174 「謎のトラクター」
その年の秋、濱口雄幸首相は狙撃されなかった。暗殺未遂もなかった。私の前世の歴史と同じ事件は起きなかった。
一方では、貿易関係の企業の要望が強すぎて、まだ金本位制の停止に踏み切れていない。声の強さから考えると、政友会内閣が続いていても無理だっただろう。かなり痛い思いをしないと、止められそうにない。
日本以外の他の国も、良い感じにのたうち回っている。金を吸い上げているアメリカですら例外じゃないという惨状だ。
そのうえ日本では空前の大豊作が起きたし、豊作飢饉も到来した。
それを少しでも緩和したのかについては、前世の歴史で詳しくは知らなくても、違うことをしているのだから多少はマシになっていると思いたいところだ。
そして私の願望を補強してくれるように、日本各地では政府が行った公共事業が各所で派手めに行われつつあった。困窮農家の救済を目的としたものが中心で、私が献金した黄金を元手にした国債によって行われたものがかなりを占めていた。
鳳グループでも、各地での工場用地、宅地の造成、さらには神戸などでの埋め立て工事などを派手に行っていた。
その為に5000万ドルもかけた、大量のアメリカ製各種重機、トラクター、ダンプ、トラックを輸入して、グループ内で使用したり、格安価格でレンタルして工事を大いに促進させた。
現場でのブルドーザー、ショベルカーなどの威力は絶大だ。
また、日本中での工事需要に応えて、小松製作所では大量の重機が生産され、鳳自動車ではトラックが量産された。
さらに神戸製鋼所でも、独自にショベルカーの開発と生産が行われてたので、そこにも金と技術を足して量産体制を強化している。
そして造成・舗装されたばかりの道を、トラックが走る様になっていった。
これだけだとまるで好景気だけど、要するに前世の世界の歴史上で、アメリカが行ったニューディール政策をごく小規模に行っている様なものだ。
けど一方では、1930年の時点でのアメリカでの大口の買い物に、買い付けた会社は勿論、系列や友好関係を結んでいる会社などから盛大に感謝された。大量買い付けの契約時には、盛大なパーティーを開いてくれたそうだ。
1929年の秋までなら考えられない光景だ。
しかも鳳は、そのすぐ後にさらにほぼ同じ量を買い付けたので、もう下にも置かない勢いらしい。
重機やトラックの買い付けは終わったけど、その次に何が待っているのかをアメリカの王様達はよく知っているからだ。
追加発注では中古でもいいからすぐに欲しいと言ったら、アメリカ国内でダブついていた新古品とはいえ、中古の値段で新品を売ってくれたほどだ。
こちらもその心意気に応えて、浮いた分に少し上乗せして追加で発注させてもらった。
なんでも、アメリカ重機大手、つまり世界一の重機企業の主力工場敷地の一角には、鳳が沢山お買い物した記念碑までが建てられたそうだ。21世紀まで残っていたら、ちょっと苦笑の一つもしてしまいそうだ。
そして、そうしてアメリカから太平洋を押し渡ってきた履帯付きの車両群の中に、妙なものが紛れ込んでいた。
「ねえ虎三郎、これ何?」
「説明は見たのか?」
「説明書がないの。トラクターってだけ」
「どこの会社だ?」
「クリスティーってだけ。送ってくれたのはハーストさん。新聞王の」
「新聞王は知らんし、クリスティーって会社も聞いたことないな。現地の商社はなんと?」
「ハーストさんが直接送ってくれたの。私へのサービスだって」
「サービスねぇ」
横浜の港の鳳の倉庫で、私は首を傾げていた。
隣にいるのは、大叔父さんで鳳の機械メーカーの総元締めをしている虎三郎。博士号持ちの現場の人だから、こういう時に頼りになる人なのだけれど、その虎三郎ですら私達の目の前にある奇妙なトラクターについては知らなかった。
なお、送り主のハーストさん、新聞王ウィリアム・ハーストは、私との間に年間100万ドルずつの契約で、アメリカでの日本の知名度向上の促進と、反共産主義の啓蒙活動をする契約を交わしている。
正式契約したのは1929年の10月になるけど、彼が保有する新聞社と映画の広告で、共産主義がどれほど危険かについては、それなりに熱心に宣伝しているという報告が鳳のニューヨーク支店からも届いていた。
日本の宣伝については、宣伝用の媒体などもかなり送りつけたけど、かけたお金に反して全然らしい。
そもそも宣伝する側の、日本の知識が少なすぎたり間違っているので、まずはそこから教育なり宣伝をしないとダメだというのが当面の結論だった。
アメリカ人は、マジでアメリカ以外の事を知らなさ過ぎる。ニンジャ映画でも作らせるべきかもしれない。
一方で共産主義が危険だという宣伝は、特に世界恐慌以後は熱心度合いが大きく増した。
どうやらハーストさんもしくは彼の会社は、株であぶく銭をかなり溶かしてしまったらしく、少しでもお金が、現金が欲しいらしい。
だから私へのアピールも兼ねて、彼個人の財布からもお金を出して、せっせと成果の上げやすい反共産主義宣伝に精を出しているという現状に繋がっている。
そしてその「俺様ちょー頑張ってる」の成果の一つが、目の前の鉄の塊だ。
「ハーストさんとやらから、手紙か伝言とかはないのか?」
「手紙は添えられてたわ。何でも、赤いロシア人がこのトラクターに目を付けて動き始めていたから、開発者に色々アカの事を吹き込んだ上で先に買い付けたんだって。
その上で、共産主義者がさらに困る事をしてやろうって事で、色々と手を回してこの2台のトラクターを赤いロシア人の手の届かない日本に輸出。私達の目の前にあるって事らしいわ」
「……なあ、調べてみないと断言はできんが、ロシア人が欲しがるって事は、こいつは戦車なんじゃないか?」
「えっ、マジで? けど、大砲も鉄砲も、えーっと砲塔ってやつも付いてないわよ」
「だが、天井に大きな丸い穴がある。運転席は前にあるが、出入り口にしては不自然だ」
そう言って、虎三郎は見るだけを止めて、実際に手に触れたり中を覗き込んだりし始める。
そして数分間、ガチャガチャ、カンカン、パンパン、と音だけが倉庫に響く。
「やっぱりこいつは戦車だ。最低でも装甲車で間違いない」
専門家の判定が出た。
「戦車? それじゃあ、輸出できるようにわざと大砲載せてないとか?」
「まあ、そんな所だろうな。あと、こいつの肝は足回りだな。えらく独特だ。エンジンの方は、馬力のでかいガソリンエンジンってだけだが、本当に足回りが面白い」
確かに面白そうな表情の虎三郎が、車体の向こう側から顔を出す。
「どう面白いの? って私が聞いても、多分わかんないんだけど」
「だろうな。そうだなあ、突き詰めて簡単に言えば、こいつは履帯なしでも普通に走るぞ」
そう言って、今度は履帯をパンパンと叩く。
「それに何の意味があるの?」
「履帯が切れても走る。普通の履帯付きの車両との一番の違いだ。それに履帯なしなら、舗装道路を傷めずに走る事が出来る。しかも履帯なしの方がかなり速い筈だ。ついでに言えば、履帯無しなら並みの自動車より多分速いぞ。何とエンジンが、航空機用のエンジンを転用したやつだ。馬力が違う」
「何だか贅沢そうな車両ね。虎三郎か小松さんのところで複製できそう?」
「そうだなあ、うちで出来るかどうか以前に、日本中探しても、こいつのサスペンションの求める耐久性の数字を出せる部品を量産するのは、かなり難しいんじゃないか?」
「何がどう?」
「冶金(やきん)って分かるか? 鉱石や材料から金属の材料や合金を作る技術だ。とにかく、必要な強度や耐久性とかを持った金属製の部品を量産するだけの技術が、日本にはまだまだ足りないんだ」
「虎三郎のところでも? アメリカから工作機械買っても?」
「冶金ってのは、工作機械だけで簡単にどうにかなるもんじゃない。長年の技術と知識の蓄積が必要だ。近代化の遅れた日本は、そうしたものの蓄積がどうしても浅いんだよ。うちでも、工作機械自作で苦労し続けている」
「そうなんだ。じゃあ、宝の持ち腐れね。とりあえず1台ずつ、小松と虎三郎のところに持って行って、技術の調査や解析をしておいて。それにこのままじゃあ、軍用としてライセンス生産も出来ないのよ。何しろ、名目上は農業用トラクターだから」
「こんなもん農業で使えるものか。しかし、偽って大丈夫なのか?」
「問題ないんじゃない。新聞王が、そこまで間抜けじゃないでしょう。仮に万が一があったとしても、やったのはハーストさんよ。その辺の証拠は集められるだけ集めさせておくから、文句言われても何とでもなる筈。
それにハーストさんとしては、日本がこれを複製するよりも、共産主義者への嫌がらせ以上じゃないと思うし」
「そうかよ。まあ、技術を習得して独自開発できるように努力はしてみる。それに、単純に技術としては面白そうだ。バラし甲斐もあるだろ」
趣味丸出しで楽しそうな虎三郎はともかく、その側の鉄の塊を私は見る。ソ連が欲しがったと言うだけに、確かに前世の歴史映像で見覚えがある面影を感じる事はできる。
ドイツとソ連との戦争の記録映像で、何度も見かけた戦車の面影と重なる。日本とソ連の戦闘の記録映像にも同じような奴が写っていたのも、ぼんやりと思い出せた。
そしてその大元になったやつの一つが、私の目の前にある。もしそうなら、ソ連はこの戦車を基にした戦車の開発は、遅れるのかもしれない。
(まあ、ソ連の優秀な戦車の登場が少しでも遅れると思えば、100万ドルも価値があったって事ね。ハーストさんに、代金とお礼の手紙出しとこうっと)
この時の私にとって、目の前の鉄の塊はその程度のものでしかなかった。
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クリスティー式戦車:
アメリカの発明家、ジョン・W・クリスティーが発明。
戦車など履帯を使う車両としては、独特の構造を持つ。
史実では、ソ連の「BT」戦車シリーズや「Tー34」戦車など、イギリスの巡航戦車シリーズがこの足回りを使った事で有名。
史実でも、1931年にソ連が2台購入している。
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