333 「夏の一コマ」 

 1933年の夏休み。日本は平穏だ。都市部を中心として、好景気に沸いている。

 懸念といえば、今年は大豊作が言われ始めている。

 ただしこれは私の前世と同じ。そして今年は、来年の東北大凶作に備えて大量に買い込む予定。加えて、農林一号の稲の普及をさらに進める予定でもある。

 法律もセーフティーも出来る範囲では機能してくれているから、今年は大丈夫だろう。


 1930年から続けている事だから、これで農村出身の軍人、兵士のヘイトは多少でも下がったと思いたい。けど、私以外の人は比較対照できる筈もないから、何もかわってないかもしれない。それでも、農村の経済的な沈下を少しは抑えた筈だ。それだけでも、十分な成果と思うしかないだろう。

 ただ、不穏な事件が夏休み前に起きていた。


 7月11日に起きた『神兵隊事件』だ。と言っても、クーデターを企てた右翼団体が事前に検挙されたから、未遂事件という事になる。

 未遂なせいか、私の歴女知識にはヒットしない事件だった。私の知るネームド軍人、ネームド右翼が関わっていないからかもしれない。


 なんでも、閣僚・元老などの政界要人を暗殺し、皇族による組閣による国家改造を目的としていたらしい。

 つまりこいつらも、自分がトップに立つ気ゼロという無責任さ。視野狭窄な視点での悪を倒せば良いという、正義の味方、国士様気取りの連中という事だ。

 こういうのを見ていると、欧州の独裁者の方が政権奪取をするだけマシに思えそうになる。


 ただ私が気になるのは、陸軍の右寄りな将校連中が関わっているかどうか。一夕会は今も組織もしくは結社として機能していて、皇道派、統制派の分裂はない。

 ただ、肝心の荒木陸相が宇垣外相の前に機能してないので、内部では亀裂が日々深まっているらしい。それでも、破局には至っていない。


 なお宇垣外相は、一夕会の勝手は許していないけど、日本の国家総力戦体制構築には精力的に動いている。だから一夕会のやりたい事は、陸軍全体で見るとちゃんと進んでいる。そのせいで、納得いかないけど爆発的な不満や、その先にある急進派と保守派、皇道派と統制派の分裂には至っていない。


 しかも、私の前世の歴史と違い、西田税は陸軍大尉として陸軍省で頑張っている。大川周明は、去年5月の銃撃戦以後、ずっと獄中だ。左寄りな北一輝も、今回の一件に関わりはないという。

 そして今の日本の情勢は、表面上でも平穏だ。未遂事件があろうと、私が何かをする必要はない。犬養内閣は31年12月から続いているし、政党政治も続いている。軍部の独走もない。


 ただ、お盆前に『関東防空大演習』なんてものを軍が東京を中心に関東一縁で行ったのが、少しきな臭さを感じさせるものだった。

 そしてさらに「信濃毎日新聞」が煽った題名の記事を書いて、右寄りな皆さんが騒いでいた。


 『五・一五事件』とか軍国主義に傾く要素が激減しているのに、こうした騒ぎが起きるところに時代の流れをどうしても感じてしまう。

 ブン屋にも、報道は中立的に淡々としろよと思うけど、言うだけ無駄なので監視するにとどめさせた。

 多少は動いても良かったとも思ったけど、気分が乗らないのでやめた。何となく、今年の夏はあまり何もしたくなかった。まるで、前世に戻ったようなうだるような夏に感じたからだ。



(そりゃあ、今年が大豊作になるわけよね)


 ぼーっと過ごす空調完備の鳳ホテルの一室が、夏の私のメインフィールドだ。このホテルを作って、これほど作って良かったと思ったのは、多分2回目くらい。

 何しろ鳳のお屋敷には、まだクーラーが一部にしか取り入れられていない。それでも家にクーラーがあるのは、流石は金持ちだ。何しろ、このクーラーはアメリカ製だ。


 そもそも、日本ではまだ殆どクーラーは普及していない。それに、アメリカでフロンを使うクーラーが発明されたのが1928年。そのアメリカでは、あまり普及もしていない。

 だから一部のクーラーを導入した百貨店などは、それだけでこの夏は繁盛している。今年3月にオープンしたばかりの高島屋の日本橋店なども、そうした冷暖房完備の店だ。

 鳳ホテルもその一つで、特に1階の食堂街は連日満員御礼状態だそうだ。


 なお、ここ数年で、一気に私が前世で見かけた歴史のある建物が続々と姿を現している。そうしたところは、21世紀にも残っているだけに鉄筋造りの立派な建物が多く、そして冷暖房完備だ。

 鳳ホテルはそれらの先駆けに近い形だけど、隣側に食堂街もつなげた別館を増やしたりしている。

 そして鳳ホテルの道向かいの鳳ビルとその周りのビル街の形成も、ほぼ完了した。鳳の本邸周りの都市開発も、去年くらいに完成している。


 なお、このくらいの時期に、東京の風景が完成した筈だ。その証拠とばかりに、東京の中心部の建物は建築基準の高さ制限いっぱいの31メートルで揃っていて、とても見栄えが良い。

 ただし、戦車より高い超高級車のデュースでも車に冷房はないから、夏に車でお買い物には行かない。この夏は、仕事以外はひたすらお嬢様な境遇に甘えて過ごした。


 そして部屋のラジオからは、全国中等学校優勝野球大会が流れている。準決勝第2試合だそうだが、たった今0対0のまま延長戦に突入した。

 クーラーの効いた部屋の中で、コーラを飲みながら高校野球を聴く。もう完全に、21世紀の前世の私の夏の休日状態だ。違うのは、部屋が豪華で大きい事くらい。



「このままずーっと、平和が続けば良いのになあ」


「何不穏な事を口走ってるんだ」


「いつもの事だよ」


「どちらにも同意だ。僕は慣れた」


「玲子が、そう言っているという事は、今が平和な証だしな」


 もう一つ違っている事があった。同じ部屋に、鳳の男子達と勝次郎くんもいた。瑤子ちゃんもいるけど、今は私の隣で気持ち良さそうにお昼寝している。

 みんな、夏の避暑を求めてではなく、単に私がホテルに滞在しているから遊びに来ただけ。そしてゴロゴロしながら、野球中継をなんとなく聴いているだけ。

 ただ、最後に発言した勝次郎くんは、そのまま続ける。


「それで、続かないのか?」


「さあ。数年は大丈夫なんじゃない。日本がその先も平和でいられるかは、次の海軍軍縮会議をどうするかでしょうね」


「露助は大丈夫なのか? 大陸情勢は?」


「まあ龍一くんは、そこが気になるわよね」


「当然だ。海軍は去年の一件があるから、大人しい。拡張拡張とうるさく言わないだろ」


「日本だけじゃなくて、世界全体も景気はようやく上昇傾向だし、不安要素は随分減ったと思うが?」


「でもお兄ちゃん、英仏のブロック経済は? 新聞でも責めている事多いよ」


「日本も満州を牛耳ったし、張作霖政府の後ろ盾で大陸市場への進出を強めている。アメリカのルーズベルト政権は、大陸の市場開放をさらに強く言ってきているぞ」


「そのアメリカは、自分の関税障壁の高さを棚に上げているがな。そう思うと、確かに不安要素はそこら中にあるんだな」


 玄太郎くんの返しに対して、またも勝次郎くんが締めた。この一年ほどを見る限り、勝次郎くんの成長が一歩先に進んでいる感がある。

 そして、聡いとは言え中坊がこんな事を話すくらいに、世界情勢は表面上の安定でしかない。経済が上向いたと言っても、日本とアメリカは超積極財政、ドイツはさらに危険な積極財政、ソ連は計画経済、英仏はブロック経済、それぞれ内輪で何とかしているだけだ。


 イタリアだって、前の世界大戦からずっと経済がボロボロなので、ドゥーチェはエチオピアの植民地化なんて考えるわけだ。

 どこかで世界政治のバランスが崩れたら、大きな戦争が待っているのは必然としか思えない。

 ただ、こんな事を子供が話しても仕方ないので、話題を変えることにする。


「ねえ、来週の金曜日はみんなどうするの?」


「俺はもう学校に戻っているが、何だ?」


「夏の旅行も、三回忌のお盆も、勝次郎の誕生日も終わったよね。何かあったっけ?」


「日曜、お前の演奏会があるだろ」


「うん。でもそれはボクだけでしょ」


 鳳の男子どもは関係ないらしい。だから視線を勝次郎くんに向ける。


「勝次郎くんは行くの?」


「勿論だ。うちで建造した船を見ないでどうする。玲子も行くんだろう。鳳の油で動いているからな」


「ああ、観艦式か。久しぶりのやつだったよな。二人は行くのか」


 私と勝次郎くんの会話に、玄太郎くんが最初に気づいた。ただ、あまり興味なさげだ。


「そうだ。今年は横浜沖でするからな。神戸だと距離的に行き辛いが、横浜ならすぐそこだ」


「うちは海軍の油の8割を納品しているからね。と言っても、うちは海軍軍人もいないから、終わった後の一般公開に行くだけよ」


「うちもだ。それに、行く子供は俺くらいだな。玲子たちは?」


「子供は私と瑤子ちゃんね。男子は見ての通り。それにマイさんも一緒に、岸壁での見学会で偉い人に花束贈呈もするのよ」


「そんなのあったか?」


「今回かららしいわ。多少でも国民の評判を良くしたい海軍が、今回は軍艦の見学に婦女子を多めに呼んでいるから、女子向け、子供向けの催しが多いのよ。観艦式自体にも一般市民を呼ぶか、かなり揉めたらしいわよ。海軍も大変ね」


「そうだな。だが、海軍がそうした国民への人気取りに努力をしていると言うことは、日本は平和という何よりの証拠だな」


 やっぱり、話をまとめたのは勝次郎くんだった。



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今年は大豊作:

1933年は作付指数120の超大豊作。

天候などの条件が発育に良かった。


なお、山形県山形市で気温40・8度を記録。2007年まで記録は破られず。ただしその後、次々に記録更新されている。



神兵隊事件 (しんぺいたいじけん)

1933年(昭和8年)7月11日に発覚。愛国勤労党天野辰夫らを中心とする右翼によるクーデター未遂事件。

計画自体はやたらと大規模だけど、何から何までお粗末。



『関東防空大演習』:

1933年8月9日より3日間実施。

演習自体はともかく、「信濃毎日新聞」が社説で「関東防空大演習を嗤(わら)う」を書いた。内容は真っ当なものだけど、題名が煽っていたので、軍、政府、右翼が騒いで問題となった。

一応、日本が軍国主義に傾くのを示す事件の一つとされる。



家庭用クーラー:

1935年に東京電気がアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社製のルームクーラを輸入販売が最初。

国産での空気調整機の生産開始も1935年。

普及は戦後。



全国中等学校優勝野球大会:

1933年の準決勝第2試合は、伝説の試合。延長25回まで決着がつかなかった。

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