551 「亜欧空路の旅(6)」
マニラから約2400キロ。10時間近いフライトを経て、次の中継地シンガポールに到着した。
香港と並んで、大英帝国の極東支配の牙城。マラッカ海峡を押さえる重要地点に存在する、マレー半島の先にある淡路島くらいの大きさの島。
前世の私的には、マーライオンとアボカドを連想する観光都市。高層ビルが一杯立ち並んだ近代的な風景。
一方、こっちに来てから一度、7年前に欧州からの帰りに船から眺めたけど、大きな変化は無かった。港湾都市もしくは貿易都市という感じだ。
空から見たシンガポールの街は、島の一部、南側の一部区画に広がる大都市で、島に平地が少ないのか沿岸沿いに広がっている印象があった。
けど、赤道直下にあるとは思えない大都市で、流石は大英帝国の東洋進出の牙城だと納得させられる。
そうして飛行艇は、海に面した民間飛行場のカラン飛行場の前の辺りの海へと着水する。そこは街の中心部にも近い。
「それにマニラと違って、大英帝国の方とは話が付いているから、ホテルで泊まるだけで済むわよ」
「マニラは大変だったものね」
着水して上陸地へと向かう間、私が一通り説明を終えると、素に戻っていたマイさんがウンザリげに答えた。
ビジネスモードが維持できないくらい、マッカーサーとの対面はメンタルにきたという事だ。
私も全く同感だった。
「総督とか来ない?」
「来ない。筈。万が一何かが寄ってきたら、戴冠式に遅れたらお前らのせいだって追い払うから」
「玲子ちゃん、頼もしい!」
「ま、宜しく」
「その時は、私も微力を尽くしましょう。ですが昨日と違い、飛行場の方には派手な出迎えはなさそうですな」
セバスチャンの観察通り、上陸しても特に出迎えなどは無かった。勿論、事前に手配してあった車とバスは来ていたけど、それは純粋に今日宿泊するホテルへ向かうもの。
そして今回の旅での、一つの小さな楽しみがシンガポールでの宿泊だった。
「オーッ! これがラッフルズ・ホテルか」
「私も一度来てみたったのよねー」
「シンガポール、いや東洋を代表するホテルですな」
「まさに、大英帝国って感じのコロニアル様式のホテルだね」
イギリスの小説家サマセット・モームが「ラッフルズ、その名は東洋の神秘に彩られている」と絶賛したホテルを前にして、その反応である。
私とマイさんがお嬢様すぎるのか、他の二人は淡々しすぎだ。
それ以外は、圧倒されているに違いない。そう思って振り返るけど、一同並んでお辞儀されただけだった。
「それでは我々は、これにて別の宿泊施設に参ります。ホテル滞在とは言えお側で仕えられない事、お許し下さい。セバスチャン様、シズ様、リズ様、後の事、よろしくお願いいたします」
代表したみっちゃんの言葉通りだけど、おかげで私は労いの言葉を言うつもりが、その機会を無くしてしまった。
そしてその間も、セバスチャンが「お任せを。皆さんも十分に休養を取って下さい」などと返している。
「えーっと、セバスチャンの言う通り、昨日は大変だったでしょう。存分に旅の疲れを癒してちょうだいね」
「ホテルの周りには車込みで何人か残すが、こっちは好きにさせてもらうぞ」
「夜遊びは程々にね」
「何、飛行艇の中で寝る事にする。昨日と今日で、それを十分に学んだ。なあ、ワン」
「確かに昨夜は、我らも部屋に押し込まれてしまい、姫の安否が気になり仕方ありませんでした」
「弁えている人が、私に悪さする筈ないから大丈夫よ。あ、それより、シンガポール一番のお酒がここにあるのよ。知ってる?」
「シンガポール・スリングだろ。上海と横浜かどこかで飲んだ事はある。だがあれは、男の飲み物じゃないな」
「そうか? 大連で飲んだか、あれはあれで美味かったぞ。女性が好みそうではあるがな。姫もご賞味されるのですかな?」
「残念ながら、私は未成年よ」
「17にもなったら、十分に大人だろう。まあいい、好きにしろ。じゃあ、明日の朝」
「はーい。じゃあ良い夜を。みんなもね。……じゃあ、私達も行きましょう」
そうしてしばしの別れを済ませる、ホテルマンの案内でいざ世界的に有名なホテルへと足を踏み入れた。
昨日泊まったマニラ・ホテルもフィリピン最高の高級ホテルだけど、格で言えばこちらの方が上なのは間違いない。日本でも、匹敵するのは帝国ホテルくらいだろう。
鳳ホテルでは、まだ太刀打ちするには伝統や格が足りない。
ラッフルズ・ホテルは、シンガポールの中心街にあり、海岸からも近い。
総督府が直接経営に関わっていて、日本での帝国ホテルに立ち位置が近い。それよりも、フィリピンのマニラ・ホテルにも近いかもしれない。
ただしこのホテルは、地元の白人と白人旅行者向けのホテルだと言われている。日本人である私達が利用できるのは、私が戴冠式に招待されているから。要するに、国の賓客に当たるからだ。
だからホテル側の対応も、完全に礼を尽くしたものだった。こういうところは、流石に一流ホテルだと感じさせる。私達に対する差別的な態度や視線、陰口なども一切なかった。
そんな事をすれば、大英帝国の威厳に傷が付くからだ。
もっとも、白人が同行しているかもしれない。
セバスチャンは執事服じゃなくてスーツ姿だから、位置関係を考えなければセバスチャンが一行の主人に見えるし、そう見ている人も少なくないだろう。
そうして時間も押しているので、すぐに夕食を取る事にした。
「こうして見ると、日本人っぽいのって私とシズくらいね」
「お嬢も日本人離れしていると思うけどね」
「お芳ちゃんは、ほぼ無国籍だけどねー。けど、私って日本人っぽく見えないの?」
「そうですなあ、舞様は明らかに白人種の面影がありますが、お嬢様の場合は……」
そこからしばらく、セバスチャンの私への礼賛が始まった。しかも、キモいくらいに客観的に良く見ている。
セバスチャン以外みんな女子なのもあって、全員ドン引きだった。
けど、そこに性的な見方が入っていないのが、実にセバスチャンらしい。だから私は、違う意味で引いてしまう。
けど、内容を要約すると、リズはアメイジングと表現し、お芳ちゃんが「日本人離れしている」と表現したのと同じ事を言っていた。
私的には、日本のゲームの中に出てくる日本人もしくは東洋人っぽい無国籍な美少女だから、日本人離れしている、で正解なのだと思えた。
そして食後、未成年組はシズとリズに連れられて先に部屋に戻り、セバスチャンとマイさんという異色の組み合わせは、せっかくだからとバーで名物を堪能しようという事になった。
そして1時間ほどして、マイさんが部屋に戻ってきて驚愕の事実を告げた。
「玲子ちゃん、バーのメニューにシンガポール・スリングが無かったわ」
「あれ? 何かあったんでしょうか?」
「気になって聞いてみたら、20年くらい前のメニューで、作ったバーテンダーしかレシピを知らない上、20年も前だと甘いお酒だから人気もなかったんだって」
「そして味と名前を覚えていた人が、雑誌に載せて広まったって感じでしょうか?」
「うん。ホテルの人もそんな事を言ってたわね。客に良く聞かれるんですって」
「酒に歴史ありですねー」
「ホントそうね」
二人してそんな感慨に耽ったけど、カクテルは無数にあるからそんなもんだろうくらいにしか思えなかった。
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ラッフルズ・ホテル:
シンガポールの最高級ホテルの一つ。
1887年開業の歴史あるホテル。
19世紀の建築物が現存する、世界でも数少ないホテルでもある。
サマセット・モーム:
イギリスの小説家。劇作家。世界各地に旅をした。
シンガポール・スリング:
ラッフルズ・ホテル発祥のカクテル。1930年台後半には、メニューからも消えていた。
この時代に流布しているのは、簡易レシピのもので本物とは違う。
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