと見つめては、次の男子のところへいく。

(ほんとへんな神様)

先生の握るチョークの粉が、ぱらぱらと落ちるのを見つめていたとき、

「うわぁっ!」

 綾人の声が教室に響いた。

 みんなが一斉に綾人を見る。

 綾人の前には、あまねがいた。

「なんだ渡瀬。どうした」という先生に、綾人は耳を赤くして「すみません」とつぶやく。

「めずらしく寝てたのか?」

「あはは、かわいいー」

 みんなはくすくすと笑い、目を泳がせる綾人をからかった。

(もう、あまねってば~!)

 むっとした顔で見つめると、あまねはほんの少し、首をかしげた。


 やっと放課後になって、みんなが一斉に席を立つ。

 紬は小さく手招きをした。

「あまね」

「なんだ」

まわりの様子を気にしながら、ぼそぼそという。

「さっきなにしてたの? 男子の顔、のぞきこんで」

「ああ。相手探しだ」

 あまねは紬の机に腰掛け、背中をむけた。

 紬はその背中をにらみつける。

「綾人くん、びっくりしてたじゃん。気をつけてよね」

 すると、あまねは机からおり、座っている紬を見下ろした。

「あれのことは好きではないのか?」

「へ?」

 目をぱちぱちとさせる紬に、あまねはいった。

「渡瀬綾人だ」

「え⁉︎」

(綾人くんは小さい頃からの友達で、確かに仲良しだけど、好きとか、考えたことないし、優しくて賢くて頼りになるけどでも)

 目の前の狩衣を見つめながら、パニックになる。

「どうしたの?」

 あまねの体をすり抜けて現れたのは、舞花だった。クラス一、学年一女子力が高い舞花は、今日もうしろ髪をきれいにあみこみ、前髪を横に流している。セーラー服のスカートからは、レースのついたハンカチをのぞかせている。

「か、神様が! じゃなくて」

 舞花は、あまねがすぐ近くにいることにはまったく気付いていないようだ。

(どうしよう! 神様と話してたなんていったら、完全にへんな子だよ)

 紬は、頭をフル回転させて答えた。

「え、ええっと、数学の神様がいたらいいなって……」

「あははっ! なにそれ!」

 舞花が机に両手をついて笑う。

(笑ってくれてよかった……)

 心のなかでほっと胸をなでおろす。

「ねえ、今日の練習どれくらいやってく?」

「練習?」

「自主練。大会メンバーだし、やるでしょ?」

「あ、うん」

(わたしは、人数の関係でオーディション通過しただけだけど……)


 吹奏楽部は、八月に行われる大会の曲を練習している。梅子はフルートパートだ。

 初めてのホールでの演奏となる夏の大会は、日本全国の中学、高校が募って参加する大きな大会だ。

 紬たちは、大編成と呼ばれる三十人以上、五十人以下の編成で演奏することになっている。演奏するのは課題曲と自由曲の二曲で、春からずっと練習を重ねている。

 一年生でもチャンスはあるため、オーディションを経てメンバーが決まる。しかしフルートパートはもともと人数が少なく、紬にとってはオーディションとは名ばかりのものになってしまったのだった。


「あたしは、みっちりやって帰ろっかなー」

 舞花は優雅にそういって、カバンを手に取った。

 二人が教室をでるとすぐ、あまねはうしろをついてきた。

 二階の渡り廊下を渡って四階まで行けば、音楽室はすぐそこだ。

 あまねがいった。

「この娘は、おまえとちがって派手だな」

(む……。どうせわたしは地味ですよ)

「どこへ行く」

(こんなところで話しかけないでよ、舞花ちゃんがいるのに)

 気づかれないよう、小声で答える。

「部活。吹奏楽って言って、楽器を演奏するの」

「楽器を……。移動までして演奏をするのか」

「あっ、優希!」

 舞花が階段のほうへかけていく。

 紬は、あまねに早口で説明した。

「舞花ちゃんの彼氏だよ。二人は両思いなの」

「ふうん……」

 音楽室には、すでに大勢の部員が集まっていた。みんな譜面台を組み立てたり、楽器を鳴らしたりしている。

 紬のとなりでは、美緒が座って楽譜を開いていた。

 美緒は、黒板のお知らせのところを指差す。

「フルート、パート練だって」

(じゃあ、律先輩と二人か)

 紬のほかに、フルート担当は三年生の先輩一人だけ。二年生がいたけれど、やめてしまったんだって。

 紬は、美緒に誘われて吹奏楽部に入った。入学したてのころは、不安ばかりで部活見学にいくのも怖かったくらいだ。美緒がいなかったら、どの部活にも入れていなかったかもしれない。

 そこへ、四階をぐるっとまわってきたあまねが顔をだした。

「ここは騒がしい。耳がおかしくなりそうだ」

「部活にもくるのね」と、美緒が声を抑えていった。

 紬はふうと息をはいて、立ちあがる。

「今日だけで色々あったの。ちょっと心配」

 ふふっと笑った美緒は、「頑張って」と教室を後にした。

 楽器とケースと譜面台、楽譜、手入れのセットに雑巾をかかえて、紬は被服室へと足を運んだ。家庭科部が使わないときは、ここを使わせてもらっている。

「ずいぶんと荷物が多いな」

 あまねがこぼす言葉に、こそこそと答える。

「全部必要なものなんだよ」

(まったく、文句ばっかりいうんだから)

 紬が眉間にしわをよせていたからか、先に被服室にきていた律先輩が、ぎょっとした顔で紬を見た。

「ど、どうしたんだよ立石……」

「え?」

「すごく怖い顔してたぞ」

 律先輩が口の端を引きつらせる。

 その横にぴったりと張りつくようにして、あまねが横顔をじろじろと見ている。

「そうですか?」

 いいながら、紬はあまねに小さく首をふった。

「まあ、いいや。練習はじめよう。昨日のところ、一度オレが吹いてみるから聞いてて」

 紬は左どなりで、演奏を聴く。

 律先輩は、華奢なつくりのフルートが似合わないがっしりとした体で、とても繊細な音を奏でる。しかもピッコロという、フルートよりも小さい楽器も使いこなすのだ。

 紬は、そんな先輩を尊敬していた。

「じゃあ今度は一緒に、一と二と三」

(ここは大きめに。次は落として……)

 律先輩の音を聞きながら、気をつけて吹いた。つもりだったのに。

 律先輩は、ふと吹くのをやめる。

「今のところ、もう少しのばせ」

「はい」

(また注意されちゃった)

 いつも間違えないように吹いているはずなのに、毎回なにか注意されてしまう。

 紬は、楽譜にしっかりと印をつけた。

「もう一回な。一と二と三」

(今度は間違えないように……)

 深く息を吸って、温かい息を送りこむ。

 二人の音が重なって、一本の音になった。

 ワンフレーズ吹き終えて、先輩が紬の肩をたたいた。

「いいぞ、ちゃんと聞いたか?」

「音がひとつになってました!」

 興奮気味にいうと、律先輩はほほ笑んだ。

「今の、忘れるなよ」

「はい」

 紬もほほ笑み返す。

 二人は練習に集中し、時間はまたたくまに過ぎていった。

 あまねはその様子を、音楽室の隅によりかかって見ていた。

 律先輩が、時計に目をやる。

「もう時間だな。あとは明日の朝練でやるか」

 教室の窓の外はもう、暗くなっていた。紬と律先輩の姿が、窓にうつっている。

 紬は、あまねのほうをちらりと見て思った。

(ずっとあそこに立ってたのかな。気づかなかった)

 フルートを吹いている間は、頭がいっぱいになってほかのことに気がむかない。

「立石、早く片付けろよ」

「あ、はい!」

 紬は急いで、音楽室に楽器を片付けにいった。


「あと三十秒ーっ!」

 紬は、腕時計を見る先生の声にせかされるように、校門をでた。

 校内に残っていたほかの生徒たちも、一斉に押しよせる。

 克樹と綾人と美緒が、校門の外で待っていた。そこにはいつの間に移動していたのか、あまねの姿もあった。

「おせーよ!」

「ごめん! 追い出しだったから……」

「お疲れさま」

(綾人くん)

 あまねに言われたことを思い出して、なんとなくぎこちなくなってしまう。

(毎日会ってるのに、あんなこと言われたら気になるよ)

 生徒たちを見送る先生に挨拶を返しながら、四人とあまねは歩いていく。

 あまねがじっとこちらを見ているのに気づき、綾人が困ったように笑った。

「今日は、みんなに注目されて恥ずかしかったよ」

「なにがだよ?」と克樹。

 紬はちょっと皮肉っぽく答えた。

「数学の時間に、あまねが男子の顔をのぞいてて。急に目の前にきたから、綾人くんがびっくりしてうわあって大きな声をだしたの。それで、クラス中にからかわれたの」

「あははっ! 見たかったなそれ!」

 克樹がけらけらと笑う横で、美緒はあまねを見つめている。

「なにか用か」

 あまねがいうと、美緒は「べつに」と首を横にふった。

 ふいに紬が、はあとため息をつく。

「どうしたの?」

「なんか、おなかすいちゃって」

 克樹が、大きな口を開けて笑う。

「ははっ! なんだよ、急に。なら早く帰って、ばあちゃんの料理食べないとな!」

 小学校の角を左に曲がり、坂にさしかかる。

「じゃあ、また明日ね」

「ばいばい」

「気をつけろよ」

 美緒は手をふって、紬たちとは反対の右の道を歩いていった。

 ほかの生徒たちはみな、右に曲がった商店街の先にあるバス停からバスに乗るか、自転車で別の道を使うかして帰る。

 坂をのぼるのは、その先に家がある紬たちだけだ。街灯が少ないため、ときおり通る車のヘッドライトがまぶしかった。

 克樹と紬が並んで前を歩き、綾人がうしろを歩いていた。あまねは学校をでたときからずっと、綾人のとなりを歩いている。

「ところで」

 突然うしろから聞こえた声に、紬はびくっと肩を上げて立ちどまった。

「びっくりしたぁ」

あまねは三人を置いて、さっさと前のほうへ進み出る。

 紬は、その背中を軽くにらんだ。

「おまえによさそうな人間を見つけた」

 背をむけたまま、あまねが腰に手を当てる。

「えっ」

 紬の声に、綾人の声が重なった。

 綾人をぱっとふり返る。

「あ、いや……」

 綾人は口ごもって、目をそらした。

「それ、だれなんだよ?」と、克樹が聞いた。

 あまねは、ぴっと人さし指を立てた。

「大村(おおむら)律(りつ)」

 一瞬、沈黙が四人を包む。

「っええぇぇぇぇ⁉」

 紬の叫びは、坂にこだました。

「り、律先輩⁉ なんで⁉」

 目を白黒させる紬に、あまねはいった。

「おまえがにこやかに笑っていたからだ」

 紬の顔が、だんだん赤く染まっていく。

「そ、それは、尊敬してる先輩だけど……」

(律先輩と恋なんて)

 綾人が、ゆっくりと歩みを進める。

「その人って、フルートの先輩だよね?」

 紬も綾人に続きながら、こくんとうなずいた。

「その人は、紬のことが好きなの?」

 綾人は、あまねの顔を真剣な表情で見た。

 天理が「あ、綾人……?」と苦笑いをしている。

 あまねは、首を横にふった。

「まだそうではない。が、これからそうなるかもしれないな」

(これからそうなるって、律先輩がわたしのこと……。それで、わたしも好きになるってこと?)

 紬の顔がますます赤く染まっていく。熱さをまぎらわそうと、手でぱたぱたと顔をあおいだ。

「じゃ、じゃあ、明日からが楽しみだな!」

 克樹が空気を変えようと明るくいったけれど、それは逆効果だった。

 紬は、律先輩のことをへんに意識してしまいそうだったし、綾人はなんともいえない顔で黙ってしまった。

 あまねはそんな二人には目もくれず、藍色の空に光る星を見つめていた。

坂をのぼりきると、三人の家以外に住居はない。田んぼと畑が広がり、小屋がぽつぽつと建っている。その小屋も、人がいなければ明かりはともらない。町との明るさの差は歴然だった。

 克樹と綾人と紬の家の明かりが、田んぼと畑の奥にうかんでいた。右どなりの綾人の家は青い三角屋根で、二階も一階も明かりがついていてよく見える。

紬の家の瓦葺きの屋根は、月の光に照らされていた。それがなければ、薄暗い夜の闇に溶けこみそうだ。

 その向かいに建つ同じようなつくりの克樹の家は、塀にかこまれていて、漏れる明かりも少なかった。奥には大きな山がそびえ、木々がざわざわと音を立てている。

 紬は、ぐるぐると律先輩のことを考えていた。

 綾人も黙ったままだ。

聞こえるのは、あちこちの田んぼにいるカエルの鳴き声だけ。

「じゃなっ。また明日」

 克樹は、重苦しい空気にたえかねて、近道の田んぼのあぜ道を走りだす。

 綾人が、あっと口を開けた。

「克樹! 夜は――」


ぐちゃっ


「だあぁぁぁ‼」

克樹の片足が、田んぼにはまった音がした。

「ほらー……」

 綾人が、あーあと頭をたれる。

「危ないっていおうとしたら、すぐこれだもん」

 田んぼから泥だらけの足を引き抜いて、しりもちをついている。

「うわっ! ズボンになんか入った! カエルか⁉」

 克樹はおかしなかっこうをして、カエルを追い出そうとする。

「ふ、くすくす……」

 紬は手で口をおさえて、笑うのを我慢していた。

 綾人はそれを見て吹きだした。

「あははっ! 紬、それ我慢できてないよ」

「なんだよおまえら、助けろよ!」

 克樹がじたばたしているのを見て、あまねまでもが笑っている。

(なんだ。あまねもふつうに笑うんだ)

 紬はその横顔に、少しだけ親しみを感じた。

 しばらくして克樹のズボンからカエルが出ていくと、綾人がいった。

「はあ、面白かった。いつもはびっくりさせられるけど、今日は大笑いだったよ」

「ったく、他人事だと思って。絶対母さんに怒られる……」

 どろどろになったズボンのすそを気にしながら、もっとどろどろになっている靴を引きずって歩いていく。

 向かい合う二つの家の前で、三人は別れた。

 庭へ入る紬の耳に、克樹の母さんの「やだー!」という高い声が届く。

「やっぱり怒られたんだね」

 くすりと笑うと、あまねも深くうなずいた。

「まめきち、ただいま」

 まめきちの顔を両手ではさんでほほ笑めば、まめきちは「おかえり」と目を細めてくれる。

「いいにおい」

 紬はぎしぎしと音を立てる廊下を歩き、台所へ入った。

「おかえり紬ちゃん」

 割烹着を着たおばあちゃんが、肉じゃがをつくっていた。

 お父さんとお母さんは、まだ仕事から帰っていないようだ。

「ただいま」

「カバンを置いておいで。ご飯できてるよ」

 二階の自分の部屋にいき、ふすまを閉める。

「おい」

 耳元であまねの声がして、紬の肩がびくっとはねた。

「見えないところでしゃべるのやめてよ」

「いちいち驚かれても困る」

 悪びれた様子もなく、先を続ける。

「明日からのことを考えたんだが――」

(なんで、ごめんねって言えないんだろう)

(綾人くんのことも、困らせてたし)

「おい、聞いているのか?」

(神様のくせに)

「今からご飯だから、あとでね」

 紬は怒ったようにいい、カバンを置いて部屋をでた。

(さっきの笑顔に、だまされた気がするっ)

 そのまま階段をかけおりると、食事の席に着いた。

 机には、真っ白いほかほかご飯と、わかめの味噌汁につけもの、彩りがきれいな肉じゃがが並んでいる。

「いただきます」

「はい、めしあがれ」

 おばあちゃんには、あまねが見えていないみたいだ。いつもと変わらない優しい笑顔で、お箸を渡してくれた。

 じゃがいもを口に入れ、はふはふと白い湯気を立たせている紬を見て、あまねはごくっとつばを飲みこむ。

(はー、いらいらしてた気持ちが、どこかへいっちゃうみたい)

「おいひい」と幸せそうに笑う紬の目の前に、真顔のあまねが顔をだした。

「あ、あまね……?」

 背をむけて台所に立っているおばあちゃんにばれないよう、声をださずに口パクで名前を呼ぶ。

 あまねは紬のとなりにきて、肉じゃがを穴が開くほど見つめた。

「食べる? っていうか、食べられる?」

 小声で問いかけると、ゆっくりとうなずいた。

「おまえが掴んでいるものでなければ、食べられない」

(そっか。すり抜けちゃうんだっけ)

 あまねのかわりに、箸でそうっとじゃがいもとお肉をはさむ。

「肉はいらん」

 あまねは、じゃがいもをひょいとつまむと、口のなかに放りこんだ。

「……甘い」

 まるで、この世のものではないものを見たかのような顔をしている。

「ぷっ」

 紬は、思わず笑ってしまった。

(なんか、不機嫌だったりびっくりしたり、小さい子どもみたい)

「笑うな」

 ほんの少し頬を赤らめ、紬が口に入れようとしていた絹さやを奪う。

 紬はとっさに「こら」といいかける。

 けれど、おばあちゃんが不思議そうにこっちを見ているのに気づいて、もくもくとご飯を口に運んだ。



4 律先輩


 次の日の朝。今日は、週に二度の朝練の日だ。

 紬が目を覚ますと、あまねはベッドの上に座っていた。

「きゃあぁぁぁっ‼」

 がばっとはね起きて、かけ布団をかき集める。

「うるさい……。耳がつぶれるだろう」

「つ、つぶれるのはわたしの心臓だよ! なんでわたしのベッドの上にいるの⁉」

 紬はバクバクと鳴る心臓をおさえた。

「昨日、屋根で寝るっていってたのに」

 あまねは顔色一つ変えずに、転がったウサギのぬいぐるみを持ち上げる。

「霧が、深くてな」

「霧?」

 ちょうどそのとき、お母さんがふすまをパンッと開けた。

「どうしたの⁉」

 いつもはきっちりとした雰囲気のお母さんなのに、寝起きのぼさぼさ頭だ。

(お、お母さん……。どうしよう、ごまかさなきゃ)

 紬は、へらっと笑った。

「なんでもないよ。へんな夢を見ちゃって」

 お母さんは、体の力が一気に抜けたように、へなへなと座りこむ。

「もー、朝からやめてよ。びっくりするじゃない」

「ごめんなさい」

 お母さんは部屋からでていき、紬はまたあまねと二人になった。

「今のが母上か」と、あまねがいった。

「母上? あまねって、いつの時代の人なの?」

 あまねはそれには答えず、質問を返した。

「昼間や夜に見かけないということは、朝しか家にいないのだな。おまえは寂しく感じたことはないのか」

 お母さんは介護の仕事をしていて、帰りが遅いことが多い。お父さんは老人ホームで管理栄養士をしている。二人は同じ職場で出会ったと聞いたことがあった。

 寝癖のついた髪を整えながら、紬は答えた。

「おばあちゃんとまめきちがいるから、寂しくないよ。お母さんもお父さんも、早く帰ってくるときだってあるし」

「そうか」

つぶやくとあまねはベッドから立ちあがり、紬を待たずに下へおりていった。



 その日は朝からへんなことの連続で、家に帰るころにはぐったりだった。

 律先輩が休み時間のたびに、誰かに呼ばれたと紬の教室にくるし、おかげでクラスメイトには騒がれるし。


「あの人、知ってる?」

「三年生だよな」

 ざわつく教室の入り口から、律先輩が紬を呼ぶ。

「立石、ちょっといいか?」

 紬は仕方なく、席を立つ。

「ひゅー!」

「だれ? かっこいい!」

「ねえねえ、紬ちゃんって、先輩と付き合ってたの?」

 何人かに囲まれて、紬はあわてて否定する。

「ち、ちがうよ! ただの部活の先輩だよ!」

 手のひらを向こうにむけて思い切り前に突きだしてみたけれど、かえって怪しいと思われたかもしれない。

「ほんとにー?」と、みんなが目を細める。

 助けを求めるようにまわりを見ると、あまねと目があった。

(恥ずかしい、どうにかしてよ!)

 あまねは綾人の横で、微動だにしない。

 綾人は紬をまっすぐに見ていた。

(あ! 綾人くん!)

 紬が助かったと思ったのもつかの間、綾人はすぐに視線をそらした。

(え、ちょっと二人ともーっ!)

なんとか女の子たちの質問攻めからはい出す。

 飛び交う声から自分を守るように体を小さくしながら、律先輩の前に立った。

「な、なんですか?」

 へんな汗をかきながらいうと、律先輩はにかっと笑った。

「オレにもわからないんだが、立石に会うよう誰かに言われた気がしたんだ」


 あまねの話では、律先輩はあまねの声を聞くことはできても、おかしいと思ったり疑ったりするほどの違和感はないという。

「今日はなぜか立石の顔を見たくなる」って言ってたくらいだから。

 部活終わりなんて、紬の頭をくしゃっとなでて、「また明日な」と立ち去ったのだ。

 気がつくと、両手で自分の顔をおおっていた。

(ドラマみたいだったなぁ)

 若い俳優さんのようにさわやかな、律先輩の笑顔を思いだす。

 家に帰ってきた紬は、自分の部屋のベッドに倒れこんだ。今日一日で、どっと疲れたような気がする。

(でも律先輩、なんだかちょっとだけかっこよく見えたなぁ……)

 自分でも気づかないうちに、頬がゆるんでいく。

 あまねが腕組みをして、うつぶせに倒れている紬を見下ろした。

「なにをにやついている」

「きゃあ⁉」


 どしんっ!


「いた……」

 驚いた拍子にベッドからずり落ちて、床におしりをうちつけた。

「ぶっ! まぬけ」

 目にかかった前髪をゆらし、腹をかかえて笑っている。

 紬はおしりをさすって立ちあがった。

「勝手に部屋に入らないでって、さっきいったでしょ」

 あまねはまだ笑っている。

「どうだ、あの人間のことを気に入ったか?」

(な、なんで急に)

 紬はぱっと顔をそらして、「べつに変わらないよ」といった。

「ちっ、だめか」

 面白くなさそうに頬をふくらませるあまね。

「そんなに簡単に、だれかを好きになるなんてできないよ」

 紬はふーっと息をはく。

「もう出てってよ。たとえ神様でも、男子なんだし」

「ほかにどこにいろというのだ」

 紬はまくらに顔をうずめて、もごもごといった。

「昨日も屋根で寝たじゃん」

「あれは仕方なく」

「だったら、今日も仕方なく寝てよ」

「おまえ……。それが神様に対する態度か」

「だって、あまねって神様っぽくないんだもん」

 あまねはそれを聞くと、くっと顔をしかめた。そして、すべるように壁から外へでていった。

 あまねがいなくなったのを感じて、紬はゆっくりと起きあがった。

(あまねには、人間の好きって気持ちがわかるのかな……)

 壁を見つめながら、ぼんやりと思う。

(美緒ちゃんが克樹くんを想うのと、舞花ちゃんが優希くんを想うのは同じ気持ちだよね。なら、わたしが律先輩のことを考えるのは……?)



5 恋の先輩、舞花ちゃん


 朝から体がだるかった。お祭りの夜から、なんとなく疲れている気がするけれど、今日はとくにひどい。でも熱をはかっても平熱だし、風邪っぽくもない。

昨日は早く寝たものの、今朝になっても体調は変わらなかった。

 おばあちゃんが心配しておかゆを出してくれたけれど、半分しか食べられない。

 いつもは紬の朝ご飯をつまみ食いしようとするあまねも、今日は柱の陰から見ているだけだ。

(今日が朝練の日じゃなくてよかった。克樹くんたちと一緒に、ゆっくり登校できる)

 あまねがうしろにいるのを見て、綾人が声をかけた。

「今日もつまみ食いしたの?」

 しかし、あまねからの返事はない。紬もなにもいわない。

「なんだか元気ないね」

 心配そうに、紬の顔をのぞきこむ。

「うん……」

 紬は、坂の途中で立ちどまってしまった。気分が悪くなり、へなへなと座りこむ。

「だ、大丈夫かよ?」

 克樹があわてて背中をさする。

 綾人も険しい表情でいう。

「最近へんだよ。僕たちが話しかけてもぼうっとしていることが多いし、ここ何日か、顔色もあまりよくない気がする」

(学校、いくのやだな……)

 紬は、膝に額をつけたままいった。

「わたしも、わかってる……。食欲はあるのに全然食べられないの。それで、ずっと気持ちが悪いし、先輩のこともどんどん面倒になって……」

 克樹はなんと声をかけていいのかわからず、綾人を見た。

 綾人は、紬のとなりにしゃがんでいった。

「テストも近いし、とりあえず学校にいこう。歩けそう?」

 紬は、静かにゆっくりと坂を下りだす。

「ごめんなさい、大丈夫……」

 そう答える顔は、血の気がなくやつれている。

 二人はときどき、紬を支えながら歩いた。

 学校に着くと、紬はいくらか顔色がよくなった。

「気分が悪くなったら、僕にいってね」

「ありがとう」

 綾人と紬が教室に入っていくも、あまねはついていかず、廊下をすうっと歩いていった。

「暗い顔してどうしたの?」

 舞花が、紬に話しかけた。

 今日も、おしゃれに髪をあみこんでいる。手には、流行りのキャラクターのファイルを持っていた。

 紬は、明るい笑顔をつくろうと心がける。

「なんでもないよ」

そういって、舞花に聞こうと思っていたことを思いだした。

「あ、ねえ舞花ちゃん、聞きたいことがあるんだけど」

 舞花は首をかしげて、「なに?」とお姉さんっぽい声でいった。

 遠慮がちに、そっとたずねる。

「あのね……、人を好きになるって、どんな気持ち?」

 舞花は、ぱちぱちとまばたきをした。

「急にどうしたの?」

 紬は、少しうつむいて、右手で左手をぎゅっと握る。

「ほら、舞花ちゃんって付き合ってるでしょ。でも、わたしは好きな人いないし、その、だれかを好きって気持ちがわからなくて……」

 言葉がうまくでてこない。最近は、だれとでも気負いせずに話せるようになっていたのに。まるで、小学生の内気なころの紬に戻ったようだった。

 舞花はそんな紬を見て、にっこりと笑った。

「恋をしたいの? それなら、好きになろうとしたらだめだよ」

「え? どういうこと?」

 紬は顔を上げて、舞花の目を見た。

 舞花は、「にぶいなあ」と唇を突きだす。

「好きになろうって思って好きになれるほど、単純なものじゃないってことだよ。気が付いたら考えてたとか、目で追ってたとか、会いたくなったとか。ほかの子と話してばっかでずるいとか、一緒にいると楽しいとか、そういうところからはじまるんじゃないかなって、あたしは思うよ」

(そうなんだ。そういう気持ちから、好きははじまるんだ)

 紬は、なるほどとうなずいた。

「昨日も律先輩がきてたけど……ほんとに彼氏じゃないの?」

 舞花の言葉に、ぶんぶんと首を横にふる。

「ただの先輩! 好きとか、そういうんじゃ……」

「ふーん。じゃあ、どういう気持ちなの?」

「え? ええと……」

(それが、わたしにもわからないんだよね)

 紬は、舞花をまっすぐに見た。

 舞花はまじめくさった紬の顔を見て、声を上げて笑う。

「そんな顔しなくても! かっこいい、とか、そういうのないの?」

(そういうことか!)

 あははと苦笑して、紬はいった。

「かっこいいとは思うけど、だから好きかっていわれると、ちがう気がする」

「ふむふむ。それなら、まだ様子見ですね」

 舞花はどこかの学者のように、声色を変えて話す。

「先輩のこと、よく見てみたらどうでしょう」

 紬は、舞花を尊敬のまなざしで見つめた。

「わかった、ありがとう舞花ちゃん」

(相談しただけで、なんだか気持ちが明るくなったみたい)

「まあ、またなにかあったら、恋の先輩、舞花ちゃんに相談してくださいな」

 舞花はふふっと笑って、持っていたファイルをロッカーに入れにいった。


 その日の部活は、自由曲の合奏だった。しばらくチューニングと基礎練習をしたあと、部員は全員、音楽室に集合した。

机は廊下に出され、椅子だけが四列、半円状に並べられている。指揮者が一列目のクラリネットの半円の前に立つ。二列目は指揮者から見て、左側からフルート、オーボエ、サキソフォン、バスクラリネット。三列目はホルン、ユーフォニアム、テューバ。四列目はトランペット、トロンボーン。そのうしろに、パーカッション(打楽器)が並ぶ。

 全員で三十四人だ。

 木管部長が前に立ち、軽く手を挙げた。

「チューニングします」

メトロノームを動かし、拍を取る。

「一、二、三」

 低音のB♭が鳴り、続いてホルン、クラリネットと、音が重なっていく。

 全員が同じ音をのばし、音のゆれがないか確認する。すべての音が合わさって、一つの音に聞こえていれば、音程が合っているということになるのだ。

 木管部長が挙げていた手をぐっとにぎると、全員の音がぴたりとやんだ。

「ペットだけ、さんはい」

 美緒たちトランペットパートの音が響く。

「高くならないように気をつけてください」

「はい」

こうしてチューニングを終えると、木管部長が席に着き、先生が前に立つ。

「いいか。一回一回の合奏に集中しろ。じゃあ頭から」

 先生が、指揮棒代わりの箸をふる。

 打楽器の音。

 管楽器が入り、しばらく演奏が続く。


 カンカンカン!


 先生が譜面台をたたき、演奏が中断した。

「音の切り方、この前のこと思いだせ」

「はい」

「山深い情景、思いうかべられてるか?」

 先生がほかのパートに指示をだしている間に、律先輩がいった。

「立石、ここは一つ目の音に重きを置け」

 指で示されている箇所を丸で囲む。

(律先輩の指、きれいだなぁ)

 なにげなく、楽譜の上をなぞる律先輩の指に目をやった。

(舞花ちゃんが、よく見てみたらどうかっていってたな)

 紬は、ちらっと律先輩を見る。

(目もきれい)

 切れ長の、大人っぽい目は、紬の心をときめかせた。

 しかし、先輩のことを考えるたびに頭にちらつくのは、あまねの影だった。

(そういえば、朝別れてから、どこへ行ったんだろう……)




6 祓われる神と祓う神


 土曜日の午後、美緒に誘われて、部活帰りに魚谷神社に寄った。

神社の入り口には、大きな松の木があって、心地よい影をつくっていた。七夕祭りのときには、屋台ばかりに目がいっていたけれど、こうして見るととても広い。

鳥居をくぐると地面に細かく丸い石が敷かれていて、その中央にのびる参道の両脇には木々が立ち並び、セミの合唱が聞こえる。

 二人は、本殿の階段脇の石垣に腰掛けて、ぱたぱたと顔をあおぐ。

 神社をうろうろ歩き回っていたあまねが、そばにきていった。

「おまえたちが吹いていた曲は、いい曲だな」

 紬は「え?」と声をもらす。

(どこかで聴いてたんだ……)

 美緒も驚いたようで、あまねにたずねた。

「急にどうしたのよ。いつも興味なさそうなのに」

「私もなぜだかわからないが、あの曲は不思議と心地よく感じる」

 紬は、「それだけ、わたしたちの演奏がよくなってるってことかな」とほほ笑んだ。

 美緒は紬の顔を見て、少し表情を曇らせる。

「今日も朝から元気なかったけど、大丈夫?」

 ぶらつかせた足に目をやりながら、こくんとうなずいた。

「なんか、最近ずっと体がだるくって」

 あまねがちらりと紬を見る。

「律先輩とは、どうなの?」と美緒が聞くと、紬は力なく笑った。

「好きな人がほしいって思ってたけど、昨日、舞花ちゃんに、好きになろうとしたらだめだっていわれたんだ。自然に見たり思ったりするものなんだって」

 美緒は、興味深そうにうなずくと、「そうかもね」といった。

 あまねは二人をじっと見つめている。

 視線に気づいた紬が、腕組みをした。

「今、女子トークしてるの。ちょっとどっかいってて!」

「はいはい」

 あまねは軽くいうと、くるりと背中をむけてどこかに消えた。

「なにも追い払わなくても」と、美緒が苦笑する。

「いいの。あまねといると、むかむかするんだもん」

「むかむか?」

「そう。あまねね、いつも面倒だとか文句ばっかりいうし、人の話は聞かないし、ご飯はつまみ食いするし大変なの。神様なんかじゃなくて、ただの男の子そっくり」

 紬は、組んでいた腕を解いて、ひざに乗せた。

「なのにちょっと笑ったりすると許せちゃったりして。昨日なんて、律先輩を見てたのにあまねを思いだしちゃったんだよ。むかつくでしょう?」

 言いながら、やれやれと肩を落とす。

「あっははは!」

 美緒が、突然ねじが外れたように笑いだした。

「あははは……! 紬ちゃん、おっかしい!」

「な、なんで? なにが?」

 紬は美緒の肩をゆさぶる。

 美緒は、目にたまった涙をぬぐった。

「だって、それって好きって気持ちと似てるんだもの」

「え?」

 紬は手をはなし、半分魂が抜けたような顔でいう。

「わたしが、あまねを、好きって、こと?」

「それは、私にはわからないけどね」

(うそ……。うそだよ、そんなのありえない!)

 紬は「信じられない!」と大きな声をだした。

「あ、あまねのどこを好きになるの⁉ 暗くて口も悪いんだよ⁉ おまけに神様だし!」

 また美緒がくすくすと笑う。

「これじゃあ、律先輩じゃなくてあまねとの恋を叶えてもらうことになっちゃうわね」

「もう! やめてよー」

 そのとき、うしろからしわがれた男の人の声が聞こえた。

「おかえり」

 二人がぱっとふり返ると、美緒のおじいちゃんが立っていた。神主さんの服を着て、手には竹ぼうきを持っている。

「おじいちゃん、ただいま」

「こんにちは」

 紬がぺこりと頭を下げると、おじいちゃんはいった。

「久しぶりじゃな」

「今日は、部活が午前中で終わりだったので」

 おじいちゃんは、ひょろりとのびている白髪を風になびかせて微笑む。

「この前は、祭りに来てくれたようじゃが」

「はい、楽しかったです」

 紬のとなりで、美緒もうなずく。

「このへんじゃ、他に七夕の大きな祭りはせんからなぁ。そうじゃ、七月の三十一日に、夏越(なごし)の大祓(おおはらえ)があるんじゃよ。見にこんか」

 紬はぽかんと口を開ける。

 美緒が、「おじいちゃん、説明してあげて」と助け船をだした。

「おお、そうじゃな。ごほん、えー、夏越の大祓というのはじゃな、簡単に言うと、水無月の時期に半年間の穢(けが)れを清めようという式のことじゃ。水無月とは今の六月のことじゃが、うちの神社では旧暦で七月に行うんじゃ」

 紬は、おじいちゃんの話を瞳を大きく開いて聞いている。

「形代(かたしろ)……紙の人形じゃな。それに自分についている罪、穢れや災いをうつし、焼き払うんじゃよ」

(自分についている……ってことは、あまねも祓われちゃうってこと⁉)

 紬は、はっと美緒を見た。

 美緒は、おじいちゃんにたずねる。

「いい神様は、祓われないのよね?」

 おじいちゃんは口をすぼめ、「うん?」とつぶやく。

「いい神様とは、たとえばどんな神のことじゃ?」

「恋愛の神様とか」

 美緒が答えると、おじいちゃんはにこやかにいった。

「ああ、そういうものは大丈夫じゃろう。祓われる神というより祓う神じゃな」

(そっか、よかったぁ)

 紬が安心してほほ笑む。

「そんな式があるなんて知らなかったから、ちょっと見てみたいな」

「じゃあ、ぜひきて。私がいろいろ教えるわ」

 美緒は、そういえばと紬の顔をじっくり見た。

「なんだか、顔色がよくなったんじゃない?」

 紬はすーっと息を吸って、思い切りはいてみた。

「ほんとだ。体が少し軽くなったかも」

「よかった。疲れがたまってたのかしらね」

 美緒はそういうと、ついさっきから松の木の影で上を見上げているあまねに目をやる。

 あまねは目を細めて「懐かしい」とつぶやいていた。


 家に帰った紬は、あまねにいった。

「夏越の大祓の話、聞いてた?」

 あまねは毎度のようにベッドに腰かけ、「まあ」と答える。

「おまえはそういう祭りごとが好きなのか」

「うん。お祭りの雰囲気って大好き」

 楽しそうに話す紬に、あまねは優しい顔をした。

 めったに見ることのない表情に、思わずうしろをむく。

「面白そうだし、一緒にいこうね」

 紬が勉強机のいすに座ると、あまねがいった。

「そんなに先まで、私がおまえのところにいると思っているのか?」

「へ……」

 予想外の返事に、戸惑いを隠せない。

「そんなに先って、あと二週間くらいだし……」

 あまねはいった。

「十日あまりの間に、おまえは大村律と結ばれ、私はもといたところへ戻る。それが一番ではないのか?」

 紬は、言葉に迷ってしまった。

(そっか。あまねがずっとここにいることはないんだ)

(わたしの願いが叶ったら、あまねとは会えなくなる)

 スカートをきゅっと握って、小さな声をだす。

「三十一日までに、わたしが律先輩を好きになるかなんて、わからないよ」

「はぁ……」

 あまねは、わざとらしくため息をついた。

 紬はさらにもう一言つけ加える。

「も、もしかしたら、ほかの人を好きになるかもしれないしっ」

 あまねは、ん? という顔で紬を見た。

「私が選んだ相手は、気にくわないということか」

「そうじゃなくて、ただ一緒にいきたいと思っただけだよ。ね、いこう、約束ね」

 あまねはしばらく黙ってから、静かにいった。

「私を自由にする気はないということだな」

(!)

 心に突然毛糸がわいてきて、ぐちゃぐちゃと絡まっていく気持ちがした。息苦い。

(律先輩を好きにならなきゃ、困るんだ)

 だれもそんなことをいってはいないのに、そういわれている気がする。

「……あまねだって、おうちに帰りたいもんね」

 ぽつりと言葉を落として、紬は部屋を出ていった。



7 綾人の夢


 目を細めてしまうくらい日差しがまぶしい、夏らしい陽気の日曜日。

 あまねが太陽の光に照らされて、かすんでしまうくらいだ。

「まぶしい」と、今日も文句をたれている。


 ピンポーン


 紬がチャイムを鳴らすと、男の人がでてきた。

「はい」

「こんにちは」

 銀縁のシャープなメガネをかけた綾人のお父さんは、梅子を快く玄関に招き入れる。

(涼しい……)

 外の暑さとはうってかわって、家の中はひんやりと気持ちがいい。

 玄関はきれいに片付けられていて、余計なものはなにもなかった。靴は散らばっていないし、傘も傘立てのなかにおとなしく並んでいる。壁には、花の絵が飾ってあった。

「今日は三人で勉強なんだって? 大変だねぇ」

 お父さんがいう。

「テストの一週間前だから、みんなでやろうってことになったんです」

 あまねが勝手に家の奥にいかないかに気を取られながら、紬が答えた。

 そこへ、リビングのほうから綾人が歩いてきた。

「いらっしゃい、あがってよ」

「おじゃまします」

紬が靴をぬいでいると、突然玄関が開いて、うしろから克樹の声が飛びこんできた。

「よっ、綾人! と、紬!」

「克樹くん、ちゃんとピンポンしなきゃ」

 紬がいうと、「おれと綾人の仲だからいいんだよ」と誇らしげに胸をそらした。

「親しき仲にも礼儀ありっていうでしょ!」

 紬の強い口調に、克樹は不満そうだ。

「昔は、もっとかわいかったのになー」

 そういって、頬をふくらませる。

「悪かったですねーっ」

 紬も小さく舌をだして対抗する。

「もう、けんかしないで。いくよ」

 二階は廊下を中心にして、左右に部屋がある。綾人の部屋には小学生のころからずっと、「あやと」とプレートがかけてある。

 ドアを開けてなかに入ると、道路に面した窓に背をむけるようにして、克樹と紬が並んで座った。綾人は冷房のスイッチを入れ、机をはさんで向かい合う。あまねは、その横に座った。

「じゃあ、やろうか」

 みんな参考書やノートを出し、シャープペンシルをカチカチいわせる。

「一問目~」と、克樹が余裕の表情で解きはじめたと思ったのもつかの間、

「わかんねえ……」

 シャープペンシルがノートの上に落ちた。

「まだ一問目だよ?」

 綾人は、参考書をなぞっていた手をとめる。

「だってわかんねーんだもん」

 勉強が苦手な克樹は、簡単な問題ですら解くのがおっくうなのだ。

「やればいい点取れるのに、やるまでが時間かかるよね」

 綾人の言葉に、「そんなこといってる間に教えてくれよー」と甘えたようなつくり声を出す。

「綾人くんは、どの教科も得意だよね」

 紬は数学がきらいで授業が頭に入ってこないのに、綾人に教わると案外すぐわかったりするのだった。

 克樹が頬杖をつく。

「綾人は、先生になりたいんだもんな」

「そうなの?」

(初めて知った……)

 綾人は、照れたようにえりあしをさわった。

「そうなんだ。まだ、ただの夢だけどね」

「でもすごいよ。夢があるっていいな」

 紬はにこにこと笑いながら、体を左右にゆらす。

「志があることは、いいことだな」

 あまねもめずらしく、前向きなことをいっている。

 綾人がたずねた。

「もとは人間だったっていってたけど、どんな生活をしていたの?」

 あまねは首を横にふる。

「覚えていない」

「んじゃあ、なにかやりたいことあったか?」

 これは克樹だ。

 あまねは目をふせて、どこか切なげな表情をした。

「覚えていないといったろう」

 綾人と紬は、なにもいえなかった。

 克樹だけが、「なんだよ、つまんねー」とむくれている。

(神様になると、前のことは忘れちゃうのかな)

 紬はあまねの顔をじっと見た。

(前髪、邪魔じゃないのかな。そういえば、あまねの目の色って何色だっけ? 黒? ちゃんと見たことないな)

 あまねを見ていると、昨日のことまで思いだしてくる。

(律先輩のこと、好きになれないかもっていったら、どんな顔するかな)

 だんだん心が重くなる。

「紬、聞いてる?」

 綾人が目の前で、手をひらひらとふった。

「あ、ごめん」

「ったく。話聞けよなー」

 克樹が口をとがらせる。

「紬は、楽器があるだろ?」

 急になんだろうと思いながら、首をかしげた。

 綾人が問題を解く手を進めながら、ときどき克樹を見る。

「克樹には、バスケがあるよね?」

 すると、克樹は軽く首をひねった。

「いや、おれはバスケが好きなだけで、才能があるわけじゃない。ほんとはさ、将来もバスケしてたいけど、できるかはわかんねーよ」

 いいながら、まだ一度も使っていない消しゴムをいじりだす。

(あ、やりたいことの話か)

 もう一度あまねをちらっと見て、二人に向きなおる。

「好きだけど……」

「なにが? フルートがか?」

 紬は目線を外して、机の上の真っ白なノートを見た。

「うん、でも自信ないな」

 綾人がおだやかにいう。

「僕も、先生になれる自信なんかないよ。今は、いつかそうなれたらいいなって思ってるだけ。そのために今できるのは勉強だし、きらいじゃないから勉強してる。紬も、今は好きなことを一生懸命やってたらいいんじゃないかな」

「やっぱりおまえはいいこというな〜」と、克樹は綾人を小突く。

 綾人はしだいに伏し目がちになる紬の様子に、不安そうな顔をした。

「紬、今日もあんまり体調良くないでしょ」

「え?」

「無理しちゃダメだよ。少し休んでたら?」

 うなずいて、紬はころんと横になった。途端に、目を開けていられなくなる。

 二人はまた勉強を始めたみたいで、克樹を鼓舞する綾人の声が聞こえる。

 あまねはどうしているのだろう。気になるけれど、眠気に勝てない。

 夢の奥へ落ちていく途中、また紬のなかにもやもやが現れた。

(あまねはわたしから早く離れて、自由になりたいんだろうな)

 それなのに、紬の心は律先輩に動くどころか、あまねのことに苦しくなるなんて。

(わたしは、律先輩よりあまねに惹かれているのかな……)

 律先輩は優しくて、みんなに好かれるいい人だ。

 あまねはみんなには見えない神様で、暗くて口が悪くて、大人なのか子どもなのかわからない。

 願い札に書いたのは、『優しい人』。

 それでも、あまねにはどこか、紬の心を惹きつけるものがあった。

(自分がわからない)

 紬は初めての感情に、苛まれるしかなかった。



8 あまねのおせっかい


 それから五日たった土曜日。この日がテスト前の最後の部活だった。

少しよくなったと思っていた体調は、勉強と部活の疲れからか、ぶり返している。

 合奏をしていたものの、あまりにも調子がずれているため、フルートだけ外で練習してこいといわれた。

 律先輩と二人、渡り廊下にでて校庭のほうをむく。

(わたし、律先輩にドキドキしなくなってる……)

 今までは、二人で練習するとなると、ちょっとした緊張感が漂っていたのに、今はまったくない。

 それよりも、いつもと違ってどこか上の空のあまねが気になった。

「雨が降りそうだ」

 律先輩がいった。

 紬は、朝のニュースを思いだし、空を見た。

「天気予報では、曇りのち雨っていってましたよ」

 メトロノームの音が、規則的にカチカチと響く。

 律先輩がフルートを構えた。

 紬はそれを見て、自然とフルートを唇に当てる。

「一、二」

 律先輩のカウントで入る。もう何度もやってきている場所だ。いつも先輩に注意されるのは、息が入っていないということ。気をつけて吹いたつもりだった。

 しかし、今日は特別、うすっぺらい音がでたのが、紬にもわかった。

「昨日もいったよな?」

 律先輩の表情が厳しくなる。

 紬は、「すみません」と謝るしかなかった。

(なんで、お腹に力が入らないの?)

 体のあちこちがだるく、いうことをきかないのを感じていた。

 律先輩は、その間も一生懸命に指導をしてくれている。

(なんで、いわれたようにできないの?)

 頭の上や顔の横を、律先輩の言葉が通りすぎていく。

 律先輩が、紬の肩をとんとんとたたいた。

「聞いてるのか? 立石にはフルートを続けてほしいから――」

「すみません」

 紬は、うつむいてぼそぼそと謝り続けた。

(なにやってるんだろう。こんなんじゃ、大会だってうまくいきっこないよ)

「立石!」

 ついに、律先輩はフルートを置き、梅子の肩をがっと掴んだ。

 はっと顔を上げた紬の目に、律先輩の哀しそうな瞳がうつる。

「どうしたんだよ。おまえの実力はそんなんじゃないだろ? 今までできてたのに、最近へんだぞ?」

「……わたし、自信ありません」

 消え入りそうな声を絞り出す。

 律先輩は肩から手をはなして、

「オレ、立石に自信つけてやれてなかったんだな」とつぶやいた。

(違う!)

 律先輩のせいではないと、目でうったえる。

 しかし、律先輩は続けた。

「オレは技術ばかりを教えようとしてきたのかもしれないな。技術だけ身に着けても、それは立石の自信にはならない。でも、この大会を乗り越えたら、その経験がきっと自信につながると思うんだ」

 律先輩は、いつになく真剣な眼差しで、紬を見た。

「だからあと少し、オレたち三年についてきてくれないか?」

(律先輩……)

 紬は、こんな先輩に憧れたのだと思いだした。

 先輩を好きとか嫌いとかに振り回されて、その気持ちを忘れさせてしまっていたのだ。

「がんばります」

 そう答えた紬の目に、涙が光る。

「泣くのはまだ早いぞ」

 律先輩が笑っている。

(わたしは、こんな先輩になりたかったんだ。律先輩の恋人になりたかったわけじゃないんだ)

 紬の耳には、校庭を走る運動部の熱い掛け声だけが鳴り響いていた。


 通り雨の中を、紬は一人でとぼとぼと歩いていた。綾人は塾へいき、克樹は、五才になったばかりの双子の兄妹の世話があると、先に帰った。

あまねが、うしろをついてきている。

紬は、今日の律先輩の姿を思いだしては、後悔していた。

(律先輩は、わたしが下手だから、技術を教えようとしてくれたんだろうな。それなのに、自信がないなんていって、恥ずかしい)

 傷つけておいて律先輩のことを恋愛対象として見られない自分にも、腹が立つ。

(あまねはこのこと知ったら、悲しむかな)

 そう考えたとき、「おい」と、あまねが声をかけた。

 紬が立ちどまる。

「あの人間のことを気に入ったか?」

 紬は、ばっとふりむいてあまねをにらんだ。

「毎日それ聞くのやめて!」

 とっさに、思ったことをそのまま口にだしてしまう。

(どうして、そう聞かれたくないの?)

 心のなかで、口を動かしている紬とは別の自分がいう。

 あまねは驚いた顔で紬を見た。

「な、なぜ? 私はおまえのために」

「もういいよ!」

 紬はさらに大きな声をだす。

「あまねが律先輩とわたしをくっつけようとするから、いつも部活にも集中できなくて、怒られて、今日なんか律先輩まで傷つけたんだからね!」

(ちがう、ちがう。こんなことをいいたいんじゃないのに)

「そんな……」

 あまねは眉間にしわをよせた。

「それは私のせいではないだろう! おまえの練習不足ではないのか⁉」

 紬は、胸がぎゅっと苦しくなった。

 だれかの大きな手が、自分の心を握りつぶしているようで、痛かった。

 あまねが、「なぜ好きになれない」と吐き捨てるようにいう。

「おまえが誰かを愛さなければ……。他に方法はないんだ……」

(わかってる。それ以外に、あまねが帰る方法はない)

 律先輩を好きになれないと伝えても、辛いのは自分のほうだと悟った。

でも、誰かに選ばれた人を好きになるなんて、わたしにはできない。

(舞花ちゃんが言ってた。自然と好きになっていくものだって)

「あまねも元々人間なら、好きってどんなかわかるでしょ?」

 自分でもよくわからないのに、言葉は止まらなかった。

「今は神様だから、人間じゃないからわからないの? もう疲れたよ。あまねのおせっかいには、うんざりだよっ!」

(はっ……いいすぎた)

 あまねが、いつからそんな顔をしていたのかわからない。でも、明らかに傷ついた顔だ。

 全身を抜けていく雨。まるで泣いているみたいだった。

「なら、もうやめる」

 紬は、なにかいおうと口を開けたけれど、言葉はなにも出てこなかった。

 そんな紬を見て、力なく笑う。

「はっ、なんだその顔は。もう私のおせっかいはうんざりなんだろう」

「ち、ちがう……」

(ただいらいらしちゃって……。ちがうんだよ、どうしよう)

 あまねは、「先に帰る」といって消えた。

 紬の気持ちとは裏腹に雨は止み、紬は泣きたいのをぐっとこらえ、かけていって庭に入った。

 まめきちがじゃれついて、足をなめる。

「くすぐったいよ。今日はどうしたの? いつもはなめたりしないのに」

 紬はまめきちの頭をなでてから、玄関の戸を開けた。

「おばあちゃん、ただいま」

 台所に顔をだすと、割烹着をきたおばあちゃんがほほ笑んだ。

「おかえり紬ちゃん。お腹空いてるでしょう」

「うん、すごく」

 おばあちゃんに笑いかけて、いつも通りカバンを二階へ置きにいく。

 そうっとドアを開けたけれど、そこにあまねの姿はなかった。

 紬は、勉強机のいすに座って、ベッドを見下ろした。寂しく転がるウサギのぬいぐるみ。

 いつもなら、あまねがベッドに座って「暑い」とか、「疲れたな」とか、「あの人間を気に入ったか」とかうるさいくらいにいってくるのに、今日はちがう。

(わたしが傷つけたからだ)

「こんなことなら、お願いなんかしなきゃよかった」

 そのとき、下からおばあちゃんの声がした。

「紬ちゃん、ご飯ができましたよ」

「はーい」

 紬は、制服を着替えて、いいにおいのする台所へおりていった。


 その夜、紬はなかなか寝付けなかった。目を閉じていても、頭ははっきりとしていて、あまねのことばかり考えてしまう。

 あまねは、自分のことを語らないかわりに、紬の話をよく聞きたがった。

 好きなものやきらいなもの、学校のこと。知ることがすごく楽しそうだった。

 ご飯のときは、おばあちゃんの見ていない隙をねらって、紬の手からおかずを食べていた。紬はそれを見て笑わないように、そっぽをむいてご飯を食べた。

 それなのに、今日はあれきり、あまねは姿を見せていなかった。

 紬がなんとかして眠りにつこうとしていると、車の音が聞こえた。あの音は、雨にぬれた路面をタイヤが走る音だ。

(雨、ふってたんだ)

 紬は、ゆっくりと目を開けた。

 暗い部屋にじっとしていると、紬は人間ではなく、ものになったような気持ちになってくる。

 人間ではない――。

 ふと、あまねのことが頭をよぎった。

 それを取り払うように、学校のことを考えようとする。部活のこと、フルートのこと。フルートのことを考えれば、律先輩も必ず現れる。

(そういえば、律先輩がいっていた)

『立石には、フルートを続けてほしいから』

 ということは、律先輩は、やめてしまうということなのだろうか。

(わたしはフルートを続けることができる?)

 かさのついた電球を見つめて、自分に問いかけた。

(ちょっと怒られただけで、すぐにへこんじゃうのに)

 自分の弱いところは、自分が一番よくわかっている。

 紬は、律先輩の弱いところを見たことがないと思った。

 勉強も部活も、なんでも器用にこなしているところしか、見たことがない。

 律先輩には、フルート以外にもたくさんの魅力があった。だから、きちんと勉強して、なにかを学ぶためにフルートをやめるのかもしれない。

(わたしから音楽をとったら、なにが残る?)

 美緒のように、しっかりしているわけではないし、克樹のように運動ができるわけでもない。綾人のように……と考えて、なぜかぽろりと涙がこぼれた。

 紬には、なにも残らない気がした。

(ううん。もとから、わたしにはなにもないんだ)

「あまね」

 梅子はその名を、ぽつりとつぶやいた。

「あまね」

 急に声が聞きたくなって、「あまね」と呼びたくて、返事をしてほしくて、苦しくなった。

 また涙がでて、梅子は布団にもぐった。ぎゅっと内側から布団をたぐりよせる。

 ぽろぽろとこぼれる涙は、鼻の上をとおって右頬から布団にしみこんでいった。声をださないで泣くときには、息をとめちゃダメだと、お母さんにいわれたことがあった。それを思いだして、深く息を吸う。その間にもじわじわとうかんでくる涙はとまらず、紬はついに起きあがってティッシュでぬぐった。

 枕元に、買ってもらったばかりの携帯が充電器にささって眠っている。

 紬はそっと、手をのばした。

 ロックを解除して、左下にあるみどりの電話のアイコンにタッチする。

 通話履歴は、お母さん、おばあちゃん、美緒ちゃん、克樹くん、おばあちゃん……。

 そういえば綾人とは、一度も電話をしたことがなかった。

 いつも遊びの連絡をまわすのは克樹で、二人が連絡を取り合うことはない。

 紬は、アドレス帳を開いた。

 上から三番目に、「綾人くん」はいた。

 紬の指は、綾人くんの番号の画面を開いてとまった。

(わたしは、なにをしようとしてるんだろう)

 紬は番号を見つめた。

(急に電話したらびっくりするかな。寝ていたら起こしてしまうし、やめておこうか。……でも)

 080……十一個の数字の組み合わせで、二人はつながることができる。

 十一個の数字。なら、いつも会っている友達とは、あまねとは、なにでつながっている?

 なんの組み合わせで? 運命、時間、いのち、偶然、巡り合わせ?

 すごく複雑な、まれなことが、この毎日には、人生には起きている。それはとても貴重で尊い。

 紬とあまねの不思議な出会いは、数学なんかでは表せないだろう。それに比べて、この数字はなんて簡単なんだろう。

 それでも紬は、十一個の数字の組み合わせで、綾人とつながりたかった。

 好きなことを一生懸命やったらいいといってくれた綾人なら、自分の話を聞いてくれるんじゃないか。

 全部話してしまいたかった。

 とんっと画面をタッチする。

 画面が変わって、呼びだし音が鳴る。

 紬は震える手で、携帯を耳に当てた。


 プルルルル……、プルルルル……


(寝ちゃってるかな)


 プルルルル……、プルルルル……


「でない」


 プルルルル……、プルルルル……


(わたし、なんで電話なんて)

 持論を並べて電話をかけて、なにがしたかったんだろうと、自分に苦笑しながら携帯を耳から離したそのとき、「もしもし?」と、綾人の声がした。

 あわてて携帯を耳に当て、返事をする。

「あ、綾人くんっ。わたし、紬」

「うん、わかるよ。どうしたの?」

 綾人の声は落ち着いていた。

 紬は、その声を聞けただけで十分だった。

「え、えっと……特に、用はないんだけど……」

「え?」

「いやあのっ、お、起こしちゃったかな?」

 さっきまで泣いていたことを忘れて、鼻をすする。

「ううん。これから寝るところだった。なにかあったんだね?」

 優しい声に、紬はあまねや律先輩のことを思いだし、洗いざらい話してしまいたい気持ちになった。

(でも、綾人くんに迷惑かけたくないな)

「……ほんとに、なんでもないの」

 紬がわざと調子を変える。

 綾人は、ふうと鼻から息をはいたようだった。

「そんな声だと、すぐばれるよ」

「えっ」

 紬はどきっとした。

(どうしてわかったんだろう。綾人くんてすごい)

「……ごめん」

「謝らなくていいから話して?」

 紬は、電話なのにこくんとうなずいて、話しはじめた。

「今日ね、律先輩に怒られたんだ。わたしがぼうっとしてるのがいけないんだけど」

「体調が悪かったんだし、仕方ないよ」

 電話の向こうの綾人は、いつも通り優しい。

 紬は布団をたぐりよせ、膝の上にウサギをのせる。

「いつもなにかと注意されちゃって。わたし、フルートむいてないのかなって思うの。間違えないように気をつけてるのに」

「律先輩は、どうして紬ばかりに注意するのか、理由があるはずだよ」

 紬は、少し黙って考えた。

(律先輩が、わたしに注意する理由?)

『立石には、フルートを続けてほしいから』という言葉がフラッシュバックする。

(わたしが下手だからじゃなくて、これからもっと上手くなってフルートが続けられるようにって、前向きに教えてくれてたのかな)

 注意する人にそんな思いがあるなんて、考えたことがなかった。

 紬が口を開く。

「うん、そうだね。でも、わたしそれをあまねのせいにしたの。ひどいこといったの。あまねのおせっかいって。それで、いなくなっちゃって」

 いったん言葉を切って、ウサギを見つめた。

 今からいうのは、だれにもいっていないこと。でも、綾人くんだから聞いてくれるような気がする。

「あのね……、最近あまねのことばかり考えちゃうの。ほかのこと、なんにも考えられなくなる」

 しばらくの間、綾人からの返事はなかった。

 なにをいわれるのか身構えていたけれど、綾人から返ってきたのは意外な言葉だった。

「紬は、あまねを大事に思ってるんだね」

「そう、なのかな」

 自分でも自分の気持ちがわからないから、と眉を下げる。

「あまねが悲しいと、わたしも悲しい。だから、あまねが元いたところへ返してあげたいけど……」

「寂しいんだね」と、綾人がいった。

「大切なのは、まだ知らないいろんな世界を、だれと見ていきたいかってことなんじゃないかな。なんて、受け売りだけど」

「だれと見ていきたいか?」

ふっと綾人が笑うのがわかった。

「今のは忘れて。かっこつけすぎた」

「あははっ」

 らしくない綾人に笑ってしまう。

「笑わないでよ」と、恥ずかしそうにいっている。その姿を想像して、紬はまた笑ってしまった。

「ごめん、うふふ」

(思い切って電話してよかった)

 紬は、綾人と話していくらか気持ちが楽になっていた。

「ありがとう」

 紬がいうと、綾人は「僕はなにもしてないよ」と返した。

「ううん、綾人くんだから話せたんだと思う」

「僕だから? そうか」

 電話口の綾人の声は、なんだか少し遠く聞こえた。



9 あまねの正体?


 外を通る車の乾いた音を聞いた紬は、目を開けた。

「ううん……」

 起きあがると、すぐさままわりを見る。

「あまね?」

 しかしそこには、カーテンの隙間からもれる朝日しかなかった。

(まだ怒ってるのかな)

 昨日、あまねを傷つけてしまったことを思いだす。

 紬は、いつもよりゆっくりと時間をかけて支度をした。もしかしたらあまねが現れるかもしれないと考えて、どう謝ろうかぶつぶついいながら靴下をはく。けれど、姿をみせることはなかった。


「今日からテスト週間だね」

 休み時間、舞花が話しかけてきた。

「そうだね。ちゃんと勉強しないとね」

 舞花が声をひそめる。

「あのさ、ちょっとこっちきて」

「なに?」

 手招きされ、紬は席を立った。

 窓から入ってくる風にカーテンがゆれ、手すりの影が床にうつる。

 舞花はふんわりと浮きあがるカーテンに身を隠すようにして、紬を教室の隅に押しやった。

「ねえ、今日はいないの?」

 にっと口角を上げ、わくわくした顔をする。

 紬は、「え?」と首を少し前にだした。

 舞花が、ふふんと気取ったように鼻を鳴らす。

「ごまかさないの。最近ずっと、一人でこそこそ話してたじゃん」

(うわっ、きっとあまねのことだ!)

 一瞬、時がとまったかのような沈黙が流れ、紬は開けっ放しだった口を閉じてつばを飲みこんだ。

「ま、舞花ちゃん、昨日までなにか見えてたの?」

 紬がおそるおそる聞くと、舞花は紬の目の前で、人さし指をくるくる回した。

「あたしじゃなくて、紬ちゃんが幽霊でも見えてるんでしょー?」

(舞花ちゃん、見えてはないんだ。びっくりした……)

 紬は大げさに笑う。

「そんなわけないじゃん! ひとりごとだよー。ほら、舞花ちゃんに相談してから、よく考えるようになってね、ひとりごとが増えちゃったのー」

(ちょっと無理やり過ぎたかな)

「そんなに考えさせちゃうなんて、舞花ちゃんって罪~」

 自分のアドバイスが役立ったのが、嬉しかったみたいだ。頬に手を当ててうっとりしている。

 紬はほっと胸をなでおろした。

(舞花ちゃんに見られてたなんて……。でもそれって、わたしはあまねとふつうに会話してるってこと? そういえば最近は、たあいのないことも話してたかも)

 いつも一緒にいたもんね。

 紬は学校にいる間、自分が見えなくなっただけで、あまねはどこかにいるのではないかと、何度もこっそり名前を呼んだ。しかし、あまねから返事が返ってくることはなかった。


 美緒が「気になることがある」といったのは、昼休みのことだった。

廊下の隅に呼びだされ、紬は美緒のなんともいえない表情に不安を感じる。

 美緒は、「私にもまだわからないんだけど」と切りだした。

「あまねのこと……。いついおうか悩んでたんだけど、いないうちがいいと思うから、いうわね。その……、あまねは、神様じゃないんじゃないかって思うの」

 廊下のざわめきが、途切れたような気がした。

 紬は、目をふせている美緒にたずねる。

「神様じゃないって、どういうこと?」

「あまねから、いいオーラみたいなものを感じないのよ。この世に生きているものでないことは確かなんだけど、正直、なんなのかよくわからないわ」

「なんで? だってあまねは恋愛の神様だって」

「自分からそう名乗った?」

 美緒の一言で、紬は言葉を失った。

 たしかにあまねは、自分は何者なのか話したわけではない。名前もないといっていた。

「私ね、思うんだけど、紬ちゃんの体調が悪くなりはじめたのって、あまねが来てからじゃない?」

 美緒は、危機感をあらわにした口調で話し続ける。

 紬は顔をしかめて記憶をたどる。

「それに、あまねと離れているときは、症状が落ち着いているような気がするの。実際、今はなんともないでしょう? よく考えたら、恋愛の神様が直接人間とかかわって、だれかとくっつけるなんておかしいわ。神様って、そういうんじゃないと思う」

 早口でいう美緒は、心底心配しているようだった。それが伝わって、紬はのどのあたりが苦しくなった。ゆっくりと深呼吸をする。

「なら……あまねは、何者なんだろう」

 美緒はきっぱりといった。

「私、家で調べてみるわ。古い書物をあたれば、なにかわかるかもしれない」


 暗くなった田んぼや畑に響くカエルの声を聞きながら、紬はいつもより大きな歩幅で家に帰った。頭にうかぶのは一つだけ。玄関を開けると、台所によらずに自分の部屋へとむかった。

 そうっとなかをのぞいて、「そうだよね」と肩を落とす。

 あまねがいない部屋は、がらんとしていた。

 紬はいつもあまねが座っていた場所に腰かけ、美緒にいわれたことを思い返す。

(あまねは神様じゃないなんて、本当なのかな)

「たしかに神様っぽくないけど」と、だれもいない部屋に声を放る。

「でも、悪い妖怪とか幽霊とかじゃ、絶対ない」

 紬のなかではもう、あまねは神様でも妖怪でも幽霊でもなかった。

 あまねという、一人の少年だった。



⒑ 初めての地区大会


 あまねは、それから一週間たっても姿を現さなかった。

 いつの間にか、七月も二十六日になっていた。

 大会への道のりは順調で、律先輩にほめられることも増えているなか、ついに迎えた本番。あまねがいなくなり、彼氏のような発言をしなくなった律先輩は、紬の前の座席に座っている。

 思えば、あの日だって、あまねは先輩に何もしていなかった。

(それなのに――。ううん、今は大会に集中しなきゃ)

 部員を乗せたバスは、市民文化会館の駐車場に停車した。

 ぞろぞろとバスを降りていく。

「自分の楽器預けて、打楽器運んで!」

 先輩の声に、はきはきと返事をし、先についていたトラックから楽器を運びだす。

 全員で協力して、打楽器を待機場所へと運んだ。

 そのあとは、お昼ご飯までほかの学校の演奏を聴いてすごした。

 紬と美緒は、会場外のベンチに座ってお弁当を広げる。

「最後に課題曲Ⅰをやったところ、すごく上手だったわね」

 美緒がミニトマトを口に入れる。

「きっと金だろうなぁ」

 この大会の順位は、金・銀・銅の三種類で分類される。なかでも、ゴールド金賞と発表された学校は、もう一つ上の大会に出場することができるという仕組みだ。

 紬は去年、この場所で先輩たちの演奏を聴いたことを思いだしていた。

(ホールに響く音と拍手がすごかったなぁ)

 まわりを見れば、さまざまな制服を着た中学生でいっぱいだ。

 ここにいる人みなが、たくさん練習をつんだ成果を発揮しにきている。

 そう思うと、紬も美緒も緊張せずにはいられなかった。

 のんびりとしている余裕はなく、楽屋でチューニングを行う時間を迎える。

 三十人以上が入るには少し小さい楽屋が、この大会の醍醐味だったりする。

「せまっ」

「442ヘルツでいい?」

「暑い!」

 本番前で落ち着きがなくなっているのか、いつもより発言が多い。

 いろんな音が混ざりあって、より緊張を高まらせた。

「チューニングします」

「はい」

 順番に、全員の音が重なっていく。低音の厚いB♭に続いて、ホルンとトロンボーンの温かい音が響く。そこへトランペット、クラリネット、アルトサックスが入り、フルートとピッコロがのる。

「暑くて少しうわずってるけど、ステージだとたぶん少し変わると思うから、周りの音よく聞いてください!」

「はい!」

 返事にも自然と気合が入る。

 何度か音を合わせ、ハーモニーを確認したところで時間切れとなった。

 あわただしく楽屋をでて、ステージ裏へ移動する。

(早い! こんなにバタバタするんだ)

 律先輩がピッコロとフルートの二本を持っているため、紬は律先輩の楽譜を預かった。

 譜面台は出演者全員が同じものを使うため、荷物は少ないが、そのぶん体は緊張と不安でいっぱいだ。

 ステージ裏には、オーディションに敗れた一年生が、打楽器の搬入のためにスタンバイしていた。

 紬たちの本番は、前の学校が退場するときからはじまる。退場とともに、紬たちが袖からステージに出て、それぞれの配置につく。いすや譜面台が足りなければ補充するが、梅子たちは大編成でも少人数だから、その心配は少ない。

コンサートマスターと呼ばれる、指揮台の左側に座る人が、前に立って全体のバランスをチェックする。その間に、一年生とパーカッション、楽器を預けてあって手の空いている人が、あらかじめ決めておいた担当の打楽器を定位置に運ぶ。このとき楽器をぶつけたり、もたもたしたりしていると印象が悪くなる。

セッティングと退場に使える時間は三分、演奏に十二分。一校に対し、合計で十五分の時間が設けられている。

(うまく吹けなかったらどうしよう)

「立石、緊張しすぎるなよ」

 律先輩がいった。

「はい」

 紬の声は緊張感にあふれている。

「間違えないようにと思って吹くな。伝えたいことを表現しろよ」

 紬は、ぱっと律先輩の顔を見た。

「大会本番は一回きりだ。楽しんで吹け」

「はい!」

(そっか。間違えないようにするんじゃなくて、伝えたいことを吹いたらいいんだ)

 紬は、ぱあっと晴れやかな気持ちになった。

 前の学校の演奏が終わり、紬たちがステージへ出る。

(客席から見るのと全然ちがう……)

 初めての大きなホールに、紬は圧倒されそうだった。

 セッティングが済み、指揮者が壇上に上がると、拍手が起こった。

ステージはまぶしい光に包まれ、客席は暗くなり、お客さんの顔はほとんど見えない。

 全員が指揮者に注目する。

「落ち着いて」と、先生が口パクでいったのがわかった。

 紬はドキドキと高鳴らせたまま、先生が指揮棒を立てるのを見て、楽器を構える。

 制服のこすれる音がした。ふーっと静かに息をはく。

 すっと指揮棒が下がり、上がるのと同時に息を吸う。

 そして、一曲目の課題曲である、マーチがはじまった。

 最初の華やかな場面から、テンポよくマーチングをし、ぐっと音をおさえたトリオに入る。繰り返しが続き、最後にもう一度盛りあがりを持ってきて終わる。

 理想の音の響きだった。

(やった、一回もミスしないで吹けた)

 それでも、紬が固い表情を崩すことはない。

 続いて自由曲にうつるため、何人かが場所を変わる。

(まだドキドキしてる。落ち着かなきゃ)

 全員がまた指揮者に注目し、演奏がはじまる。

 何度も練習したところ、うまくできなくて苦しかったところ、気に入っているところ。このステージで、このメンバーで吹くことができるのは、この一回だけだ。

 だから、いい演奏をしたい。そう思ってまわりの音を聞こうとしても、律先輩の音を聞くだけで精一杯だった。体がかたくなっているせいか、うまく息が吸えない。

(えっ、どうしてつまっちゃうの?)

 あせってしまい、思い切り音をだすことを躊躇(ちゅうちょ)する。

 それでも、紬はなんとか音に思いをのせようとした。

 しかし、納得のいく演奏ができないまま、客席からの拍手のなか、初めての大会のステージをあとにした。


 気持ちで吹いた地区大会。

 結果は、ダメ金。ゴールド金賞ではない金だ。県大会には進めない。

(律先輩に、あんなに練習に付き合ってもらったのに)

 部員は、ほとんどみんな泣いている。紬も涙で顔をぐちゃぐちゃにして、律先輩のとなりに立っていた。

 律先輩は、泣いていなかった。それどころか、紬に笑いかけた。

「立石、泣くなって。また来年がんばればいいだろ?」

(律先輩には、来年がないじゃないですか)

 紬はその言葉をぐっと飲みこんで、ぼろぼろと涙を流す。

「オレは、最後に立石が気持ちで演奏したのを聞けて、うれしかったよ」

「律先輩、ごめんなさい」

 わたしがもっと、練習していたら。

 わたしがもっと、うまく吹けていたら。

 紬は悔しくて、申し訳なくて、律先輩の顔を見られなかった。

 律先輩は、ぐしゃぐしゃと紬の頭をなでる。

「楽しみは、取っておくほうがいいっていうだろ?」

 そういって笑う律先輩に、紬はいった。

「わたし、律先輩みたいな、かっこいい先輩になります」

 律先輩は、「うんうん」と満足げにうなずいていた。



⒒ 萩(はぎ)の花


「先輩への気持ちは、あこがれだったんだ。これからもずっと、あこがれの先輩」

 紬は、庭でまめきちとたわむれながらそういった。

 七月最後の日。めずらしく、部活は休みだった。青い空に入道雲がもくもくと形をつくり、生暖かい風が紬の頬をなでる。

 美緒と綾人は、庭に置かれた小さなベンチに座っている。

「そう。じゃああまねへの神頼みは、失敗だったってわけね」

 美緒が寂しそうにいった。

 紬は、静かにうなずく。

「あまねのこと、考えないようにしてたの。きっと、わたしにひどいこといわれて愛想つかしたんだよね」

 綾人は、地面を見つめて黙っていた。

 美緒が紬をなぐさめようと、ベンチから立ちあがる。

 それとほぼ同時に、玄関からおばあちゃんが出てきた。

「はい、よく冷えたスイカだよ」

「わあっ!」

 美緒が、お皿にのっている真っ赤なスイカを見て、おばあちゃんにほほ笑む。

「食べてごらん」とおばあちゃんにいわれ、美緒はスイカを手に取った。

 綾人もベンチから立ちあがる。

「紬、僕たちもいこう」

 紬は、綾人の優しい笑顔でいくらか心がほぐれるのを感じた。

「いただきまーす」

 三人は、スイカにがぶっとかみつき、庭にぽたぽたとしみをつくる。

 セミの声を聞きながら、おばあちゃんがいった。

「もう、七月も終わってしまうねえ」

「そうだね」と、紬が答える。

「そうだ、八月の終わりになったら、私のお友達の刈り入れを手伝ってもらおうかしら」

 美緒は、太陽に照らされ、ゆるやかな風に吹かれる稲穂を想像する。

「きっときれいね」

「僕、刈り入れなんてしたことないや」

 綾人の言葉に、ふと、おばあちゃんがいった。

「娘子(をとめ)らに 行(ゆ)きあいの早稲(わせ)を 刈る時に なりにけらしも 萩の花咲く」

 紬たち三人は、ぽかんとおばあちゃんを見た。

 おばあちゃんはくすっと笑って、「万葉集(まんようしゅう)だよ」といった。

「行きあいの早稲を刈る時になったらしいなあ、萩の花が咲いているよって、季節を詠んだうただねぇ」

「行きあいの……」と、紬はつぶやいた。

 おばあちゃんは続ける。

「季節の交代のことをいうんだよ。夏と秋の交代の時期に実をつけるお米を、早稲といったりもするのさ」

 綾人は、「萩の花なら知ってます」とほほ笑んだ。

「紅色のような、紫色のような、小さな花ですよね」

 紬は、うーんとあごに手を当てた。

 おばあちゃんが、紬にいった。

「萩の花は、うちにも咲いているから見てごらん」

 綾人が萩の花を知っていてうれしくなったのか、おばあちゃんはもう一つうたを詠みはじめる。

「朝霧の たなびく小野(おの)の 萩の花 今か散るらむ いまだ飽(あ)かなくに」

 今度は、美緒が反応した。

「朝霧町で詠まれたみたい。でもなんだか寂しい」

 おばあちゃんは大きくうなずく。

「私もそう感じるのよねぇ。これは、萩の花はもう散ってしまったのだろうか、まだ見飽きないのにって、惜しむうただよ」

「まるで、切ない恋みたいね」

 美緒がつぶやく。

 紬は、美緒を見て声をはずませた。

「わたしも思った! まだそばにいたいのに、もういられなくなったみたいな」

(あまね……)

 なぜか、あまねのことが頭にうかぶ。

(へんなの)と、紬は自分に苦笑した。

 お昼になると、バスケにいっていた克樹がやってきて、五人でそうめんを食べた。

 その間、綾人は先ほどの紬の様子を気にかけていた。

 美緒は味を占めたらしく、おばあちゃんにいろいろなうたを教わっていた。

 克樹が、額や首の汗をぬぐう。

「あちーな」

「そうだね。明日からは八月だもんね」

 綾人がそういい、冷たいほうじ茶に口をつけた。

 克樹は一気に飲んで、「あぁーっ」と息をはきだす。

 美緒が、「おじさんみたい」と笑っている。

 紬は、紅紫の萩の花を見ていた。花のそばにしゃがんで、おばあちゃんのいっていたうたを思いだす。

(あまねと、もう少し一緒にいたかったな)

 すると、綾人がとなりにきていった。

「あまねのこと、考えてたの?」

 紬は、心臓がどきっとなったのがわかった。

「……うん。でも、もう考えるのやめる」

 綾人が切なげにほほ笑む。

「そうか。それでいいの?」

「だって、もう会えないもん」

「美緒」と、綾人が呼んだ。

 美緒は、綾人が呼んだ意味がわかったのか、意を決したような表情でこちらへくる。

「紬ちゃん、私あまねのこと調べるっていってたでしょう? それで、わかったことがあるの」

 紬は、素早くまばたきをして「なに?」といった。

 美緒が綾人とは反対側にしゃがむ。

 そして、落ち着いた声でいった。

「あまねは……、ひだる神(がみ)よ」

 聞いたこともない名前に、紬は眉をよせた。

 美緒がカバンから古い本を取りだし、あるページを読みあげる。

「道の怪、または山の怪。山の峠などで通りかかった人に飢餓感を覚えさせる。空腹のときなら一歩も動けなくなる。餓死させることもあるらしいわ」

「え、飢餓感って……」

「そうよ。紬ちゃんが感じてた空腹感のこと。それにね、ひだる神は、行合(いきあい)神(がみ)とも呼ばれているの」

 紬は「うん?」と首をひねる。

「行きあいの早稲と同じ名前……。季節の交代の神様?」

 美緒は、梅子の目を見た。

「ちがうわ。歩いている人にとりつくという神よ。峠とか墓地とかで、急に体の力が抜けたような感じになるらしいわ」

「それ、わたしも感じた……」

紬が困惑した表情で、美緒を見た。

「で、でもほら、いきあいって恋愛の神様じゃないの? 美緒ちゃん、あのときわたしにそう教えてくれたよね?」

 美緒は首を横にふる。

「私が紬ちゃんのことをいったのは、『生愛染』よ。勘違いしたのか、忘れちゃったのか、行合神を呼んだのね」

「そういえば、わたし――」

『――いきあいの神様に、会えますように!』

 紬は、あの日願ったことを思いだした。

「だから、あまねが出てきたのよ。というか、きっとその辺をうろついていたのね。あまねの正体は、行合神。遊(ゆう)魂(こん)であり妖怪の類にも入る、タチの悪い存在よ」

「そんな……」

どうして、あまねは教えてくれなかったの?

わたしを、餓死させるつもりだったの?

なら、なんで恋愛の神様なんてうそをついたの?

 綾人が紬の肩に手を置いた。

「なにか気になることがあるのなら、ちゃんと聞いたほうがいいよ」

 紬が「よし」というように短く息を吸う。しかし、それは小さなため息となってはきだされた。

「でも、あまねがどこにいるのかわからないよ」

 綾人が美緒に問いかける。

「なにか手がかり……。そういえば、懐かしいっていっていたんだよね」

「松の木」と、美緒がいった。

「あまね、うちの神社の松の木を、懐かしいっていっていたの。故郷を思っているなら、もしかしたら現れるかもしれないわ。今日は夏越の大祓もあるし、紬ちゃんと約束していたのなら……」

(わたしが勝手に約束ねっていっただけだし、祓われるかもしれないところにあまねはこないかも)

でも紬は、小さな希望を捨てることはできなかった。

 綾人が、梅子をまっすぐに見ていう。

「僕は塾を選んだとき、有名な進学塾を希望してた。でも、すごく遠くて、もし通い始めたら、克樹や美緒や紬といる時間が短くなってしまうって思った。僕はそれが嫌だったから、今の個人塾に通ってるんだ。そうしてよかったなって思ってる。ちゃんと自分で納得できる道を選んだら、きっと後悔しないよ」

 紬は、綾人ににっこりとほほ笑んだ。そして、すくっと立ちあがると、そうめんをずるずるすすっている克樹とおばあちゃんにいった。

「わたし、夏越の大祓にいく」


⒓ 夏越の大祓


「これ、おばあちゃんにもらってきたんだ。あまねが見つかるように、お守り」

 出がけに綾人が紬の髪にさしたのは、萩の花だった。

「ありがとう」

 紬は真剣な瞳で、綾人を見つめた。

 克樹は腕組みをして、紬と綾人にいう。

「オレたちはここで待ってるから、がんばってこいよ」

「紬ちゃんのことはまかせて」

 美緒がポニーテールをくりんとゆらし、背をむける。

「じゃあ、いってくるね」

 紬は二人に手をふって、神社にむかった。


 二人が魚谷神社につくと、草を編んだような大きな緑色のわっかが目に飛びこんできた。大勢の人が八の字にくぐっていく。

「ちょうど、茅(ち)の輪(わ)くぐりをしているところね」

「茅の輪くぐり?」

 紬が聞くと、美緒は教科書を読んでいるかのようになめらかに説明した。

「くぐりながら、『水無月の夏越しの祓する人はちとせの命のぶというなり』って唱える儀式のことよ」

 紬は茅の輪をじっと見つめた。

(これが、悪い神様を祓うもの……?)

 すると、美緒が茅の輪のあるところとはまた別の、広くあいた場所を指さした。

「最後にあそこで形代を焼くの。簡単にいうとそれでおしまいよ」

「へえ……」

 紬が初めて見る光景に感心していると、美緒がいった。

「さあ、早くあまねを探しましょう」

 紬はうなずいて、あたりに目を走らせた。

「どこ、あまね」

 松の林になっているところへ、歩みを進める。参拝客はみな本殿のほうに集まっているため、ここへはだれもきていなかった。

 紬はきょろきょろと、あたりをみまわした。

「あまね、いるの?」

 あまねの姿は見えない。

 紬は、少しずつ歩きながら、さらに声を張って呼ぶ。

「あまね! あまねぇっ!」

「ああ静かにしてくれ、うるさいな」

 懐かしい声がして、紬はふり返った。

 松と松の間から出てきたあまねは、最後に見たときとなにも変わっていなかった。

「あまね……」

 紬は一度、目を見開いてかたまった。そして、あまねにかけよると、ぐっとあごを上げて見つめた。

「今までどこにいたの? 今日は大祓の日って知ってたよね。どうしてここに?」

 あまねは眉間にしわをよせ、指で目頭を押さえる。

「そう一度に多くをしゃべるな。私はおまえとの約束を守っただけだ」

「約束?」

 紬は目をしばたいた。

「わたしがいったこと覚えてたの?」

「約束、といわれたら、覚えておかないわけにはいかんだろう」

 あまねの顔は、松の林にかげって暗く見える。

(わたしのために、きてくれたんだ)

 紬は、きゅっと心が縮まったような気持ちがした。

「わたし、わかったの」

 きちんと話そうと、落ち着いた声をだそうとする。

「恋愛の神様のあまねと出会って、たくさんむかついたけど……」

 紬はそういい、あまねの瞳を見つめようとしたが、長い前髪が邪魔をしていた。それでも、まっすぐ言葉を放つ。

「わたしが一緒にいたいのは、あまねだってわかったんだ」

 あまねは、動揺しているようだった。顔が引きつる。

「ばかをいうな。私は人間ではないと、おまえがいったろう?」

 紬はうつむいて、言葉を探す。

「うん……。あのときはいいすぎた。ごめんなさい。でも、あれからわたし、あまねのことばかり考えてたの」

 もう一度、しっかりとあまねを見る。

あまねは、紬と目を合わせようとしない。

 しばらくの沈黙のあと、あまねが重い口を開いた。

「……恋愛の神様なんて、うそだ。私は、ただの遊魂にすぎない」

 紬は、あまねから目をそらさない。

「怒っているのか……? いや、返す言葉もないか。だましていたのだからな」

 紬は、ふっと頬をゆるめた。

「知ってるよ。あまねが本当は、行合神だってこと」

「え……」

 あまねは瞳を大きく見開いた。

そのとき、ひゅうっと風が吹き、あまねの長い前髪をすくった。

これまで、一度も触れることのなかった風が、あまねの体に吹き付けた。

 漆黒の髪の間から、紬と同じ黒い瞳が見える。

 紬は初めてあまねと目を合わせ、一瞬言葉を失う。

「……あまねの目、やっぱり黒かったんだね。わたしと同じ」

(人間みたい)

 その言葉をしまって、紬はあまねの瞳をのぞきこむ。

「どうして、うそをついてまで、恋愛の神様なんてやろうとしたの?」

 あまねは少しいうのをためらってから、小さな声で答えた。

「おまえの、うれしそうな顔が見たかったから」

そして、湧水が細く湧きでるように、静かに語りはじめた。

「私も、だれかを愛し、愛されるという気持ちを知りたかった」

 昔を思い返すように、松を眺める。

「私は父上にも母上にも愛されない子どもだった。家は貧しく、兄弟は病で倒れ、私しか働き手はいなかった。そのうち私は死に、私の魂は、この世を何百年もさまよい続けた」

 あまねの顔は、ひどくやつれているように見えた。

 紬は、両手を口元に持ってきて、ぎゅっと握った。

「わたしがあんなこと願ったから、あまねを苦しませたんだね」

 あまねは、頭を横にふる。

「それはちがう。私は好んでおまえのそばにいたのだ」

「え?」

「初めはほんの好奇心だった。おまえたちが、私の姿が見えると知り、すぐに去るつもりだった。だが、あのときおまえに礼を言われただろう。不思議な心地だった」

 あまねは憂いをおびた瞳で、紬を見つめる。

「そのせいで、おまえに辛い思いをさせた。私がそばにいては、おまえの命を蝕んでしまう。早く離れなければと、おまえの心痛を無視して、大村律を気に入るよう強いてしまった」

(それじゃあ、全部わたしのために……?)

一息ついて、力なく微笑む。

「私がふつうの人間だったら、おまえの恋を叶えてやれたのか?」

 紬は、じわじわとうかんでくる涙に負けないよう、声を上げた。

「わ、わたしは、あまねのことが」

「ちがう。私は、あまねではない」

 紬の言葉をさえぎって、あまねは片方の手のひらをこちらにむけた。

「人間でもない」

 紬は、説得するようにいう。

「昔話には、そういう話もあるじゃない。もしこれが、大切な気持ちなら」

 あまねは、その言葉にも割って入った。

「それは作り話だ。現実とはちがう。その大切な気持ちは、私のものではない」

 なにもいえなくなると、あまねは髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。そして、悔しそうに半分笑いながらいった。

「おまえのような娘に、愛を教わるとは思わなかった」

 紬の目から、我慢していた涙が流れた。

「もうこの世に止まる理由はない。消えるよ」

「だめだよ」と、紬は震える声でいう。

「綾人くんが、一緒にいたい人はだれなのか教えてくれたの。ほら、これもあまねが見つかるようにって!」

 紬は、髪にさした萩の花を取った。

 あまねはそれを受け取って、紬に聞こえないくらい小さな声で「お人よしだな」といった。

 紬はすがりつくように、あまねの腕をつかむ。

「わたし、おばあちゃんに教わったうたで、あまねに会いたいと思ったの。えっと、『朝霧の、たなびく小野の萩の花、今か散るらむいまだ飽かなくに』」

 あまねはちょっと考えて、うたを返す。

「明(あ)け闇(ぐれ)の 朝霧隠(あさぎりごも)り 鳴きて行く 雁(かり)は我(あ)が恋 妹(いも)に告げこそ」

 そしてゆっくりとまばたきをし、優しくほほ笑んだ。

「私は、おまえに生きていてほしいんだよ。生きて逢(あ)いたいんだ」

「生きて、逢う……?」

「そうだ。互いに生を受け、この世に生きているときに逢いたい。それがいつの世であっても、私はおまえと逢いたいと思うよ」

 あまねの低い声が、少年の声に変わっていくように聞こえる。

 紬は、目にいっぱい涙をためた。

「私がいつか生まれ変われたら、そのときに」

「うん」

 体が透き通って、紬の手から、あまねの体温が消えた。

 ぼろぼろと、ためた涙がこぼれおちる。

「もう泣かなくていい、目を閉じて」

 紬は素直に、目を閉じた。涙が頬を伝う。

 あまねは紬の口元に、萩の花をかざした。

「三度、息を吹いて。ゆっくりと」

 紬は、いわれたとおりに息を吹く。一回、二回と吹くごとに、体がだんだんと軽くなっていくのを感じた。

「この萩の花は、焼き払うんだ。いいね」

 そうしてあまねは、紬の髪に萩の花を戻して、そっといった。

「おまえは、まだ気づいていないだけだよ。もうとっくに行き逢っていることに」

 紬が泣きながら、「どういうこと?」と目を開ける。

 あまねはもう、消えていた。


 紬と美緒が戻ったのは、日が暮れはじめてからだった。

 坂の上では克樹と綾人が待っていて、二人は目を真っ赤に腫らせた紬に驚いた。

 美緒が、紬の家へと歩きながら、紬から聞いた成り行きを説明する。

 二人はそれを黙って聞いていた。

 紬は庭のベンチに座って、髪から外した萩の花をぼうっと眺めていた。まめきちが足をなめても、いつものようになでることはない。

――『あまね』は、わたしにとって、妖怪でも神様でもない、人間と同じ存在だった。でもあまねは一度も、わたしの名前を呼ばなかった。

(あまねはきっと――)

 綾人が紬の前に立つ。

 紬は、綾人を見上げた。

「お守り、効いたみたいでよかったよ」

 そういって目を細める綾人に、紬は心がじんわりと温かくなった。また涙がうかんできて、綾人に見られないよう下をむく。

「ありがとう。でもね、このお守りは焼かなきゃいけないんだ」

 紬がいうと、綾人は不思議そうな顔をした。

 紬は、苦しくて神社で焼き払いをすることができなかったと、綾人に語った。

 綾人は「そうだったんだね」と言葉のはしから息をもらす。

 それを見ていた克樹が、あっけらかんとした声でいった。

「じゃあ、ここでやったらどうだ?」

 紬は腫れた目で克樹を見つめた。

 美緒がカバンのなかから、木のかけらのようなものを取りだす。

「それは?」

 綾人がたずねた。

「一里松のかけらよ。うちの神社、松の手入れをするときに出た枝を、松には清めの力があるからって焼き払いに使っているの。一応持ってきて正解だったわ」

「じゃあ、それを使えば本当の焼き払いと同じような効果があるってこと?」

「まあ、場所がちがうから断言はできないけど、そういうことね。ちなみに、マッチもあるわよ」

 克樹と綾人はすっかり面食らって、美緒を見たまま動かなかった。

 紬は眉を下げて笑い、焼き払いをしようと立ちあがる。

「美緒ちゃんはやっぱり、わたしのお姉さんみたいだね。ありがとう」

 美緒は「いいのよ」と恥ずかしそうにいう。

 そしてそのままベンチからはなれ、庭にあった一斗缶のなかに松のかけらを入れた。

 マッチをすって、火をつける。


 ぼう……


 オレンジ色の炎が、松を包んだ。日が暮れかけた庭に、小さな明かりが灯る。

「紬ちゃん、いいよ」

 美緒が、萩の花を火に入れるようにいう。

 紬は、手で包むようにして萩の花を一斗缶の上に持っていき、なかをのぞいた。

 小さく燃える一斗缶のなかは、熱くて、あまねを苦しめてしまう気がして、手をはなすことができない。

(これ以上、あまねを苦しめたくない)

 はなそうとしても、指と指がくっついてしまったようにはなれない。

(でもこの手をはなしたら、あまねは本当に死んじゃう)

 紬の目に、じわっと涙がうかんでくる。

 克樹がいった。

「あいつと生きて逢うためには、一度その魂から解放してやんないとなんだろ?」

 紬は、こっくりとうなずいた。涙が炎のなかに落ちる。

ふと、綾人がじっとり汗をかいた紬の手を包んだ。

「僕が一緒にやるよ。紬が辛いのは、僕も辛いから」

 オレンジ色に照らされた綾人の顔は、どこか大人びて見えた。

 紬は顔をゆがませながら、手元を見る。

 そして、

「さよなら」

 そういって、手を開いた。


 はら


 萩の花は、一瞬で火のなかに落ちた。

 それはあまねと過ごした時間のように、はかなく消えていった。

(あまね、さよなら……)

 四人はしばらくの間、燃え続ける火を見つめていた。


「さて、綾人。俺たちの出番だぜ?」

 沈黙のあと、克樹が口を開いた。

 紬と美緒が、「え?」と顔を見合わせる。

「綾人、今はやめておいたほうが」

「いーやっ! こんなときだからこそやる!」

 そういって克樹が見せてきたのは、特大の花火セットだった。

「な、なにこれ? 今からやるの?」

 美緒がいうのもお構いなしに、克樹はバリバリと袋を破る。

「ほれ! 最初はやっぱり線香花火だろー! パチパチパチパチ~ってな」

「はあ? それは最後でしょ? まずは手持ちの……って、おばあちゃんに先に許可取らないと!」

 克樹のペースに流されかけ、美緒ははっと我に返る。

 しかし克樹は「もう取ってある!」といって、美緒と紬に線香花火を持たせた。

 綾人があきれたように笑っていう。

「二人が神社にいっているときに、克樹が思いついたんだ。おばあちゃんにはちゃんといってあるから安心して」

(克樹くん、わたしを元気づけようと思って……?)

 紬は、さっそく一人線香花火をはじめている克樹に目をやった。

(美緒ちゃんがわたしのお姉さんなら、克樹くんはお兄さんみたいだなぁ)

 そう思うと、自然と頬がゆるんでいく。

 紬の手を、美緒が引っ張った。

「こうなったら、あいつばっかりにやらせるの悔しいし、私たちも早くやろう」

「うん」

 紬は、克樹と美緒がどちらが火玉を落とさないでいられるか競っている横で、綾人と向かいあって花火に火をつけた。

 シュウとわずかな音を立てて、丸い玉ができていく。

「きれいだね」

 紬がいうと、綾人は「うん」とほほ笑んだ。

(なんか、綾人くんを見てると安心するな……)

 綾人は、優しく言葉を紡いでいく。

「僕さ……、あまねは平安時代の人だったんじゃないかって思うんだ。万葉集の和歌を知っていて、水干を着ていたし、一里松のことを懐かしいっていった。一里松は熊野古道に生えていたんだ。そして、昔そのあたりで飢餓で亡くなった人が、ひだるとして出るといわれているんだよ」

 紬は、綾人の声を黙って聞いていた。

 ゆっくりと、心のなかで絡まっていた糸がほどけていくような気がした。

「それからね」

 綾人は言葉を切って、紬を見る。

「あまねが紬に返したうたの意味、知りたい?」

 紬は、パチパチと咲きはじめた花火を見たままうなずく。

 綾人は、火玉を落とさないよう、静かに話す。

「これも万葉集の和歌の一つなんだ。『明け闇の、朝霧隠り、鳴きて行く、雁は我が恋、妹に告げこそ』。夜明けの闇の朝霧に包まれて鳴いて行く雁よ、私の恋しい気持ちをあの娘に告げてくれ。こういう意味なんだ」

 紬はそっと、顔を上げた。

(あさひも、わたしのことを……?)

 引っこんでいた涙が、瞳をぬらす。

 綾人はあわてていった。

「ごめん! 僕が余計なこといったから、また泣かせて」

 綾人の線香花火の火玉が落ちる。

「そんなことない。だってわたしは綾人くんのおかげで、またあまねに会えたんだから」

(あまねに強く当たった夜も、夏越の大祓にいく前も、頼ってたのは綾人くんだった)

 紬の線香花火が、松葉のように火花を散らす。

「そうだよ。わたしきっと、綾人くんがいなかったら――」

 ぱっと綾人の顔を見た瞬間、火玉がぽとっと地面に落ちた。

 火玉は音もなく、急速に光を失う。

 紬の目が綾人から地面へと移っていく。

 そのとき、

『おまえは、まだ気づいていないだけだよ』

あまねの声を聞いた気がして、紬ははっとした。

 ゆっくりと綾人に視線を戻す。

「な、なに?」

 綾人がさらさらの前髪を少しゆらして、首をかたむける。

 紬は、ほんのりと頬を赤く染めて、「なんでもない」と返した。



 最終章 行き合いの空


 九月も半ばがすぎ、秋祭りの会場は、大勢の人でにぎわっていた。

 三年生が引退した吹奏楽部で、紬はフルートのパートリーダーになり、律先輩のような演奏を目指して練習にはげんでいる。

新しい吹奏楽部の初めての舞台が、この秋祭りだ。

 部長が、はじまりのあいさつをする。

「こんにちは! 朝霧中学校吹奏楽部です――」

 紬は、続いて曲目の説明をする役割を与えられていた。

(わたしが、先輩みたいにお客さんの前に立つ日がくるなんて)

 大会ではあんなに緊張していたけれど、今は不思議としなかった。

(わたしが失敗したかなんて、お客さんにはどうでもいいこと。今日は、思い切って吹こう。お客さんに聴いてもらうための演奏をするんだ)

 紬はもう、知らない人の前に立つことを怖がってはいなかった。昔の内気な自分が、今の紬を見たらきっと驚くことだろう。

「みなさん、今日の空を見てください。夏の暑い空と秋の涼しい空、ふたつ存在しているのがわかっていただけるでしょうか。これを、『行き合いの空』といいます――」

 そう説明しながら、紬はあまねと過ごした日々を思いだしていた。

律先輩を無理やり好きにさせようとしたり、おばあちゃんの目を盗んで、おいしそうに肉じゃがを頬張ったり、突然姿を消したり。

不愛想で、口を開けば文句ばかりで、何度も困らされたこともあった。

気だるそうな態度、低い声、漆黒の髪、紬を見つめる黒い瞳――。

あまねと過ごしたのは、たった一か月にも満たない時間だった。

(でも、その日々が気づかせてくれたんだ)

 フルートを続けて、律先輩のようになりたいという思い。そして、だれかを大切に思う気持ちを。

(わたしはこうやって、ちょっとずつ大人になっていくのかな)

「それでは、お聴きください」

 席に座ると、先生が指揮台に上がり、手を広げた。

 紬は、指揮棒の向こうに秋空を見た。

 行き合いの空に、天まで突き抜けるような音を届けよう。

(聴いてて。あまね)

 あまねがいいって言ってくれた曲。

 紬は、大きく息を吸いこんだ。





 完

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行き合いの空 希子 @aniko

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