456 「二・二六事件(6)」

「敵襲〜っ!」


 「敵襲」と反射的に叫んだ兵士の言葉はともかく、決起軍が再び動き始めた。

 まずは占拠した鳳ホテルから出た兵士達が、向かい側の首相官邸敷地に面する側に並んでいった。

 また、溜池の少し先、首相官邸へと伸びる特許庁前の交差点方面にも多数の兵士が再び出現し、首相官邸を守る部隊を圧迫した。


 これに対して出動したばかりの近衛師団は、現場に到着する警官、特に特別警備隊の増加に伴って、警視庁方面に展開した部隊を南進させる前で、兵力が分散されている状態だった。

 後続の徒歩で来る兵士は順次到着しつつあったが、まだ数は十分ではなかったからだ。

 何しろ、この場にいるのは第2連隊だけ。第1連隊は、決起部隊に別働隊がいた場合、もしくは別働隊を差し向けた場合を警戒して、宮城の警備に就いていた。


 第3連隊は、まだ詳細不明ながら決起した者達を出した為、現時点では出動禁止並びに取り調べの最中だった。青山に駐屯している第4連隊は、今回の出動が極秘だった事もあって、まだ出動要請が出せていない。第一師団の残余についても、第3連隊とほぼ同様だった。

 つまり兵力的には、それほど圧倒していなかった。しかも守るべき場所も多く、決起部隊の包囲どころか兵力分散された状態だった。


 救いは、トラックなど車両が多い事と、ごく少数だが重装甲車が出動できた事だった。

 ただし九四式重装甲車は4両しかなく、2両は威圧を兼ねて陸軍諸施設の前、1両が警視庁方面、残る1両だけが首相官邸の正門前に陣取っていた。

 そんな状態での新たな動きが、兵士の絶叫だった。


 敵襲の正体は、トラックの集団。

 首相官邸の敷地は道で独立した区画で、既に各所に兵士が守備についていた。しかし二箇所に決起部隊が出現したので、そちらに多くの兵が向かってしまう。

 そこに1本北側の山王坂を通り建設中の議事堂裏手に、無灯火のトラックの集団が出現した。


 数は、2列縦隊で4台かそれ以上。決起部隊が軍用トラックを数台持ち出しているのは確認済みだったので、それと考えられた。だが出現時点では、トラックが無灯火で周囲も暗い為、相手の詳細は分からなかった。

 最初の瞬間的な判断では、先頭を走る2台以上というだけ。それに第一声は敵襲の言葉で、分かる限りの詳細を伝える間にトラックは急接近してきた。


 なお、出現した議事堂裏手道は、現時点で相手を刺激しすぎてはいけないという判断と、純粋に手数が足りないという理由から、兵士はまだ配置されていなかった。

 第一発見者は、首相官邸の北東側の交差点で警戒配置についていた兵士達となる。


 一方のトラックの集団は、角を曲がって出現した時点で官邸までの距離は約100メートル。さらに官邸の正門までは20メートルほどあった。

 全速力で1秒間に約20メートル進むので、わずか6秒で正門前まで到着する事になる。実際は出現前の音で警戒し始めるし、曲がってから速度を出すので、もう少し時間はある。それでも10秒程度の時間しか、対応できる時間はなかった。


 そして正門前までに兵士が立っているだけで、車両を阻止できるバリケードのようなものはなかった。鉄条網や土嚢は兵営で準備はしていたが、移動と設営は後回しにされていた。

 そして、発砲に際しては明確な攻撃命令が下されない場合以外、また自衛行動以外は慎重を期するように厳命されていた。陸軍同士が戦う事を強く警戒していたからだ。


 このため兵士達は、トラックが突進してきた事にどう反応するべきか一瞬戸惑う。

 相手はトラックで走ってくるだけで、発砲などはない。だから自衛行動に当たるかどうかだ。


 そして誰かが「止まれッ! 止まらんと撃つぞッ!」と叫ぶも、すぐには発砲しなかった。発砲したのはトラックがさらに速度を上げた後、すでに交差点まで半分ほど距離を詰めた段階だった。

 そしてようやく発砲が開始されるが、数も多くはないし、一斉射撃でもないし、装備は小銃なのでトラックに対するには威力が大いに不足していた。勿論だが、咄嗟にタイヤを狙えるような兵士もいない。

 一番近い兵士達が銃を構えた辺りでトラックが首相官邸前の北東角を通過する時、道路上にいた兵士達は逃げ散るしかなかった。


 その時点で、正門前まで20メートルを切っていた。

 もはや目の前だ。それでもゴールには重装甲車が控えているので、通常なら阻止は容易だったかもしれない。

 だが、タイミングが悪かった。ちょうど官邸内から車両が出てきたところで、重装甲車は南側の決起部隊を警戒するべく、そちら側に位置していた。つまり車両を挟んだ向こう側だ。

 しかも、兵士達の多くも南側にいた。


 突然の事態に、首相官邸を出始めた車両、黒塗りの高級乗用車はバックで邸内に戻ろうとする。警護の各車、兵士達も発砲を含めた本格的な阻止行動に転じる。

 しかし高速で突進して来るトラックの群れは、容易に阻止できない。


 何しろ高速で移動しているし、残る時間は僅か数秒。途中から多少ブレーキをかけるとしても、残り5秒もない。撃つ兵士達も、早い速度で移動する目標の射撃には慣れていない。その上、なまじ兵士の数が多いし、トラックが通り過ぎてきた側にも兵士達がいるので、同士討ちを警戒して射撃が慎重になってしまった。


 その上相手はトラックなので、タイヤを打ち抜きでもしない限り、運転手を撃って倒したところでこの短距離では止まる筈もない。

 だが銃撃の結果、二つの偶然が発生する。


 トラックのうち前を走る2台のうち1台は、急カーブをかけて首相官邸の正門を通過。恐らくは正門の強引な破壊を目的としていたと考えられるが、鉄製の門が開いているとは予想外だったのだろう。

 そのままの勢いで突進して、十数メートル先の首相官邸の建造物の一角に派手に激突する。


 もう1台は、運転手が撃たれて突然コントロールを失い、そのまま突進。そしてその突っ込んだ先には、ノロノロとバックする高級乗用車があり、さらにその先には重装甲車があった。

 重装甲車の方は、ようやく大きな機関銃が備えられた銃塔をトラックに向けたところで、とてもではないが射撃は間に合わなかった。

 それに大きな運動エネルギーを有した10メートル程度先のトラックを、大きいとはいえ機関銃で阻止するのは不可能に近い。


 必然、トラックは高級乗用車の横腹にまともに激突。さらに、かなりの運動エネルギーを残していたので、高級乗用車を押しつつ突進を継続。5メートルほど先にいた重装甲車の横腹に、高級乗用車ごと激突した。

 大事故、もしくは大惨事だ。

 幸い、すぐに爆発炎上するような事にはならなかったが、辺りは騒然となる。

 しかもまだ終わりではなかった。

 後続車両がいたからだ。しかも4台も。


 その上、一番の戦力の重装甲車は、トラックと間に挟まれた乗用車にぶつかられ、数秒間の対応能力を奪われてしまう。

 そして数秒あれば、後続のトラックが官邸敷地内に突入するには十分だった。


 後続車両のトラックは、先行してカーブしたトラックの後を追う形で首相官邸内へと侵入。そこで前を走る2台からは、それぞれ黒い影が飛び降りるも、トラックはそのまま建物へと突進する。


 そしてそれぞれ建物の違う場所へと激突。首相官邸建物の玄関付近は、都合3台のトラックが激突した為、ボロボロになった。突入したトラックの方も、ボロボロだった。


 しかしそれで終わりではなかった。後から突入した2台のトラックの荷台には、ガソリンを詰め込んだドラム缶が満載されていた。

 数秒後、何かの発火装置があったのだろう、一斉に引火、激しく燃え始める。


 そしてトラックが建物に一部めり込んでいたので、激しい炎はすぐにも建物に燃え移る。建物は堅牢な鉄筋コンクリートで作られているが、可燃物もゼロではない。


 そしてその火を避けつつ、最後に入ってきた2台のトラックが停車すぐに飛び降りた兵士たち約30名が、次々に官邸内に突入していった。

 その動きは訓練された兵士のそれであり、第1師団所属の決起部隊の兵士達に他ならなかった。



__________________


一瞬の出来事をネチネチ書いてみたくなりました。やりすぎたかも。ちょっと反省。

漫画やアニメ、実写になると、一瞬で終わってしまうシーンだろう。

__________________


山王坂:

国会議事堂の裏手にある道。首相官邸辺りの地形は旧外堀の内側に当たる東側が高く、緩やかな坂になっている。

当時は、あまり広い道ではない。

なお、現在は首相官邸の敷地は平面に整えられているので、高低差のできる北西部あたりだと、地上が地下室のような形になっている場所もある。



さらに正門までは、20メートルほどあった:

首相官邸の正門の位置が現在とは違う。現在は北側に面しているが、戦後の安保闘争前までは東側に正門があった。

また、現在公邸として使われている旧官邸自体が、曳家されて位置が南に移動している。



すぐに爆発炎上:

この頃のトラックは、多くがガソリンエンジン車。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る