227 「満州事変(5)」

 翌9月18日、『柳条湖事件』、列車脱線事件が明るみに出ると、アジア極東地域が俄かに騒がしくなった。


 日本の世論は、『満鉄脱線事件』の一面で飾られた朝刊を見て、日本政府は満州の安全を確保しろの一色に染まった。特に詳細に伝えた鳳グループ系列の皇国新聞は、いつもの3倍以上刷ったのに駅の売店などで飛ぶように売れた。

 激しく燃える貨車の写真が、皇国新聞だけだったからだ。


 そして午前中のうちに、揚子江奥地の共産党が犯行声明ではないけど、満州の同士達を絶賛。中華民国の民衆に向けて、張作霖の政府でもなく、蒋介石などの軍閥でもなく、自分達こそが列強と、特に日本と戦っていると宣言。

 扇動ならお手の物なので、そこらじゅうの都市で言い回っていると言う報告が入ってきた。

 しかも、今こそ立ち上がれ的な事まで言って回っている。共産党の宣伝戦術としてはいつもの常套句だけど、今回ばかりはシャレにならない。

 方々から攻撃されて追い詰められている共産党は、何でもいいから自分達の生き残りの為に利用しようという考えだと分析されていた。


 そして言葉に煽られるように、実際は私達が水面下で欺瞞してそれに乗った連中が、奉天に続けとばかりに満州の数カ所で色々な事を行い始める。

 民衆扇動による小規模な暴動、焼き討ち、邦人襲撃など。邦人襲撃は、以前から問題のあった『半島系日本人』、要するに満州に住む朝鮮民族との対立を原因とした衝突も見られた。


 大陸中原でも、小規模ながら上海、南京、武漢、広州で共産党が先導した無軌道なその場の思いつき的な暴動が発生。一部では破壊工作やテロも発生。列強は、上海での警戒態勢をさらに高めると同時に、金を出すから共産党を叩けと大陸中の軍閥に言い散らした。


 そしてそんな状況の中、午後を回ってすぐに、満州臨時政府から関東軍に対して鉄道附属地以外での治安維持出動の要請が出された。

 これを現地関東軍は、私の予想に反してすぐには動き出さずに、ちゃんと軍中央と政府に連絡した。

 躾(しつけ)のいい関東軍というのも、なんだか不気味だ。

 けれど、迂闊に動きようがないのだろう。



 若槻内閣の日本政府は、17日夜に事態を重く見て緊急閣議を招集。まずは、すべての関係機関に現地情報の収集を命令。

 この日の深夜までに日本政府の元に判明した事は、すでに満州党が各地で武装して大規模に動き始めている事。一部で共産党と戦闘状態にあると言う噂。

 関東軍は、事件現場、鉄道付属地内、鉄道沿線への出動を自衛活動という形で自動的に開始。だから政府に対しては、敵対勢力に対する満鉄沿線全域での軍事活動を求めた。


 求めた点は私の前世の歴史とは大きく違うけど、24時間という期限付き。その期限が、報告から24時間後の午後10時20分になる。確か事件が起きた時間で、こんなところでも小さいながら因果は巡っていた。

 そしてそれを過ぎれば、関東軍は自衛活動として作戦行動を取らざるを得ないという内容だった。脅しでしかないけど、ゼロじゃない程度だけど政府と足並みを揃えさせようという意図はあったらしい。

 単に命令違反、独断専行の結果が怖いだけかもしれないけど、先に動くよりずっとマシだ。


 これに対して、日本政府が集めた満鉄、現地の日本領事・公使からの報告は、事件を概ね肯定していた。奉天には多数の出先機関もあったから、情報は詳細と言えた。

 そして少なくとも、関東軍は直接事件に関わっていないと言う情報を得たと見られている。

 そして事件自体が、大陸での満州党と共産党の争いに、南満州鉄道が巻き込まれた形という事がはっきりしてきた。

 そこでこの日の時点では、軽挙妄動を慎み利権以外には手を出さないようにとの命令が発せられるに止まった。



 そんな中、私は日常を消化する。基本見ているしか出来ないし、何かをするにしても動くべき人が既に動いている。私は政治にも軍事にも直接関われない以上、こうして実際事件が起きると本当に観覧席で踏ん反り返るより他ない。

 だから朝食時に情報だけ仕入れると、緊急事態を除いて日常を消化する。金曜日だから朝から学校に行き、昼食後に戻り、昼からは瑤子ちゃんと習い事をして、そして夕食を取る。

 そして夕食後に、私しか出来ない仕事を片付ける。と言っても、流石に仕事が手につかないので、最新情報に触れる。

 歴史の1ページとして見えれば一瞬で終わる事なのに、こうして当事者になると半日経っても意外に何も進んでいない。



 若槻内閣は、18日朝からも緊急閣議を招集。同時に、中華民国政府との外交交渉を開始する。その他の国に対しては、大使館を通じて状況説明も開始された。

 その後、夕方になっても政府の意見は二つに割れていた。

 陸軍大臣を中心とした一部閣僚は、直ちに満州全土の治安維持回復のために出動すべしとの一点張り。しかし外相の幣原喜重郎は、不拡大を強く求めた。若槻首相自身も渋った。


 だが、現地が自衛活動を勝手に行うと言い切っている事に対して、政府は陸軍を通じてしか止める手段がない。

 若槻内閣としては、張作霖の動きだけが関東軍を止める最後の手段と考えて接触を持ったが、何とか接触できた顧維鈞(こいきん)総理兼外相は、張作霖主席の言葉として共産主義に対する警察活動に関してのみ認めると回答。

 つまり、限定的とは言え行動を是認してしまった。


 一方、中華民国政府から現地の軍閥に対しては、張景恵陸軍司令から自衛行動以外では動かないように、特に共産党と連携していると取られないようにしろという命令が出ていた。

 なお、この時点での満州南部の張作霖軍閥は、せいぜい3万。しかも家族を含めてなので、実数は2万。2年前までは約10万いたけど、1万が中ソ紛争で戦死か離散。6万のうち大半が満州党に合流。残っている3万も、自分たちの本来の縄張りを守るという消極姿勢なので、離反者が相次いでいた。

 満州全土で、モンゴル系も含めると40万とも50万とも言われる軍閥や武装勢力がいる事を考えると、関東軍以下の弱小勢力でしかない。


 そんな状況の中、若槻内閣は午後8時半、タイムリミット2時間前に、満州党の要請を受け入れ、関東軍に対して満州での治安維持活動に許可を出した。



「これでタガが外れたな」


「嬉しそうに言わないでよ」


 鳳の屋敷の居間で、お父様な祖父にジト目を送る。

 部屋には、私の執事のセバスチャンと家令でお父様な祖父の執事にもなった芳賀が席についている。

 貪狼司令は、鳳ビルで仕事というか情報取集中。お兄様な龍也叔父様も陸軍省で大忙し。

 私のメイドはシズとトリアが控えている。ただし側近候補はいない。お芳ちゃんも、リズを護衛に連れて鳳ビルだ。


「陸軍は、口では文句言う奴もいるが、内心喜んでいる奴ばかりだと思うがな」


「もう、どこかの師団と朝鮮軍が動く準備に入っているんだっけ?」


「朝鮮軍は、もともと関東軍と共謀しているからな。すぐに1個師団が動き出す。他は、関東軍駐留が仙台の第2師団。すぐ出動可能なのは、金沢第9師団、姫路第10師団、それに久留米第12師団辺りだな。それで参謀本部は、まずは第10師団を動かすつもりだ」


「海軍は?」


 4個師団も動いたら幾らかかるんだろうと頭の片隅で試算しつつ、さらなる出費先が気になってしまう。


「念のため航空隊の準備をしているが、連中が気にしているのは上海だ。特別陸戦隊をさらにかき集めているし、航空母艦を含む大規模な艦隊の出動態勢にも動いている。あと、東シナ海と日本海に、牽制用の戦艦を配置する積りらしい」


 流石は元少将閣下、軍隊の事だと言葉がスラスラと出てくる。

 私も知識では知っているけど、軍事に関わりたくないという気持ちがあるせいか、こうはいかない。


「上海にあれ以上陸戦隊を積み上げるの?」


「列強の目が気になるから、上海での抑止効果の向上は重要だぞ」


「イギリスは、満州なんてどうでもいいものね」


「そういう事だ。ただ、アメリカの動きは少し気になるな」


 そこで腕組みして考え込むそぶりを取る。

 それを見て、アメリカと聞いて思い当たるキーワードが頭に浮かぶ。


「門戸開放の要求?」


「その辺りだな。だが文句言ってくるのは、日本がもっと満州で動いた後だろう。今は何が起きたのかすら気づいてない。そんなとこだろ、女王陛下」


 言葉の最後に、私の後ろの壁際にいるトリアへと顔ごと向ける。

 私も視線だけ向けると、トリアは恭しく頭を下げるだけだった。それを見つつ話題と次へと進める。


「政府の方は?」


「若槻総理は、すでに加藤さんが攻略済みだ。今渋っているのは、そう見せているだけだ。向こうからの要請があるなら、応えても良いって。ただ幣原外相が、中華民国政府の正式な言葉がないとダメの一点張りで折れない。協調外交と内政不干渉が、あの人の基本だからな。政治生命に関わる」


「まあ、予想どおりね。満州臨時政府の動きは?」


 次に、さっきまで鳳商事と鳳総研にいた時田へと視線を向ける。お父様な祖父も視線だけ私と同調していた。


「はい。満州臨時政府は、関東軍と協力しつつ麾下の軍事組織の総力を挙げ、治安維持活動の名目で急速に動きを拡大しております」


「張作霖の軍閥に行動停止命令が出ているようなものだから、広がる一方か」


「左様です。今の所、関東軍の手も必要ないくらいですな」


「ハハハッ。板垣も石原もびっくりしているだろうな」


 かなり楽しそうな声。本当に、こう言う事が大好きなのがよく分かる瞬間だ。

 ただ私としては、ため息が漏れそうになる。何しろ、一つ種明かしがバレたからだ。


「だから、嬉しそうにしないで。これで、満州党が関東軍の予想より大きな組織と軍事力を持っているって、完全に露呈したのよ」


「良いじゃないか。今頃気づいたのなら、もう遅い。それに内蒙古でも旅団規模の騎兵が既に動いている。あっ、そうそう馬といえば、北満にいる馬占山と話がついたぞ」


「馬賊の人?」


「そうだ。蒙古人じゃないが、馬は得意だ。日露戦争からの付き合いだから、俺、というか鳳が溥儀に賭けたんなら付き合ってくれるとよ。奴は、張作霖の軍閥とは、上手くいってないからな。これで黒竜江省は落ちたも同然だ」


 馬占山は満州北部の馬賊。お父様な祖父の言葉通り、お父様とは日露戦争からの付き合いがあると聞いている。

 私としては彼の縄張りの足元に大油田があるので、お父様な祖父に力を入れてもらっていた人だ。


「何を代償に?」


「まあ、色々だ。こないだ川島に渡した金と武器の一部も、馬に流れている。だがこれで、満州北部は落ちたも同然だ。満州の蒙古人の地域も、最大で5000の騎兵が投入できる。満州党と合わせれば、関東軍を圧倒できるぞ」


「数だけでしょ」


 楽しげに言うから水を差したのに、あまり効いていない。

 実情、中身については、分かってて言っているからだ。


「数は力だ。それに地の利があるし、政治的にも神輿も担いでいる。だいたい、無視されたらお前も困るんだろ」


「困るのは、これからの日本全体よ。陸軍の頭がお花畑な人たちは、そうは考えてないでしょうけど」


「相変わらず耳の痛い事を言うな。軍人なんてもんは、軍事の専門家ではあっても、それ以外は素人なんだからな」


 耳が痛いとか言いつつ、全然そんな表情や態度じゃない。半ば煽られているようなものだけど、やっぱりさらに言いたくもなる。


「頭は良いんだから、自分達の行いがどうなるかくらい最低限は知っておいて欲しいわ」


「その知った結果が、今回の事変だろ」


「いやいや、全然知ってないでしょ。駄々をこねても駒を用意してもらえないなら、自分達で勝手に駒を増やそうって発想なだけでしょ、これ。馬鹿じゃないの? いや、馬鹿以下よ!」


 そしてキレた。いや、キレさせてくれている。私とお父様な祖父の間でよくあるコミュニケーションだ。

 私がマジギレしても受け止めてくれるのは、お父様な祖父くらいしかいないと、お互いに分かっているからこうして言い合えもする。

 そしてキレて沸点を経過すると、頭も冷えてくるし気分も落ち着いてくる。

 お父様な祖父は、そんな私を見つつ語調を微妙に変えてくる。


「そう馬鹿馬鹿言ってやるな。というか、ついこないだまで俺もその馬鹿の仲間だったし、龍也なんかその馬鹿の真っ只中でこき使われているんだぞ」


「じゃあ専門馬鹿。これなら文句ないでしょ。けど、鳳の者は別よ」


「そうなのか?」


「私の愚痴をちゃんと聞いてくれるんだから」


「まあ、親だから愚痴くらい聞くよ。それで、多少は気が済んだか?」


 その言葉が息抜き終了のサインとなった。私も語調と態度を完全に変える。


「済んでないけど、愚痴っても仕方ないわよね。それで、話戻すけど、結局は次の一手がどうなるかよね」


 「はい」今まで黙っていた時田が、ようやく口を開く。芳賀は家の中の事以外で口を開く事はないから、気分転換の為の言葉を言ってくれるのは時田しかいない。


「丸一日後に満州臨時政府から出される、日本政府への自治獲得の為の支援要請を若槻内閣がどうするかですな」


「まあ、細工は流々仕上げを御覧じろ、だ。果報は寝て待ってろ」


 そう言ってドヤ顔を決めるお父様な祖父が、少し危うく見えた。

 多分だけど、石原莞爾とか日本陸軍の軍人と重なって見えたからだろう。

 何しろお父様な祖父も、自分で言った通りその同類なのだ。



__________________


顧 維鈞 (こ いきん):

中華民国というより、張作霖軍閥の外交のエキスパート。

満州事変当時は張学良のブレーンのひとり。

満州事変で、最初に国連への提訴を国民党政府に提言した。



馬 占山 (ば せんざん):

満州事変では最後まで抵抗した。チチハル、ハルビンあたりが地盤。

日中戦争では、中華民国側というかほぼ共産党について、日本軍に対してゲリラ戦を展開。

戦上手で、日本軍からは東洋のナポレオンとも呼ばれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る