236 「完全勝利した犬養毅」

 1931年12月13日、若槻内閣は総辞職し、犬養内閣が成立した。

 私にとって皮肉というべきか、私の前世の歴史と全く同じ日付だ。そして総理の椅子を巡る勝者も、私の前世の歴史と同じく犬養毅となった。

 

 犬養毅が総理になれたのは、いや、床次竹二郎が総理になれなかったのは、二人の政治家としての熱意の差だと言われた。

 床次竹二郎が原敬の多数派工作の上に胡座をかいたとも言われるけど、その点も間違いじゃないと思う。けど、犬養毅に比べると政治家、総理としての「覇気の差」と言った人がいた。

 その点犬養毅は、大臣、特に総理の椅子に強い執着心があった。だから精力的に活動して、最後まで力を入れて政友会内の支持者を自分の側に引き入れていった。


 また、政治家としての理想や信念はどっちもどっちと言われる事が多いけど、少なくとも犬養毅には今回風が吹いていた。何しろ満州の情勢が、日本の完全な傀儡ではなく、彼の大亜細亜主義に合致していたし、彼自身も精力的に動いていた。

 そして日本政界の国際協調を重んじる人達も、犬養毅の大亜細亜主義を支持した。幣原喜重郎の協調外交に少しでも近いからでもある。

 それに、陸軍の影が後ろでチラついているのはどっちもどっちだし、犬養毅の方が陸軍を抑えられるとも見た。


 しかも犬養毅は、政友会内で支持する議員をほぼ五分に持ってきた辺りで、さらに一手を打つ。

 何と、二週間ほど前の子供達の床屋談義で勝次郎くんが案として提示した、宇垣一成を外務大臣とする事に成功したのだ。

 宇垣一成は若槻内閣での陸相だけど即座に予備役になり、犬養毅と握手した。二人の間に、どんな話や取引があったのかは、後世の記録でも待たないとダメだろう。

 政治の世界は複雑怪奇だ。


 けど、この話を聞いて、一夕会は犬養毅と宇垣一成の両方に「やられた」と感じたそうだ。

 誰もが、犬養毅が総理となった場合、娘婿の芳澤謙吉が外務大臣になると思っていたからだ。その芳澤は、外務政務次官となった。

 

 永田鉄山に近いお兄様な龍也叔父様から聞いた話だと、一夕会が荒木貞夫を裏から操るように動かしたとしても、閣議の場では自分達は直接手が出せない。

 そして閣議での議論で、荒木貞夫が宇垣一成に勝てる筈がない。

 年齢、頭脳、軍人としての素養や資質、政治家としての場数、何もかもが格が違う。しかも大正時代から現時点の昭和初期にかけて、宇垣一成は最も政治と軍事に精通した人物の一人。能力だけなら、総理に一番相応しいくらいだ。

 満州での問題、大陸での問題、対外情勢、その全てで、荒木貞夫を間接的に操るだけの一夕会を、閣議の場で上回るのは確実だった。

 何しろ荒木貞夫は、一夕会が自分達がコントロールしやすい人物として担ぎ上げた人物だ。


 そして一夕会は、私の前世と違って永田鉄山と小畑敏四郎はまだ仲違いしていないし、「皇道派」と「統制派」にも分裂していない。陸軍の実務ポストも、全体で押さえたままの状態。

 けれども、なまじ大所帯なので色んな考えの人が属したままでもある。

 操り人形が頼りない上に、後ろで腹話術する者まで数が多くて統一されていない状況では、宇垣一成が率いる宇垣閥となった長州閥に一つになって太刀打ちも難しい。

 しかも今回の満州事変で、一夕会自体が陸軍内での評価を下げている。ある意味、満州事変がケチのつき始めだ。


 この状況を一夕会が覆すには、現場での大規模な独断専行をするか、帝都で軍事クーデターでも起こすしかない。

 しかし私の見るところ、どちらも出来ない。

 何しろこの世界では、まだ独断専行の先例がない。厳罰、最悪処刑を覚悟しないと動けない。減刑に民意を味方にする手はあるけど、民意だけに不確定だから、秀才軍人達としては不確定な要素に頼りたくはない。

 そして軍事クーデターをすると言っても、海軍が『統帥権干犯問題』でやらかした時の事を考えると、横紙破りどころじゃない事を仕出かして、陛下の信任が得られる可能性が低い。

 つまり、横紙破りをしたくても枷がありすぎて出来ない。



「これって、もしかしなくても犬養毅の完全勝利?」


「そうとも言い切れんだろう」


「いや、政局自体は玲子が正しいよ」


 夕食後のティータイムで、お父様な祖父達と軽快なトーク中。私の側近候補達もいるけど、テーブルが違うので静かに聞き耳を立てるだけ。

 日時は、新内閣発足の夕方。13日の日曜日。休日という事もあって、お兄様が家族全員で遊びに来ている。

 もっともお兄様は、一夕会の実質黒星のゴタゴタでかなりグロッキーなご様子。相当、永田鉄山や東条英機らにこき使われたらしい。

 あの二人へのヘイトが溜まりそうだ。


「政局自体って事は、陸軍内は別なの?」


「そうなのか、父上?」


 同席している龍一くんの言葉に、お兄様が少し迷う表情を見せた後で真面目顔になる。うん、相変わらずのイケメンだ。

 そして真面目なお顔を見た幸子(ゆきこ)叔母さんが、瑤子ちゃんと一緒にテーブルから離れる。私も一緒に離れてのんびりした話でもしたいところだけど、瑤子ちゃんに「また後で」と一言言い合うだけで席に残る。長子の務めってやつだ。

 なお、幸子(ゆきこ)叔母さんのお腹は現在8ヶ月目。お腹が、もう見た目で分かるほど大きい。だから臨月が近くなったら、使用人も多い鳳の本邸で過ごす予定だ。


「陸軍内では、荒木中将を推す一夕会が人事も予算も握っている。それに荒木中将の人気も、依然として高い。陸軍内での、宇垣元大将と長州閥への反発も依然として高い。それに満州での一件も、まだ序盤だと見ている」


「実務職を押さえたってだけですよね。あからさまな事して、上から一言言われたら終わりじゃないのですか?」


「宇垣大将達相手に、そんなヘマはしないよ。それに宇垣大将、いや元大将が予備役願いを出して外務大臣になったのは、好機と考える者も少なくない」


「それ、逆に罠にかかっているんじゃないですか? 心の。宇垣一成がそんなお間抜けなら、この10年ほど陸軍を牛耳ってこれたわけないのに」


「本来でも、そろそろ退役するご年齢だ。老いたと考える者もいる」


「それはないわね」


 私の断言に、お兄様が苦笑する。お父様な祖父は、同じ事を言おうとして、「そ」の字に開いた口をつぐむ。そして、ちょっと私をジト目で見る。


(そう言えば、お父様は宇垣軍縮を一緒にしたんだっけ)


 そう思いつつ、私はニコリと笑顔。それを見たお兄様は小さく苦笑。そして龍一くんは、私とお兄様の鍔迫り合いに、呆気にとられている。


「それは俺も思う。でも玲子だから、夢のお告げの言葉なのかい?」


「俺も気になるな。聞いてないぞ」


「えっ? いいえ、違うわよ。あの人がどうなるかは……確か5年くらい先に総理になり損ねたくらいしか、夢にはあまり出てこないわね」


「総理候補か。確かに、今でも総理の能力はお有りだろうな」


 お父様な祖父は、かなり深く納得げだ。いつもの煙に巻く感じがない。相手を高く評価している証拠だ。


「評判は、あまり良くないって話は聞いているわ。けど、能力は本物でしょ?」


「あの方以上の軍人は、大将、中将では他にいないだろう。ただ、それが欠点だ」


「どうして? 悪い事じゃないと思うけど?」


「田中義一様から引き継いだ長州閥を改造した宇垣閥を持つし、当人が大きすぎて替えが効かない。そして一人で何でも出来てしまうから、ワンマンになりすぎている。しかも陸軍のさらなる改革、近代化にもご熱心だから、革新派の連中から意外に反対意見がない」


「世代交代が出来ない……じゃなくて、遅れる?」


「それで正解だろうな」


 お父様な祖父との遣り取りにお兄様も賛成と言うことは、鳳一族全会一致というに等しい。龍一くんは、天然でハブられているけど。


「じゃあ、このあと陸軍はどうなるの?」


 そんな私の質問に、お兄様とお父様な祖父が視線を交わして、お兄様が口を開く。


「一夕会が持つ人事権を使って、一つずつ宇垣さんの息のかかかった人事を入れ替えていく」


「徐々に乗っ取るのかあ。けど、出来るの?」


「殿下を参謀総長に据えればいけるだろう。宇垣さんでも文句は言えん」


「うわっ、えげつない。そこまでする?」


 陸軍で殿下といえば、閑院宮載仁親王だ。

 そしてお父様な祖父の答えに思わず反応してしまったら、お兄様が苦笑されてしまった。

 陸軍内で宇垣一成に勝つには、それしか手がないという事だ。ただ、お父様な祖父の雰囲気が、私とは違う。


(何かあるんだ)


 そう感じて「ジーッ」とジト目で見続けてやる。

 そうすると珍しく陽性の破顔をした。


「そんな目で見るなよ。なあ龍也、どうして欲しい?」


「出来れば波風を立てないで欲しいですね、元少将閣下」


「二人でなに? 分かんないんだけど?」


「玲子でも分からない事があるんだなあ」


 今までの遣り取りをボーゼンと見るだけだった龍一くんが、ちょっと安心したように言葉を漏らした。

 私はそれに臆面もなく頷く。


「陸軍内の詳しい事情は、私も知らないわよ」


「そうは思えんが、まあ良いだろう。殿下というのは、閑院宮載仁親王殿下だ。そして殿下は、日露戦争で前線に出られている。騎兵第2旅団長としてな。これで分かったか?」


「あっ、多分。お父様と同じ戦場に立たれた。しかも騎兵同士で。戦地で交流もあったの?」


「現在進行形にしてくれよ。一応こっちも伯爵様で、畏れ多くも戦友として接して下さる。俺が陸軍で昼行灯をしていられた理由の一つだ。で、たまにだが、今もお会いしている」


「「おーっ!」」


 龍一くんと思わずハモってしまう。昼行灯なお父様な祖父だけど、久しぶりに偉大さを実感してしまった。

 ただお兄様は、ため息をつくばかりだった。


「ご当主、ほどほどにして下さいよ」



_________________


芳澤 謙吉 (よしざわ けんきち)

犬養内閣の外務大臣。外務省上がりの敏腕外交官。犬養毅の娘婿。

犬養毅にとって自前で用意できるほぼ唯一の大臣候補。



閑院宮載仁親王殿下:

史実でも、この頃に担ぎ出されている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る