375 「お誘い」
(アララ、蒋介石が負けすぎたせいで、余裕ができたから内輪揉めとは、左巻きらしいなあ)
1934年10月下旬、インドでガンジーが引退してネルーが国民会議派の指導者になり、ロンドンで『第二次ロンドン海軍軍縮会議』の予備交渉が本格化し始めた頃、大陸中原の内陸部では蒋介石の軍隊が共産党にまた負けていた。
しかも蒋介石を撃退した中華ソビエトは、現状を無視した極左勢力と現状に沿った勢力拡大を求める勢力が内輪揉めを始めていた。
そんな共産党は徐々に勢力を広げ、長江より南の内陸部の山の中、歴史でも習った瑞金の辺りで約10万の兵力があるらしい。
ただ10万という数字は中華的表現で、実際の数字じゃない。ましてや、列強のいうところの兵士ですらない。家族含めた数字を、さらにどんぶり勘定マシマシで数えた数字だ。
軍隊としては10分の1とは言わないけど、半分もいれば良い方だろう。
しかも武器は、相手から奪ったか近代以前のものばかり。兵士としての訓練は、外から来たコミンテルンの連中が共産主義的な訓練を施したごく一部だけ。刀剣どころか、農具を武器にしている場合すらある。
ただし、相手が山賊に毛が生えた程度の大陸の軍閥相手だと、その戦力は侮れない。
そして着実に勢力を広げている。
10万が20万になる日も、遠くないかもしれない。
共産党の現時点での最高指導者は、博古(はくこ)。本名は秦邦憲(しんほうけん)。情報では、かなりの極左という事だ。
先代は、王明。本名は陳紹禹(ちんしょうう)。モスクワに留学していたガチガチ左巻きで、モスクワ留学中は蒋介石の息子の蒋経国を徹底的に攻撃していたという、エゲツないやつだ。
これを追い落としたのだから、相当な奴なんだろう。ただ、追い落とされたといっても失脚ではなく、毛沢東よりまだ偉いみたいだ。
それにしても共産主義者ってのは、どうしてこう別名を名乗るのが大好きなんだろう。偽名を使う必要があるのは分かるけど、中二病を拗らせたのかと思いそうになる。
なお、博古という奴の方が、現時点で共産党の実質的最高指導者と言えるだけの力を持っているのだそうだ。
私が前世の歴女知識で知っている中で共産党の中枢に位置するのは、パリで共産党をキメてきた周恩来くらい。
毛沢東はゲリラ屋らしく、蒋介石の軍隊と戦う指揮官として頑張っている。朱徳や林彪も似た感じらしい。そして現場を知らない机上の空論を弄ぶ上層部に対して、現場がお冠って感じだ。
そして諸々の情報は、政府などよりも大陸の兄弟達がもたらしてくれる。
(それにしても、これは『長征』フラグ自体が立たないかな? 時期的には、そろそろだと思ったのに……)
「何見てるの?」
「朝、見きれなかった資料。見る?」
「お嬢の見ているものなら」
「まあ、大した事は書いてないけどね」
そう付け加えると、お芳ちゃんにもう見終わった紙面の一部を手渡す。
場所は女学校の教室。給食の時間が終わり、級友も思い思いに過ごしている。私の周りには、お芳ちゃんと護衛担当の子が1人付いている。
もう少ししたらマイさんがスタンバッているであろう駐車場へと向かうけど、早く行き過ぎても仕方ないので、こうして時間潰しをしている。
「……相変わらず、大陸は混沌としているね」
「まとまられても困るけどね」
「けど、南京政府がこの状態で、広州政府は相変わらずまとまりなし。共産党まで仲間割れなんてしてたら」
「うん。張作霖が調子付くかも。あの人まだ還暦前だし、財政も安定し始めているからなあ」
「お嬢が、蒋介石虐めすぎたせいでしょ」
「人聞きの悪い。張作霖に頭下げず、しかもドイツと仲良くするあっちが悪い」
「それより前から虐めてたくせに」
「半分くらいはハーストさんが勝手にした事よ」
反共産主義と日本の宣伝の傍らで、アジアの『正確な情報』ってやつをばらまいているハーストさんは、蒋介石が私が大嫌いなファシストだってアメリカで言いふらして、あの人達のロビー活動を台無しにしているという話だ。
そしてドイツのちょびヒゲ野郎が台頭してからは、アメリカでの蒋介石の人気はガタ落ちだ。
「ハーストさんに、まだお金を渡しているのは、どこのどなたさん?」
「優秀よねえ、ハーストさん。太平洋問題調査会に入り込んでいたアカと蒋介石の手下もあぶり出したし」
「そこって、今は鳳が金と人を入れているんだよね」
「うん。また妙な連中が入り込んで来た時に備えてね。だから政府や他の財閥とも連携する形でね。まあ、ハーストさんにとっては、アメリカ国内のアカ叩きのついでみたいだったけど」
「いつまで続けるの?」
「ハーストさんとの関係?」
資料を見つつ軽く頷くだけで、そこまで関心はないみたいだ。
「まあ、また株の儲けも増えたし、アメリカからの新鮮で正確な情報なら今やうちが日本で一番になれたし、切る必要もないでしょう」
「毎年200万ドルでも採算取れるんだ」
「あれだけアカを叩いてくれたら、何倍も利子が付いているのも同じね。期待以上どころじゃないわ。アメリカ国内の民意まで変わっている筈だし。
それに今の中身のかなりは、純粋なビジネスに変わってるよ。それに日本の宣伝については、めっちゃ減額したし文句も言ってる。金が欲しいなら、お前らが直接団体で日本に来て勉強して、正確な日本の宣伝しろって」
「来るの?」
「もうすぐベーブルースが来日するでしょ。あの取材がてらに。ハリウッドの映画スタッフも一杯連れてくるってさ」
「知らなかった」
「まあ、広報担当で情報収集や分析の分野じゃないからね。全部、他に任せてあるから、私も詳しくは知らない」
「あっそ。それで話戻すけど、蒋介石ってそんなに弱ってるの?」
「中華民国の通貨、法幣の安定の大元が、ドル、ポンド、あとちょっとだけ円でしょ」
「ライヒマルクはお呼びじゃないよね」
「だからドイツと蒋介石は、地下資源とのバーター取引。けどドイツは、武器の決済に資源よりドルかポンドを欲しがってる」
「でも蒋介石が、法幣どころかドル、ポンドを持ってるわけないよね」
「蒋介石が、張作霖を受け入れてないからねえ。今は二人の我慢比べ。その前に、広州政府が根をあげそうだけどね。香港どころか仏印とも取引できないって、悲鳴あげているから」
「それで蒋介石は自分の首をつなげる為、上海の列強からのお駄賃が欲しくて、無理して共産党を攻撃してると」
「しかも負けて兵力が減っての繰り返しだから、かなりガタガタ。列強は、蒋介石があてにならないから、内陸の鉄道沿いに武漢に張作霖の軍隊入れようと画策してるほど」
「ちょうどそこ読んでる。あの辺りの軍閥も、張作霖のお金につられてるね。……これ、蒋介石詰んでない?」
「もう、共産党の本拠地の瑞金どころか、武漢周辺の紅軍に対抗するのが精一杯だからねー。けど、しぶとい人だし、頑張るんじゃない? それに張作霖と違って民族資本との繋がりは深いから、民衆からの支持もそこまで悪くないし」
「虐めてるくせに、意外に肩持つんだ」
「いや、私虐めてないし。それに、油断したら虐められるのこっちだし」
と、そこに、黒い人影。クラスメートの誰かだ。
「あの玲子様、少しお聞きしても構わないでしょうか?」
「はい、なんでしょう?」
顔ごと視線を向けると、姫乃ちゃんがいた。級長として事務的な事以外、直接話すことはゼロに近いのに珍しい。ただ、怪訝な表情が浮かんでいる。
「その、お二人は虐めるという言葉を何度も使われているのが聞こえたのですが、何か問題があるのでしょうか?」
「アラ、まぎわらしい事を話して御免なさいね。皇至道(すめらぎ)さんと国際情勢の話をしていて、その中での揶揄する表現で使っていただけなんですよ」
「ああ、そうなんですね。ちなみに、お聞きしても構いませんか?」
「ええ、勿論。南京臨時政府による中華ソビエト討伐が、あまり上手くいっていないという話です」
「そうでしたか。皇国新聞にも、よく取り上げられている問題ですね」
「ええ、月見里さんもよくご存知で」
「いえ、お恥ずかしい限りです。玲子様のように、広い視野を少しでも持てたらと思って、新聞や雑誌には目を通すようにしているだけです」
「とても良いお心がけと思います。これからの時代は、女性も世の中の事に関心を持つべきだと、私も常々思っています」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと90度でお辞儀されてしまった。少し茶色がかった輝きの少し癖っ毛な髪がサラリと下へ落ちる。
その髪を見つつ、少し思いついた。
「ねえ姫乃さん、宜しければ、今度ゆっくりお話ししませんか?」
「はい、喜んで。こちらこそお願い致します」
「ありがとう。いつも決まった人とばかり話していると、どうしても考えが偏りがちでしょう。以前から、同じ世代の違う人と、意見の交換をしてみたいと思っていたんです。日時は改めてお知らせしますが、場所は女学校の会館、もしくは私の家で宜しいかしら?」
「家、鳳の本邸ですか!? 光栄です!」
また頭が90度下がった。屋敷は候補なだけだったけど、これは決定にしてあげた方が良さそうだ。
(この早とちりなところは、確かにゲームの姫乃ちゃんだなあ)
なんとなく懐かしく、またホッとしつつ言葉を返しておいた。
「では私の家で、できれば2週間以内のどこかで。何名か一緒になると思いますが、構いませんか?」
「それは勿論。……鳳の他の方ですか?」
「もしくは私の部下か側近、使用人ですね。けれど使用人は、部屋の片隅で控えるだけです。それと、学友が姫乃さんだけでは角も立つでしょうから、同じようにお声をかけてお応え下さった方を何名か、という事になると思います」
「はい、分かりました。楽しみにしています」
「私も楽しみです。それでは、そろそろ失礼致しますね」
「はい。御機嫌よう、玲子様」
「ご機嫌よう、姫乃さん」
最後に、ついに鳳の女学院にも押し寄せた、お嬢様なご挨拶で姫乃ちゃんと別れ教室を後にする。
どの道、もうゲームの前提は完全崩壊しているから、私の気まぐれで姫乃ちゃんをゲーム前に屋敷に呼んでも問題はないだろう。
それにもし何か反応や変化があるのなら、ゲーム開始の日時前にそれを見てみたいと言う気持ちもあった。
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長征:
この頃の共産党の紅軍は30万、本気を出した国民党の国民革命軍は100万以上の大軍で包囲して共産党を追い詰め、共産党は拠点の瑞金を逃げ出した。
そして共産党は、1934年から36年にかけて大陸奥地を彷徨い歩き、延安へと落ち延びて再起を図った。
(ただし数字は、中華伝統の誇張だらけ。)
太平洋問題調査会 (たいへいようもんだいちょうさかい):
1925年にホノルルに設立された、国際的な非政府組織・学術研究団体。
真っ当な組織なのだが、コミンテルン、中華民国のスパイが、アメリカ国内の世論を日本人嫌悪と親中に誘導するために活動の場としていた。
トリミングしたフェイク写真の流布などが有名。
ベーブルースが来日:
1934年11月、ベーブ・ルースを総帥とする全米選抜チームが来日。
イベントは大成功だった。
ただし来日した選手の一人が、ソ連のスパイ。
アメリカのスパイでもあったので、二重スパイということになる。
この来日で日本のムービーで撮りまくったが、それがドーリットルの空襲などに活用されている。
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