268 「事件発生」
「緊急事態が起きました」
鳳総研の地下深くの司令部と言える部屋で待機して、緊急伝が飛び込んできたのは、1932年5月15日の午後6時前。
「どこが狙われたの?!」
私の前世の歴史での『五・一五事件』では、中途半端というか、やる気がないというか、単に力不足なのか、ともかくそんな感じに、首相官邸以外も襲撃を受けた。酷いところは、襲われた側が襲撃に気づかなかったとか。拳銃と手榴弾を使ったというけど、お粗末な襲撃だ。
逆に、襲撃した場所の警戒態勢が緩すぎたという話も聞く。犬養毅暗殺が成功したのも、日本の警備体制が甘かったからに過ぎない。
「ご安心ください。こちらを」
最初に報告の紙面を受けた貪狼司令が、私にその紙切れを渡す。
そして絶句した。
「なんで、大川周明が撃たれたの?」
「そりゃあ、あの誇大妄想家がアジア主義者だからでしょう。大方、犬養毅は同じアジア主義者だから殺すなとかの問答になって、血の気の多い愚か者が逆上した、とかいったあたりでしょう。ああいった自分の前しか見えない連中は、同志と少しでも意見が違うと簡単に逆上するもんです」
早口でまくしたてられた。なんだか、個人的恨みでもありそうな感じだ。
「そ、そうかもね。けど、これだけじゃあ分からないわね」
「続報待ちですが、警察からの情報を待つ方が確実かもしれませんな。少なくとも、大川周明周りに関しては、我々の手の届かない場所に行ってしまいました。なんとも、お粗末な幕切れだ」
貪狼司令の相変わらずな物言いだけど、確かにそんな気がした。すでに夕日が没しようとしているのに動きがない以上、もう襲撃はないだろう。
しかも事が起きて警察と憲兵隊が動き出した以上、襲撃予定の連中は逃げるしか手がない。
前途有望な陸軍士官学校の本科生が全く関わっていないのが、多分だけどせめてもの救いだろう。
「動きがあったって?」
「話を聞かせてくれ」
それからしばらくして、鳳の本邸にいたお父様な祖父と、今日は日曜日なので同じく本邸にいたお兄様がやってきた。
そして入ってくるなり、お父様に小突かれる。
「それより、玲子がなんでここにいる?」
「そりゃあ、ここが一番安全だからよ。それに私のメイドの一人が配置に付いているのよ。気になるでしょ」
「言われてみれば、今日に限ればこの辺りの方がうちの警備は多いのか」
「本邸も十分過ぎるほどですけどね。それで?」
お兄様の言葉に貪狼司令が頷く。
「はい。大川周明が、訪れていた将校2名と銃撃戦をしたと見られます」
「銃撃戦? 一方的ではなく?」
「そもそも、金と拳銃は大川周明が提供しています。恐らく、血盟団の連中の一部拳銃も出どころは大川でしょう」
「それなら大川周明の方が銃撃する側では?」
「海軍将校の方も事前に渡されていたか、独自に入手でもしていたんでしょう。その辺は警察から、ご当主が聞き出して下さい」
お父様な祖父は、軽く肩を竦める。
「俺はその辺どうでもいいよ。それで結果は?」
「今のところ死者はなし。3名が病院に救急搬送された模様。他2名ほどが逃走中。すでに警察が東京市内全域で捜査を開始。憲兵隊も動いています」
そこまで聞いた時点で二人が同じように軽く溜息を吐く。そしてお父様な祖父が、近くにあった賓客用ソファーにどっかと腰を据える。
「なんだよ。内輪揉めで騒動は仕舞いか? こっちが手ぐすね引いて待ち構えてたってのに、なんで自分達だけで楽しむんだよ」
「ご当主、少なくとも彼らは本気でしょう。過去形になりそうですけど」
お兄様が苦笑いだけど、お父様な祖父のあんまりな物言いにはノーコメントらしい。気持ちは似たようなものなのかもしれない。
しかしすぐに苦笑を収め、貪狼司令に顔ごと向ける。
「事件の結果は警察と病院待ちとして、原因は推測できるか?」
「はい。犬養毅と同様に大川周明もアジア主義者です。うちの内偵でも、大川周明は政府転覆には賛成でも、犬養毅暗殺には否定的と言う話が出てきています」
「で、犬養さんを殺す殺すなの問答にでもなって、どちらかが逆鱗に触れる言葉を言ってしまい相手が逆上。拳銃を持ち出し、言った側も反射的に突きつけて互いに引けなくなり、何かの拍子で西部劇ばりの銃撃戦が展開されたってわけか?」
「恐らくは」
お父様な祖父の言葉に貪狼司令が軽くお辞儀する。
「海軍将校が大川周明を襲撃したと言う線は?」
「昼くらいに海軍将校達が大川宅を訪れ、そして出たという話は届いておりません。話し合いがこじれたと見るべきかと」
「そうか」
そこまで聞いて、お兄様もお父様な祖父の隣へと音もなく腰掛ける。
「それで首相官邸は?」
「全く動きなし。チャップリンもそろそろ相撲を見終わって、日本橋で食事後に鳳ホテルに戻る予定です」
「他は?」
「未確認ですが、大川宅以後の警察の動きに釣られてか、関係者の動きは慌ただしくなっていますが、基本的に情報収集の為の動きのようです」
「逃げないのか?」
「はい。今回の件は、まだ知らないと見るべきかと」
「突発事態だったにせよ、横の連携も取れてないとか、どんだけ杜撰なんだ? やる気無くすなあ」
「相手が無能で結構な事じゃないですか」
「それにしても、海軍はまた大目玉?」
「在野の右翼思想家と撃ちあっただけだ。お上は情けなく思うくらいで、お怒りにはならんだろう。まあ、これで悪巧みが暴露されて、今少し首相官邸あたりの警備が強化でもされれば、結果として御の字なじゃないか?」
お父様な祖父は、もうかなりやる気をなくしている。久々に気合を入れたのに、拍子抜けも甚だしいってところだろう。
そして、これはまともな話し合いにはならないなあと思った時だった。
「お客様がご到着されました」
「客? ここに? 誰?」
「西田税様と辻政信様で御座います」
「ハァ?!」
「ああ、俺が頼んで来てもらった」
シズに対する私の間抜けな言葉に、お兄様が少し済まなさそうなお言葉。それにしても、一番凄いのを二人も呼ぶとか、お兄様も大胆というか豪胆というか、呆れそうになる。
おかげでちょっと間の空いた私に変わり、お父様な祖父が口を開く。
「内偵してた連中だな。だが、この部屋は流石にまずいか。総研の表の応接室にでも通してくれ」
「畏まりました、ご当主様」
一礼してシズが立ち去る。
そしてすぐに、お父様な祖父が立ち上がった。
「うん。そういうわけで、俺達も移動だ。で、二人に何をさせていた?」
「西田は顔が広いし、以前は北一輝、大川周明とも交流がありました。辻の方は、桜会に顔を出させています。まあ、俺がさせたんじゃないですけどね」
お兄様が軽く肩を竦める。表情から見て、お兄様の本意ではないんだろう。
「永田か。だが辻って、名物野郎だろ。永田の言う事を良く聞いたな。お前に懐いてたんじゃないのか?」
今度は苦笑だ。辻に限らず、お兄様を慕う若手将校は少なくない。
「窓口やつなぎ役はしています。ただ辻の場合、一夕会の外野といった立ち位置の板垣さんに心酔しているようですね」
「満州で事を起こしたあいつに? まあ、俺もあいつは嫌いじゃないが、それにしてもまた癖の強いもの同士だな」
「それは否定しません。……玲子、どうした?」
「どうしたも何も、私はお見送りです。こういった時は、一族や社員の人以外の前に出ない方が良いでしょう?」
「それもそうだね」
「いや、付いて来い。確か西田も辻も、お前の尻尾には気づいている。今更だろう」
お父様な祖父の、あんまりな一言。
私が日本陸軍で一番会いたくないトップ3クラスの二人なのに、お父様な祖父が言った以上、私に拒否権はない。
「聞いているだけで、良いですよね?」
「いつもの通りでいいだろ。妙な奴らだが、分はわきまえているだろ」
「だと、良いんですけど」
大川周明の件よりも、不安でいっぱいだ。
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