270 「事件の結末」

「ねえ、龍也叔父様、あの論文って公表してないのよね」


 私は前提条件の確認を込めてお兄様を見る。それにお兄様も小さく頷かれた。


「ああ。甲以外は、世に出すには注意が必要だろうと判断があって、一部の者しか読んでいないよ。ただね、それは玲子の影響だ」


「私? えーっと、お兄様がご帰国された時に、私が少しお話しした件でしょうか?」


「ああ。あの論文の先に、あんなものが隠れていると分かった以上、公表は控えるべきだとの判断だ。今は、玲子の言葉を文字にしているところだよ」


「本当ですかっ!」

「誠ですか!」


 西田と辻が同時に反応した。二人ともめっちゃ嬉しそうだ。

 けど、話の本筋からは外れている。だからお父様な祖父が、わざとらしい咳を一つして場を収める。

 一拍子置いて、私も話を続ける。


「その件は後ほどってことで。けど、その話は無理筋すぎ。間接的でも陛下が政治に関わるのは、周りがさせないでしょう。龍也叔父様の事に至る前に、なんでそういう妄想になるのかが、私には分からないんだけど」


「だからこそ、君側の奸なんだろ。陛下に近い西園寺様、牧野様、鈴木様らは、陛下を蔑ろにして国政を壟断(ろうだん)する奸臣である、と」


 お父様な祖父も分かっていて、私を煽ってくる。


「いや、だからよ。宮城でそんな話が出来るわけないでしょ。奸臣とか言うんだから、それを理解した上で、なんでそのルートでお兄様の論文を陛下や殿下がご存知って話になるの?」


「まったくもって不明です」


 西田も理解できないと悩んでいる。

 うん。多分、珍しいショットだ。


「それに、仮に殿下が論文をご存知だったとして、龍也叔父様が頭の悪い連中と同じような事を考えていて、思想面だけじゃなくて、資金面でも協力しないといけないわけ? 妄想の翼で富士山も越えているんじゃない?」


 馬鹿とかの言葉を懸命に飲み込む。それでも、文句が口から漏れていくのを自覚する。

 そんな私の言葉に、お父様な祖父が軽く笑う。


「と、子供にすら簡単に論破された。龍也、その被害妄想の強い奴らに、ちょっとお灸を据えておけ」


「分かりました」


 そこで西田が、小さく手を挙げる。


「その者達ですが、先だっての私の帰国祝いの際に、顔を出しておりました。ですので、私が仲介させて頂きます」


(そう言えばそうだった。まあ、綺麗になった西田だし、お兄様も説得すれば、少しは明るい道が見えるかなあ……いや、一部無理っぽいのがいるよなあ。寝ても覚めてもテロとか言ってる奴がいたもんなあ……)



「辻、待たせたな。桜会の事を頼む」


「ハッ」


 私が一瞬遠くを見ていたら、話が次に進んでいた。


(そう言えば、辻って殆ど黙ってた。大人しすぎる辻ーんも気味が悪い)


 そう思っている間にも辻の話が進む。

 要は辻は、一夕会から桜会の様子を見る為に送り込まれたスパイだ。そして一夕会のリーダー格の永田鉄山や小畑敏四郎らより、お兄様に従っている。一夕会の上の人達も、そうしたお兄様を慕う若手は、お兄様に任せていた。

 ヤクザで言えば、お兄様は若頭とかに当たりそうだ。

 まあ、それはともかく辻の説明がしばらく続いた。



「でありますからして、桜会は今回シロと判断致します」


「宴会派ねえ。大川周明ってのは、よほど羽振りが良いか、気前が良いんだな。もっとも、他人の金で飲み食いばかりする軍人ってのも、呆れて物も言えんがな」


「ですが、急進派が大川周明と強く繋がった事で、穏健な者、中立的な者は白けてしまい、桜会自体が有名無実化しつつあります」


「何もせずに瓦解か。かなりの大所帯になっていたが、結局何がしたかったんだ? 連中のお題目の、軍部独裁政権樹立による国家改造はどこへ行った?」


 お父様な祖父が、小馬鹿モードに入ってしまった。私も自分が苦笑しているのを自覚する。


「けど、組織づくりの動機が、軍縮した政府というか民政党政権への薄っぺらい恨みでしょ? 政友会政権が積極財政を開始したから、単に組織を維持する理由が無くなっただけなんじゃないの?」


「伯爵令嬢のおっしゃる通りです。あまりの不甲斐なさに、見ていて何度問いただそうと思った事か」


「しないで正解だ。よく我慢したな、辻」


「ハッ。お言葉痛み入ります」


 辻も、お兄様には従順だ。けどこの人の場合、どうしても油断してはダメだと思ってしまう。

 一方で、話自体はこれでひと段落って感じだ。


「その急進派も、これで瓦解だろう。大川周明が一命を取り留めたとしても、銃撃戦と武器の不法所持で逮捕、禁錮刑は確定だ。それに憲兵隊の捜査の手も、大川周明と繋がりのある者へと伸びる。……海軍はまた大変になるだろうが、ロンドン条約への不満が事の発端だ。身から出た錆だな」


 お兄様の言葉が、全員の総評だった。




 その後事態は、大川周明宅に押しかけるも逃げた2名の海軍将校の逮捕で一旦は幕を閉じた。そして幸いと言うべきか事件での死者はなく、瀕死の重傷で担ぎ込まれたと言う大川周明も、その後回復した。

 もっとも、内輪揉めで銃撃戦をした4名は全員禁固刑を受け、最低でも5年は塀の向こう側での生活だ。大川周明も、怪我が回復してからは同様に壁の向こうだ。


 そして海軍は、またしても不祥事を起こしたという事で、海軍内での綱紀粛正が実施された。逮捕者と繋がりの深かった者は軒並み海軍を追い出され、上官連中も監督不行き届きなどで処罰された。


 一方だけど、私の知る『五・一五事件』事件に関わるも、今回の件から漏れた人たちは、そのまま生活、もしくは軍人を続けた。

 同調していた陸軍士官学校の本科生の人達も、露見すらしなかった。捕まった海軍将校が、名前を言ったりしなかったからかもしれない。


 そして大川周明という金蔓が消え、そして右翼団体、活動家の資金源となっていた徳川義親侯爵も監視の目が強められたので、革命家達の積極的な行動は、当面だろうけど大きく減退する事になる。

 だからだろう、本当にお兄様に接触して来た馬鹿がいたけど、そのまま憲兵に突き出したそうだ。



 そして襲撃対象だった犬養毅総理は、単にチャップリンの気まぐれに翻弄され、待ちぼうけを食らっただけに終わった。

 鳳が配備した警備員やブン屋、探偵も、荒事での活躍の場はなかった。待機で終わったリズはさぞご不満かと思ったけど、新しい戦い方が気に入ったらしく、その後も熱心に腕を磨いている。

 世の中も、翌朝の新聞はチャップリンが相撲を観戦した報道で持ちきり。右翼活動家と海軍将校の銃撃戦は、あまり大きく扱われる事も無かった。

 この状況に、海軍はチャップリンに陰ながら感謝したという。


 チャップリンは6月頭まで日本に滞在し、主に帝都で色々なものを見て回って帰って行った。そして私は、彼が立ち去るときにもう一度お会いして、さようなら、またおいでくださいの言葉を送ってお見送りした。




「世はなべて事もなしね」


「大山鳴動して鼠一匹じゃないか?」


 鳳の本邸内、居間でお父様な祖父との優雅なティータイム。

 平日の午後だから、ほとんど人もいない。


「世の中、大山鳴動なんて少しもしてないじゃない。その為に頑張ったんだし」


「まあな。だがよぉ、もう少し骨のある連中かと思った」


「骨はあったかもよ。能力や組織がダメだっただけで」


「俺にとっては同じだよ」


 そして「ハァ」と深めのため息。

 お父様な祖父の、別の意味での落胆のため息で済んだんだから、本当に良かった。

 未だ日本は、軍の独断専行もなければ、政党政治も維持され、上海では軍事衝突も起きず、満州の一件で世界中から非難もされていないし、何より国連を脱退する気配もない。それでいて、満州は手に入れたも同然。

 上手くいきすぎて少し怖いくらいだけど、多少は努力してきた結果だと思いたい。

 そして事が上手く行っているのだから、財閥の子である私のする事は、商売の手を広げていくだけだ。


「さあ、陰謀の時間はしばらくおしまい。満州での大規模な開発計画も動き出すし、うちの事業は拡大の一途。日本の景気も大きく上向き。忙しくなるわよ」


「そうだな。だが、そっちは任せた。俺は陸軍をつついてみるよ」


「うん。そっちこそ任せるね。私じゃあ何もできないから」


「適材適所だな。さて、じゃあ今日ももう一踏ん張りするか」


 二人してよっこらせとソファーから立ち上がり、仕事部屋へと向かうのだった。

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