142 「29年後半の近況報告(1)」

「で、移動した先が、なんでこんな狭くて暗い部屋?」


 悪役の秘密会議らしく、上階のスイートにでも移動するのかと思ったら、そのまま地下3階の一応は完成された一室に案内された。

 コンクリートむき出しの換気口だけがある殺風景な部屋。一応椅子とテーブルはあるけど、部屋の広さは四畳半くらい。四人が入ると手狭に感じるくらいで、地下という事も合わせて圧迫感がある。

 こんな狭さは、渡米の際の飛行船以来だ。


「失礼を。他は未完成か散らかっておりまして。ですが、防諜面ではここより優れた部屋は御座いません」


「まあ、理由があるなら良いわ。あ、シズ、ありがとう」


「この程度しかご用意できず、心苦しく思います」


「良いのよ。この部屋にはお似合いよ」


 シズが途中で何とか仕入れてきたのは、工事関係者の休憩所にあったお茶一式。茶菓子はなし。シズは隣の鳳ホテルで調達しようとしたけど、時田に止められて断念していた。



「では早速話を。と、その前に」


 そう言って、部屋にあった移動式の黒板に「カッカッカッ」と小気味良い音を響かせつつ、文字を書いていく。

 21世紀ならホワイトボードか、それとも電子黒板を使うところだけど、昭和に入ったばかりだとこれが普通だ。

 そして一通り書き終わったところで、貪狼司令がこっちに向きなおる。

 黒板にはこう書いてある。



・国際情勢

 ・アメリカ株安

 ・ロンドン海軍軍縮会議

・大陸情勢

 ・中ソ紛争

・国内情勢

 ・陸軍内の動向



「ま、順にこんなところですかな。大きくはご存知という前提で話を進めさせて頂きますが、ご異存は?」


 私も時田も首を軽く横に振る。それに貪狼司令が頷き返す。


「国際情勢ですが、アメリカの件はお二人の方が肌で実感されているので、こちらがむしろ後でお聞きしたいくらいだ」


「それは構わないけど、他への影響は?」


「極端なものはまだ。ただし、アメリカ中の企業や投資家が、世界中から物凄い勢いでドルを吸い上げております。馬鹿な連中だ」


 最後にボソリと、それでいて強く呟く。

 多分だけど、こういうところがこの人が軍に長居しなかった理由のような気がする。


「一言多い。けど、何人かにはちゃんと忠告したのよ」


「お嬢様のお言葉を聞かないとは、馬鹿ではなく愚か者ですな」


「誰にも縋(すが)りたいものがあるって事よ。それで」


「はい。うちはお嬢様のお言葉に従い、最大級の警戒を以って当たっておりますが、既に金を毟り取られたところ以外は楽観しております。「またすぐに元に戻る」と」


「300億ドルが一瞬で消えたのにそう思えるって、よほど良い夢を見ているのね」


「もしくは、夢だと思いたいと言ったところかもしれません」


「確かに、夢だったらとは思うわね」


(それに私の前世の歴史と違って、高橋さんが蔵相を長くしてくれていて助かったわ。史実通りだったら、今頃日本は金解禁してるのよね。おー、怖っ)


 そんな事を思っていると、「カッカッ」という音で現実に引き戻される。言わないといけない事があるからだ。


「それでね、アメリカ政府の方に聞き耳立てといて」


「それは勿論ですが」


「半年くらいしたら、とんでもない関税障壁をぶっ建てる可能性が高いの」


「不景気になるから道理ですな。詳細は何か分かりますかな?」


 時田の声が少し緊張感を含んでいる。気にしているんだろう。ただ、私は詳細については前世であまり情報に触れていない。


「詳しい事は。けど、それで世界中の不景気は酷くなるのよ。せめて緩和くらいしたいんだけど、手もないしね」


「そうですな。アメリカの方々も、むしろ望まれる事でしょうからな」


「それで、日本はそれにどう対抗したとか、分かりますか?」


「円の大幅切り下げ」


「それはそれで諸外国の反発を受けるでしょうなあ」


「世界中、どこもかしこも背に腹はかえられなくなるのよ。けどまあ、今は情報収集だけにして。あと、うちで輸出するものがあるなら、早めにさせておいて」


 「畏まりました」そういって軽く一礼すると、「では次に」と話が進む。

 そう、今は対策を考えるのではなく、話を聞く場だった。


「「ロンドン海軍軍縮会議」か。私達、代表団と入れ違いなのよね」


「そうなりますが、関わる気は無かったので?」


「鳳は石油の件以外で海軍とあんまり縁がないし、私、軍隊の事あんまり知らないから」


 その言葉に貪狼司令が小さく頷き返す。

 横では時田が軽く肩を竦めている。鳳自体が海軍とあまり仲良くないのは、陸軍に当主とエリートの高級将校がいるからでもある。

 向こうから来ない限り、余程の事がないと海軍とは関わらないのは、鳳の不文律に近い。


 で、その後続いた「ロンドン海軍軍縮会議」の説明だけど、私の前世の歴史とは日本側が大きく違っていた。

 何しろ、政友会の田中義一内閣が続いている。

 放漫財政とも言われる政友会内閣で、よく軍縮会議に参加したと思ったけど、その前のポシャったジュネーブ海軍軍縮会議は、私の前世でも田中内閣の時代だったから参加するのが普通なんだろう。

 それにこの世界は、張作霖爆殺事件もないし、世情も少し安定している。


 そして政友会が政権を握っているから、私の前世の若槻礼次郎じゃなくて、原敬元首相が主席全権だ。また他に、天才外交官の呼び声も高い斎藤博外務省情報局長を政府代表としていた。政治家じゃない斎藤博は、多分だけど私の前世と同じメンバーだったと思う。他、海軍のメンツも同じだ。あの山本五十六と多聞丸も随員として参加している。


 しかし主席全権が、あの原敬だ。国内にいるうちから方々を精力的に回って、根回しを進めていた。その足は海軍にまで直接及び、東郷元帥にまで色々と手回ししたらしい。

 ただし、交渉自体は1月21日に始まって今が2月半ばなので、まだまだ交渉中だ。交渉がまとまるのは4月で、「統帥権干犯問題」が起きるとしたらそこからだから、今どうこう言っても仕方ないだろう。


 取り敢えずだけど、原敬元首相が万全の体制で国内との連絡と調整も務めているので、日本国内も海軍の艦隊拡大派以外はロンドンでの動きを支持している。

 海軍の艦隊拡大派と野党の動きは気になるけど、私の前世と与党と野党がひっくり返っているので、私にも先が今少し分からない。

 だから話を聞くだけで流すしか無かった。



「では次に大陸情勢ですが、夏までの動きの説明は無用ですな?」


 そう言って、貪狼司令も気にする事なく次の話に移る。

 そして大陸情勢だが、この頃の事は私はそれほど詳しくないが、全然違っている事だけはよく分かる。


 何しろ、張作霖が中華民国のトップだ。そして張作霖が欧米の支援をあてにして、ソ連に喧嘩を吹っかけた。

 これに対してソ連は、28年中は国内問題で身動き取れなかったけど、ロシア人がキレないわけがない。しかも相手は、独裁者スターリンだ。

 当然だが、29年夏にちょっと本気になったソ連軍相手に、張作霖軍はぼろ負け。しかも、私の前世の世界では長生きした筈の張学良が戦死して、張作霖は一時的に怒るも意気消沈。

 10月には、紛争はソ連の一方的勝利で収束。中華民国とソ連との間で11月にハバロフスク議定書を交わす。けれどもチャイナ世界が欧米の外交ルールをまともに守る筈もなく、グダグダに陥りつつある。


 一方上海では、蒋介石がようやく体制を整えつつあった。けれども私の前世と違って、勢力はまだまだ小さなものでしかない。

 また、今まで張作霖の圧倒的優位だった状況が崩れたので、蒋介石以外の軍閥も不安定な動きになっている。1920年代半ばの情勢に戻るのも、時間の問題かもしれないと言う予測が出ているくらいだ。

 けど、一番意外なのは北方での動きだった。



「えっ? 愛新覺羅(あいしんかくら)顯㺭(けんし)?」


「はい。日本名川島芳子。関東軍を中心とした我が国は、満州南部の安定化の為に、彼女と彼女につながる満州王族、貴族連中に軸足を移しつつあります」


(出ました、超ネームドな愛新覺羅顯㺭(川島芳子)。男装の麗人のおてんば姫。このタイミングで出てくるって事は、歴史が私の知っているのとは違っているんだろうなあ)


「お話を続けても?」


「え、ああ、どうぞ。また大物が出て来たわね」


「はい。それにしてもよくご存知で」


「そりゃあ、女同士ですから」


 「なるほど」と言葉で納得したけど、それ以後は感情を出す事なく貪狼司令の説明が再開される。

 私が知っているのが意外なのは、川島芳子さんが日本でアイドル的な話題になったのが関東大震災の少し後くらいで、私がまだ幼女すぎる頃だからだろう。 

 それはともかく、張作霖とその軍閥の勢力減退で満州の治安が悪化したので、日本にとっての満州の番犬を作るべく、清朝最後の皇帝溥儀の利用を本格化。その日本と満州の橋渡し役となったのが、川島芳子だ。

 この時点で、私の前世とはかなり違っている筈だ。


(まあ、張作霖が政権握ってて爆殺事件もないから当然か。けど、この辺りって、私あんまり詳しくないのよね)


 分からないので話を聞くしかないけど、日本側は川島芳子とその旦那の勢力というか軍閥を支援して、満州南部と内蒙古東部の切り取りを実質的に始めたのだと言う。

 内蒙古も含めるのは、関東軍、日本陸軍の一派にとってはセットメニューみたいなものだからだけど、その旦那がモンゴルの部族の族長の一人だからだそうだ。

 だからそこに資金と武器を援助。あっという間に、内蒙古最強の武装集団が誕生しつつあるらしい。何しろモンゴルといえば騎兵。古臭い騎兵を、小銃などちょっとした近代装備で武装すれば、簡単に近代的な騎兵の誕生だ。

 この時代の蒙古兵は武装が前の世代のままだから、馬賊同士の争いならまず負けないだろう。



 ただ一筋縄ではいかない相手だ。とにかく金を求める。賄賂が全てを決める世界だ。川島芳子自身が、賄賂をくれと言ってくる状態。それも部下を統制するためにばら蒔くためだけど、大陸の常識として金の切れ目が縁の切れ目。賄賂をとって当たり前、取らない奴は逆に信用できない。そんな世界だ。

 実際の戦闘では逃げ散る場合が殆どのくせに、金だけは求めてくる。しかも際限なく。


 だから、工作をしている関東軍を中心とした日本側も埒が明かない事は最初から分かっていたので、軍閥ではなく政党を作らせ、陸軍から軍事顧問を派遣して近代的な兵士としての訓練を開始している。

 ただし、活動が始まったばかりで全部これからって感じだ。


(アレ? もしかして石原さんが、私の言葉を少しは実行している? けど、石原莞爾ってアジア主義の人だから、これが普通? けど、日本の意のままに動いてくれる現地勢力を作るのは悪い手じゃないわよね。『満州事変』を起こしても、多少の言い訳にはなるだろうし)


 そう考えが及び、私の前世とは動きが違っていると感じた。

 この世界の過激な軍人さん達は、『張作霖爆殺』と言う独断専行がまだ行われていないから、大義名分を作って満州を分捕ろうとしていると分かったからだ。


________________


金解禁:

史実では1930年1月11日に、濱口内閣が金輸出解禁実施。「昭和恐慌」へと続く。



昭和恐慌:

世界恐慌の影響が日本にも押し寄せ、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。

高橋是清蔵相による積極財政政策により息を吹き返すまで続く。



ジュネーブ海軍軍縮会議:

1927年7月から8月に開催。

英米の巡洋艦比率をめぐる対立からお流れ。



ロンドン海軍軍縮会議:

アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五か国が、1930年(昭和5)1月21日〜4月22日、ロンドンで開催した海軍軍備制限のための会議。

当時の日本は、立憲民政党の浜口雄幸内閣。

全権は若槻禮次郎元総理。

詰めの甘さと野党の難癖から「統帥権干犯問題」が起きる。



斎藤博 (外務省情報局長):

親英米派の、すごく優秀な外交官。アメリカ政府からも信頼されていた。

また、日本のトップ集団との姻戚関係がかなり濃厚。

1939年に肺結核で亡くなられているので、この世界だと普通に長生きしている可能性が十分にある。



多聞丸:

山口多聞。太平洋戦争にて活躍。ミッドウェー海戦で戦死。



愛新覺羅顯㺭 (あいしんかくら けんし):

日本名・川島芳子 (かわしま よしこ)

清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。

満州族、日本の間で暗躍したり、男装したりと、色々話題には事欠かない。

「東洋のマタハリ」や「満洲のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる事もある。

男装の麗人として、一時期日本の女子達のアイドルになる。



川島芳子の旦那:

カンジュルジャブ。モンゴル東部の馬賊(豪族)。

モンゴル族出身の満州国軍の軍人。張作霖とは敵対関係。

一時期、川島芳子と結婚していたことがある。

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