573 「彭城事件(1)」
※話数は飛んでいません。
ただ、この話からは題名詐欺になるのかも。
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1937年7月12日、私、いや、私達の新たな日常が始まった。
いや、少しばかり俗世から離れていたから、俗世に戻って来たと言うべきかもしれない。
そして当たり前なんだろうけど、やっぱりこの世界は乙女ゲーム『黄昏の一族』の世界ではないのかもしれない。
少なくとも、人としての通過儀礼を色々とこなした私にとって、ここは現実だ。
ゲームに似た世界であると同時に、歴史となるくらい古い過去によく似た世界だと改めて認識させられる。
悪役令嬢が結婚しようが、色々とやる事をやろうが、その役を仰せつかったであろう私が強制排除されたり、ゲーム主人公の姫乃ちゃんが何か突然のリアクションを示したり、世界がリセットされたりする事は一切ない。
体の主以上にオカルトな存在、例えば神様や精霊なんかが現れて、説明してくれたり、リアクションを起こしてくれたりもしなかった。
日々は何事もなく流れていた。私自身の内面も、大した違いはなかった。
けど一方では、世界、と言うより大陸の情勢が大きく動いていた。
「はい、これお土産ー」
「これはどうも」
行き慣れた鳳ビルの地下深くの主人に、新婚旅行先で買ったお土産を渡すと、意外そうな表情をされた。
そこで合点がいったので、言葉を補足する。
「ここの他の人には、シズ達から名産のお菓子、小物だけどお土産は渡しているから、受け取ってちょうだい」
「はい。……その、もうよろしいのですか?」
まだ何かを言いたげな表情。それで私も自身の勘違いに気づく。
「ああ、そっちね。それじゃあ聞くけど、私の新居はどこ?」
「鳳の本邸ですな」
「うん。その鳳伯爵家の大豪邸で、長子である私が、世の新妻みたいに夫の帰りを甲斐甲斐しく待ちながら、ちょっとした部屋のあしらいの変更、掃除、洗濯、料理、お風呂、床の用意が出来ると思う。いや、させてもらえると思う?」
「まず無理ですな。これは、野暮な事をお聞きしました」
聞き始めた時は少し怪訝な表情だったけど、ようやくいつもの貪狼司令になった。
「分かってくれて嬉しいわ」
「それにしても、色々ありますな」
「うん。船でぐるっと日本を一周して来たからね。伊勢、鳥羽、宮島、別府、指宿、萩、出雲、皆生、天橋立、金沢、函館、登別、松島、最後に熱海と富士山の周りね。予約だけ取ってその時の気分で回ったおかげで、前半ゆっくり周りすぎてね。沿岸以外と東北の観光地は殆ど行けなかったのが、ちょっと心残りね。まあ、東北はもはやうちの地盤だから、余裕ができたら改めて奥の細道ごっこするわ」
「なるほど、それにしても日本一周ですか」
「うん。もう少し時間があれば、沖縄や台湾、半島にも行きたかったけどね。宿泊と移動はうちの高速船を借り切ったけど、それでも駆け足。ちょっと無謀だったなあ」
テンションがまだ高いせいか、つい饒舌になるのを自覚する。
それに私にとっての貪狼司令は、小さな頃からの付き合いなせいか、近所のおっちゃん的ポジションなところがある。だから、つい話してしまう。
「でしょうな。しかし、玲子様でも世間体を気にされるのですな」
私への呼び方が、お嬢様から玲子様に変わっていた。
結婚して、お父様な祖父が祖父もしくはお爺様に戻ったのを、こんなところからも感じる。
直属のシズだとお嬢様から奥様になるけど、鳳一族に仕えていると奥様は伯爵家当主の妻であるお祖母様になるから、私への無難な呼び方が名前になる。
そう、私はもう伯爵令嬢ではない。一族の長子なのは変わらないけど、世間的には伯爵家の奥様の一人だ。
けどそんな事は互いに分かっているから、気にせずに旅の話を続ける。
「神社が多いって? お伊勢さんは新婚旅行の定番だし、純粋に見てみたいところもあったわよ。それに鳳一族の長子としては、故郷のお墓に報告もしないとね。
あと出来るだけ温泉ね。現地に着いて観光して、昼と夜を現地で美味しいものを沢山食べて、その間に風呂で寛いで、夜には船に引き上げて移動。これを1週間繰り返し。あまりに居心地が良いから、泊まった宿もあったけどね。
それに船に車も積んであるし、船は大きくないから小さな港でも入りやすいから、結構いろんな場所に行けたわよ」
「車は、車列を組んでですか?」
「護衛に挟まれながらね。けど私の乗る車は、ハルトが運転してくれたわよ。二人っきりには、してもらえなかったけど」
「舞様は行かれてないのですな」
ちょっと意外そうな表情だけど、軽く肩を竦めて返す。
「マイさんが私の秘書で運転が上手いって言っても、妹同伴の新婚旅行はハルトが可哀想すぎでしょ?」
「ハハハ、確かに。ですがそれだと、香月らが同行する玲子様も、かなりのものですな」
「まあねー。けど、観光地でも安全確保の上だけど二人きりにしてくれた時も結構あったし、泊まるのは基本自前の船だから気楽なものよ。もう少し現実的なプランを組んで、旅行会社の旅用に売り出そうかって話もあるくらいよ」
「抜け目なしですな」
そう結んで、またハハハと笑う。
これで雑談終了ってところだ。
総研の真のボスである貪狼司令に、土産話や惚気話をしに来た訳じゃあなかった。
だから、ごく小さく深呼吸して、心を入れ替える。
「ええ。それで、私が俗世を放り出している間に、大陸で何が起きたの?」
「ある意味で大当たり、ある意味で外れというだけの話が御座います」
「それは私にとって?」
「左様です。鳳とは関わりのない者、特に日本人にとっては、大当たりなだけでしょうな。今の所は」
「俗世を離れている間は、新聞もラジオも遠ざけていたの。しかも屋敷でも、多少は新婚らしくって事で別室で二人で食事なのよね。由来通りのハネムーンってやつね。だから、簡潔に一通り説明してちょうだい」
「畏まりました。だからお一人で来られたのですね」
「うん。それにマイさんは、来週まで研修中。お芳ちゃんに聞けばいいんだけど、一応試験で学園に行ってるから」
「玲子様同様、皇至道(すめらぎ)なら、帝大であっても試験など今更でしょうに。制度の硬直を感じますな。論文でも書かせて、博士号を取らせては?」
「それを言い出せば、女性教育をもう少し何とかして欲しいけどね。これからは、猫の手も借りたい時代になるのに。それで、日本の若者は、このまま勉学に励んでいて良いの?」
「構いません。ただし、そろそろ有事の際の将校、下士官を増やす算段は始めた方が良いかもしれませんな」
「日本はまだ外野なのね」
「はい。大陸の連中は、まずは猿山の大将を決める気のようです。ただ」
「上海かあ」
「はい。ですが現時点では、懸念という程度です。それに事件発生を警戒した日本政府は、海軍陸戦隊の増強を今夕にも閣議決定すると見られております。
ご存知の通り、上海租界は日本を始め列強の支配領域です。蒋介石がドイツとの関係を深めてからは、行政、警察なども南京政府の息がかかった者は極力排除しました。
ですので、蒋介石の南京政府の勢力下にあって、張作霖の中華民国政府の飛び地や出島のような有様。しかも上海には富が集まります。蒋介石としては、欲しくて堪らないでしょう」
「南京政府が、中華民国政府の法幣を受け入れないからでしょう」
「それは張作霖の軍門に降るも同じ。玲子様もお人が悪い」
「人を悪人みたいに言わないで。面子を棚に上げて、実利を取れば良いってだけの話でしょう。張作霖なんて、満州から税金巻き上げる代わりに、放置しているじゃない。張作霖の方が、余程現実的だと思うけど?」
「その点は間違いありませんな。ですが、人はパンのみに生きるにあらず、のようです」
「それなのに、その言葉を否定した赤い連中と手を組んで、他人のパンを奪おうとしているわけね。日本や他国への被害は?」
「まだ、具体的なものは報告されておりません。日本政府、陸軍、海軍も同様です。上海、南京、武漢の英仏も、被害については何も言っておりません」
そしてそこから、具体的な報告が始まった。
事の起こりは、私の前世の歴史と同じく1937年7月7日の夜。
けど、場所は盧溝橋(ろこうきょう)じゃなかった。
そもそも、北京に近い盧溝橋に日本軍は1兵もいない。それどころか、隣接する熱河にすら未だに日本軍はいない。私の前世の歴史で牟田口廉也が率いた陸軍部隊は、影も形もない。
ついでに言えば、日華の間の貿易関係は良好。日本国内で作った綿製品を中華民国に輸出して、ちょっとした加工、場合によっては梱包を変えただけで、中華民国が自らの安い関税を武器にして欧米に輸出する。
張作霖も強かだけど、両者ウィンウィンの関係だ。
そして日本国内は未曾有と言われる好景気なので、国内での仕事に溢れている。満州への農業移民すらあまり伸びていないのだから、危険な中華民国に商売に行く者は限られている。
そしてこの時代の他国での商売は家族連れが多いから、尚更大陸に渡る日本人の数は減っている筈だ。
そんな状態で、日本陸軍も中華民国内に強引に兵隊を置こうとは思わない。
日本の兵隊がいるのは、上海、天津、武漢(漢口)の各租界に警察か海軍陸戦隊がいるだけ。しかもほぼ全てが上海駐留で、常駐する海軍陸戦隊は約3000名。緊急事態になると、日本本土から増援を送り込み7000名に増強される。
けど、事件の発端は上海でもなかった。
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彭城事件:
念の為書きますが、全く架空の事件です。
史実に類似する事件はありません。
彭城は、徐州の街の別名。
由来通りのハネムーン:
ハネムーン=蜜月。
古代ゲルマン民族が結婚後一ヶ月、ハチミツで作った酒(ミード)を飲む習慣があったことに由来。
勿論、子作りの為。蜂蜜酒も滋養の高いものとして飲む。
盧溝橋:
北京郊外にある「マルコポーロの橋」。日中戦争(支那事変)勃発の切っ掛けとなった、「盧溝橋事件」の場所として有名。
盧溝橋事件 (ろこうきょうじけん):
あちらの国では「七七事変」とも言う。
詳細はネットの海か教科書関係を見てください。
このせいで、あちらで日本の新暦の七夕の日にちなんだ催しとかすると、ブチ切れられる。
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