458 「二・二六事件(8)」

「報告!」


 突然電気が落ちて真っ暗になったので、村中孝次大尉は部下を統制するべく意味のありそうな言葉を咄嗟に伝える。

 そして訓練された兵士は、すぐにも装備していた懐中電灯で明かりを確保して、確認作業に入る。

 しかし、先ほどまでの建物の明かりと比べると酷く心もとないし、全員が懐中電灯を持っているわけでもなかった。


 彼らのいる場所は2階。鳳ホテルとの間を結ぶ陸橋に通じる扉のシャッターを開けようと、移動してきたところだった。守衛からの情報が正しければ、その場で開けるしかないからだ。

 そして、陸橋に隣接する壁沿いを中心に2階も窓のシャッターが多いのもあり、また彼らがビルの中央の廊下にいた事もあって、周囲は真っ暗闇だ。

 さっきまで照らしていた照明が、再び灯るという事はない。


「2階扉のシャッター、動きません」


「2階扉付近の窓、開閉不可」


「消防用窓以外の扉と窓には、シャッターか鉄格子があります」


 もたらされる報告に朗報がない。

 そこに、近くの階段を上がってくる音が響いてくる。

 そして息を切らした兵士が一名、彼の前にたどり着く。


「正面扉の伝令より報告! 予備電源が落ちた理由は不明。発電室もしくは配電室に問題ありの可能性大。また、開く前に電気が落ちた為、電動による開閉は不可。現在、手動での開閉を模索中」


 予測された事なので「そうか、ご苦労」とだけ取り敢えず返し、何か指示をしようとしたところで、さらに別の階段からもう一人の兵士が駆けてきた。


「勝手口伝令より報告! 勝手口扉が独りでに閉まり開閉不可能。守衛の話では、電源が落ちた事による緊急事態につき、自動的に閉じられたとの事」


「電気が落ちたのに、なぜ勝手に扉が閉まる?! それで開閉は?」


「ハッ。鍵も自動なので、手動での開閉はすぐには無理。ただし発電室には、予備として最低限の蓄電池が設置されているという話です。ただ、部屋に行って手動で操作する必要があるとの事」


「了解。それにしても、防犯の為とはいえ面倒な仕掛けを付けるものだ。とにかく、我々は一時的に閉じ込められたという事だな」


「如何されますか?」


「停電で、付近一帯の電気が戻る可能性は低い。地下の発電室もしくは配電盤まで行って原因を探り、可能なら復旧させるしかない。最悪でも蓄電池が使えるのなら、行くしかないだろう。警備員に詳しい者がいたら連れてこい。我々は先に地下に行く。では、ここに1分隊は待機。また、正面玄関に1分隊、裏口に1分隊を移動。残り1分隊だけ俺に続け」


「了解」


 再び命令が与えられると、軍隊なのでキビキビと動き始める。




 そうして足音が遠ざかると、2階扉に1個分隊10名ほどが残された。照明は各自の小さな懐中電灯だけ。しかしこの時代のものなので、性能は高くはないし長時間は電池が保たない。しかし後1時間したら日の出なので、気にしている者はいなかった。

 だが、その彼らがかざす光に、黒い影が過ぎる。音はない。


「誰かっ!」


 厳しい誰何(すいか)の声にも反応はない。


「伍長、半数を連れて黒い影が入った部屋を見てこい。ただし、危険そうならすぐに戻れ。それと、銃は可能な限り使うな」


「了解」


 お互い囁(ささや)くような小声でやり取りすると、手と懐中電灯の動きで、伍長が半数を率いている。

 兵士たちの動きは、普通の兵の動きなのでこういう場合に相応しいとは言い難いが、まずは必要十分な動きだった。

 そうして2階扉の前から消えて、黒い影が過ぎった部屋へと消えていった。そしてそのまま、戻る事は無かった。




「っ!!」


 地下へと続く道。最後尾を進んでいた兵士が、どこからともなく大きな手が伸びてそのまま口を鼻ごと強く押さえられたが、何か能動的な行動を起こす前に意識が途切れた。

 他の兵士達は、進む時に軍靴の音、装具の音を少なからず出す為、最後尾の異常に気づく事もない。


 そして先頭を進む村中大尉が、発電室と書かれたプレートが上に掲げられた部屋に何とか到着する。

 地下は、地上の建物同様に広かった。予想したよりも複雑な構造、曲がり角や遮蔽物となる出っ張りなどが多く、簡単な見取り図を見ただけでは、到着するのに意外に手間取った。


「ここだ。軍曹……ん?」


「ハッ。何か?」


 軍曹に振り返った村中大尉は、振り向いたまま不思議そうな表情を浮かべる。


「数が足りん。他の者はどうした?」


「は? ……どうして? 誰か、行方を知らんか?」


 一番後ろにいた兵士が、同じように振り返って、「さっきまで居たのに」と暗闇でも分かるほど動揺していた。彼ですら、後続がいなくなっていた事に気づいていなかったのだ。

 そして全員が首を横に振る。互いに数を数えてみると、3分の1がいない。しかし、懐中電灯で周囲を色々と周囲を照らしてみるが、どこにも人の気配はない。

 「集合!」と少し大きめの声をかけるも、どこにも反応はない。


「勝手に他の場所を覗いているのか?」


「分かりません。捜索しますか?」


「この暗さだし、ここの地下は妙な構造をしている。大方迷子だろう。それより、この部屋だ。自家発電が復活すれば、問題なかろう」


「はい。ですが、勝手口の守衛室まで行った連中も遅いですね」


「全くだな。それにこの部屋、鍵がかかっている。鍵を取りに行かないと、入る事もできんぞ」


「では、配電室を探してみますか? この近くの筈です」


「こういう場所に、勝手に入られないようにしているのは道理だ。そこも鍵がかかっているんじゃないのか。最初に確認するべきだったな。俺の失態だ」


「そんな事はありません。とにかく、取りに行かせましょう」


「そうだな。先に呼びに行った連中も気になる。念のため2名行け。あと、迷子の連中をこの間に探しておこう。これも2名で周辺を探してみてくれ」


 その命令で、軍曹が選んだ合計4名が元来た道を引き返して行った。そして数分しても、勝手口の守衛室に呼びに行った者は来ないし、はぐれた者を探しに行った者も戻って来なかった。


 だから仕方なく、大尉達は一度全員で勝手口の守衛室まで戻る事にした。

 そして彼らは、ついに勝手口の守衛室に姿を見せる事はなかった。

 

 ・

 ・

 ・


 一方その頃、鳳ビルの外は混乱していた。

 ビルの窓の一部から僅かに漏れていた明かりが消えたのはともかく、勝手口がそれこそ勝手に閉まり、そして開けられなくなったからだ。

 しかも、正面扉などを開ける手はずが、2つの扉は閉じられたままだった。


 そして無線機などはないので、中との連絡は不可能だった。村中大尉は指揮官率先で中に入ったが、指揮全般を考えると彼こそが外に残るべきだっただろう。

 現場に残された少尉では、明確な指示を出せないでいた。

 しかも他の幹部と中隊長クラスの指揮官は、鳳ホテルに残った一部を除いて、全員が首相官邸での行動に加わっていた。


 また、数百メートル先の首相官邸方面では、大きな音が響いてきていたし、発砲音も聞こえた。ビル前から遠望する限り、ホテルの向こう側、道の先の溜池の交差点あたりの決起部隊の兵士達は動いていないが、事が大きく動いているのは明らかだった。


 そんな状態の時、鳳ホテルの方から陸橋を使いやって来た者がいた。近衛歩兵第3連隊からのほぼ唯一の参加将校である、中橋基明中尉だ。

 状況を伝える伝令は出したので、状況確認に来たのだろうと現場の少尉は考え出迎える。


「何を手こずっている。村中大尉殿は?」


「大尉殿は中です。ビルの自家発電が落ち、なぜか唯一入れた勝手口がひとりでに閉じて鍵もかかった為、連絡不能に陥っております」


「それは伝令から聞いた。俺が指揮をとるから、詳細を教えろ。早く占拠しないと、向こうはかなり大変らしい」


 そう言って顎で首相官邸の方を示す。

 その言葉に、聞いていた少尉が聞きたげな表情をするので続ける。


「状況が錯綜していて、詳細は分からん。だが、栗原と磯部は、首相官邸内に突入したとの事だ」


 喜色を浮かべた少尉は、すぐに表情を改める。


「では、もう籠城の必要はないのでは?」


「分からん。官邸がもぬけの殻の可能性もあるからな。二人が戻るなり伝令で状況を聞くまでは、籠城準備も続けるべきだ。それにしても、強引に入ってしまえばいいのではないか?」


「正面扉のシャッターは分厚い鋼鉄製らしく、手榴弾程度ではビクともしない可能性があると、爆発物に詳しい下士官が言っておりました。勝手口や非常口も分厚い鋼鉄製の扉で同様です。中尉殿が通って来られた陸橋から2階に入る扉がありますが、そこも似たり寄ったりと見られます」


「そうか。まずは、その勝手に閉まったという勝手口を見てみるか。内側から、開けているかもしれんからな」


 そうして勝手口に来ると、勝手に閉じたという扉は開いていた。だが、守備していた兵の話では、誰も出てこないし入り口付近の建物内に人影はないとの報告。

 そして扉を開いたままつっかえで固定して入ると、そこには確かに誰もいなかった。いるはずの兵士も、半ば人質にした守衛達すらも。



__________________


懐中電灯:

この頃どの程度、どのような懐中電灯を陸軍が装備していたのか詳細判明せず。

何にせよ、今の懐中電灯と比べると暗い。


なお、スイス製を模した手動発電式の小型懐中電灯「ほたる」は戦中に量産されたらしいので、この頃は装備していない筈。

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