279 「1932年7月の諸事件」
夏休みに入ってすぐ、ハーストさんから電報があった。
ハーストさんとは、勿論アメリカの新聞王ウィリアム・ハーストだ。
「電報とは珍しいわね。さてさて、また自身への投資のお誘いかな?」
比較的長文の内容だから、私の手元に来るまでにお手紙のような形でもたらされていた。
なお、本来なら、ハーストさんは手紙しかくれない。今回は急を要するという事だ。そして手紙は、郵便ではなくわざわざ専門の人が直に持って来るから、消印も何もない。日米間の郵便貨物の飛行機が飛べば変化するだろうけど、今は船便だから、ものはついで程度でこんな贅沢な事をして、アピールしてきている。
そして共に、大きな荷物と一緒に届いたりする。そう言えば、曰くありな戦車が届いた事もあった。
アカのリストなんかが、届いた事もある。
こちらからは、手紙と日本啓蒙の資料を年に数度、日本とその周辺の正確な情報、それに年に一度の現金振り込みをしている。そしてこちら毎年の入金は、初年度以外は向こうの年度始めの9月頭にしてあるから、手紙は大抵8月にやって来る。
電報は初めてじゃないけど珍しい。
「なんだ、ボーナスアーミーの事か。あれって確か、マッカーサーとパットンが復員軍人を蹴散らしたのよねえ」
電報の内容は、要するに弁明。
ボーナスアーミー事件で、自分は報道による啓蒙と一部の雇用で何とか回避しようと頑張ったけど、大統領と軍人達がクソだったと書かれている。
そしてハーストさんは、これが結果として共産主義者に利する行為になると考え、来年もお金をよろしくと言うアピールだった。
そしてハーストさんが弁解しているように、アメリカではハーストさんが全米で煽りまくった影響もあり、共産主義に対する世間の風当たりは強い。
見つかったアカが、社会的に吊るし上げられたり、職を追われたなんて話も少なくない。
だから、反共姿勢を大統領選挙でも利用しあっているのに、それが台無しになった。
現職大統領の候補であるフーヴァーは、反共主義者な筈のマッカーサー、パットンと共に、復員軍人が共産主義者か共産主義者に煽動されたと判断して蹴散らしてしまった。フーヴァー人気、共和党人気はさらに落ちるだろう。
私がハーストさんにお願いしたり、株価を大きく上向かせたり、せっせとアメリカで買い物をしたり、とにかく資本主義万歳な方向で民主党の掲げる政策を力づくでディスったのに、全部台無しだ。
これが歴史の修正力とか揺り戻しというなら、もう少しマシな事件でして欲しいとすら思えてくる。
けど、そんな事を知っているのは、私一人だけだ。
「パットンって誰?」
「世界大戦でアメリカの戦車隊を率いていた軍人」
「将軍、じゃないよね」
「戦時大佐で、今は少佐。次の戦争で、歴史に名前が残るくらい大活躍するかもしれない人」
「へーっ」
私の仕事部屋で、お芳ちゃんがめっちゃ興味なさげな返事。マッカーサーの事を聞いてこないのは、フーヴァー政権で史上最年少の参謀総長をしているからだろう。
「他にコメントは?」
「何を言えと? じゃあ、参謀総長の方は?」
「後13年ほどしたら日本を占領しにやって来るかもしれないから、情報くらい集めといたら?」
「……それで関心があったんだ。ちなみにお嬢の寸評は?」
ようやく興味を持った声が聞こえてきた。お芳ちゃんは軍人に興味が薄いから仕方ないだろうと思いつつ、私的マッカーサーのプロファイリングを心の引き出しから引っ張り出す。
「優秀だけど尊大。英雄志向。敵より味方に敵が多い。パットンも英雄志向ね」
「軍人って、英雄志向や英雄願望の人多いよね」
「実際英雄になれる確率は、どんな宝クジや博打より低いのにね」
「そういう言い方、お嬢らしい」
そう返す白い少女のニヤリとした笑顔の向こう側で、扉の近くで椅子に座って控えているシズが、少し眉をひそめた表情で私を見る。リズは我関せず、のんびりと銃の手入れ中だ。
「ありがと。はい、これ読んでおいて」
「はーい。……それで、ハースト氏への出資は?」
「ん? 続けるわよ。アカは消毒しないとね」
「……もう取り繕わなくなってきた。ちなみに消毒方法は?」
「そうだなあ。火炎放射器が一番かな」
「流石にそれは思いつきもしなかった」
「そう? 汚物の消毒といえば火炎放射器が一番よ」
「それはお嬢の頭の中だけだよ。それとも『夢』に出てきた?」
「どうだろ? ある意味、夢の中には出てきたわね。それと一応言っとくけど、ジョークよ」
「アメリカの方はジョークじゃなかったから、それってブラックジョークだね」
「笑えないけどね」
そう言い合うけど、アメリカのボーナスアーミーでは、不景気だから前大戦での支給が欲しいと押し寄せた復員軍人を追い散らすのに、野営地にしていたテントを軍が焼き払ったという情報もあった。
何にせよ、この事件そのものと、ハーストさんが私に事件のことで電報を打ってきたという事の両方は、アメリカの不景気がどん底だからこそ起きたわけだ。
それなりにお金があれば、どちらも無かっただろう。
もっとも、ハーストさんが電報まで打ってきたのは、私がアメリカ株への再投資を派手目に再開したからに違いない。本当に目ざとい人だ。
そしてアメリカの件は、ハーストさんの強かさに免じて苦笑で済ましても良かったけど、他が最悪の方にフラグを立てにきていた。
「他に、何か明るいニュースない?」
「他って言われてもね。そうそう、30日からロサンゼルスオリンピックが始まるね」
「おーっ、忘れてた。ラジオ実況入るかな?」
「NHKはするって言ってるけど、どうだろうね。開催地のアメリカは、ニュース止まりみたいだし」
「この不景気で、あんまり盛り上がりそうにもないものね」
「……せっかく明るい話題にしたのに、結局不景気の話?」
「だってそうでしょ。大英帝国は、この21日から自分達だけで閉じこもる相談始めているし、ドイツの国会選挙は左派の各党が優勢に選挙戦進めているし、アメリカの選挙だって共和党は完敗しそうだし、良い事全然ないじゃない」
「アメリカはそこまで悪い事じゃないと思うけど、お嬢って本当にルーズベルトさん嫌いだね」
「うん。これだけは譲れない」
「お嬢、譲れない事多すぎ」
いい加減、お芳ちゃんに苦笑されてしまった。
けど、ルーズベルトはラスボスにして大魔王だから、妥協できる相手じゃない。叶うなら、暗殺でも何でもしたいくらいだ。
ただし今の段階からなら、この魔王を日本が避ける事は出来る筈だ。そして私にとっての偶発的な出来事に助けられたおかげで、今の所日本は外交的に余裕がある。
「譲れない割に、結構余裕?」
「というか、諦め。私、めっちゃハーストさんにルーズベルト支持するな、あいつはアカだって伝えて、共和党を応援するなら追加で金出すって力説して一杯書いたのに」
「ダメだったんだよね」
「うん。ハーストさん、ルーズベルトとは抜き差しならない付き合いがあるんだってさ。今回だけお金を優先してくれたら、もう100万ドルくらいあげたのに」
「なんか、お嬢の方が悪者だよ」
「悪者、大いに結構!」
言い切って、傲然と胸を張る。彼に対する悪者になるなら、むしろ望むところだ。
「それで、そんなに余裕ぶってていいの?」
「まあね。日本とアメリカとの関係自体は、今のところ悪いどころか順調だから。むしろ問題は、大英帝国とドイツの方ね。チャーチルさんにも手紙書いたけど、どうにもならないだろうなあ」
「あんな抽象的な内容で、しかも政治家一人で何かが出来たら、世の中苦労しないでしょ」
「けど、イギリスが保護貿易したら、どん底のドイツ経済が更に酷くなるのよ。そうしたら、ロクでもない奴をドイツ国民が支持するようになるのよ。
それにチャーチルって、ガチガチの帝国主義者だけど、自由貿易主義者よ。この一年、イギリスで進んだ保護貿易の流れに反対してたじゃない。私がらみで手にしたお金もジャブジャブ使ってたし、私も支援したし!」
「支援ねえ」
「あの人の本、沢山買ってあげたのになぁ」
あまりの無力感に、机に突っ伏してしまう。
世界の魔王の一人チャーチルでダメなら、私程度じゃあ歯も立たない。
「あれはやりすぎ。5万ポンドとか、お嬢言葉じゃないけどドン引きしたんじゃない? しかも、日本中の図書館、中学、高校にばら撒くとか」
「何万冊も持っていても仕方ないでしょ。ばら撒いても、まだ倉庫に余っているし。今うちのグループの会社のどこ行っても、あの人の本が置いてあるのよ。今度、残りを三菱に押し付けようかな」
「まあ、良いんじゃない。日本人は前の世界大戦の事よく知らないし、アカを防げとか言ってた本もあったし。英語が読めればだけど」
「アカかあ。ドイツも、共産党が勝っても問題だし、ナチスが勝っても問題だしなあ」
「ナチス?」
「国家社会主義ドイツ労働者党。頭文字がNSDAPでナチス。向こうでもそう言っているらしいわよ。日本だとナチ党とか言い始めてたっけ。まあ、それはどうでも良いんだけど」
「前から言っているけど、ナチスはそんなに問題? 少なくとも共産主義よりマシでしょ」
「何年かしたら、『そんな風に考えていた時期が俺にもありました』って思うわよ。誰もがね」
「何それ。まあ、ドイツ情勢は注意しておくよ。それで良いんでしょ」
「うん、よろしく。貪狼司令にも、強く言ってはあるけどね」
世界中で魔王達がアップを始めているというのに、世界の流れに対しては愚痴をこぼす事しか出来ないのが、私の限界だった。
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戦前の夏休み:
7月20から25日くらいから8月いっぱいくらいが標準的。今とあまり変わりはない。
ボーナス・アーミー:
1932年6月、第一次世界大戦の復員軍人が支給(ボーナス)の繰り上げ支払いを求めて、ワシントンD.C.へ行進した事件。
7月28日に、軍を用いて強引に解散させる。
ダグラス・マッカーサーは、この集団を武力的に鎮圧した事で批判に晒された。ジョージ・パットンも鎮圧に参加して、騎兵で追い散らしている。
抗議者の野営テントを焼き払ったかどうかは、諸説ある。
自分達だけで閉じこもる相談:
オタワ会議。イギリスが、いわゆる「経済ブロック」の形成を決めた会議。
フランスなども続いて、世界は持つ者と持たざる者の対立図式が出来上がる。
当面の日本は、大幅な円の引き下げで対抗。
ドイツ経済は再び死んで、ちょび髭が召喚される。
ドイツの国会選挙:
世界恐慌下で躍進したナチスが、遂に第1党に躍り出る。
チャーチルの本:
この頃だと、『世界の危機(The World Crisis)』全5巻と第一次世界大戦史あたりだろう。
5万ポンド:
2ドル=1ポンドくらいなので、10万ドル。30万円。現代の価値で7億5000万円。要するに政治献金の一種。
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