115 「豪華客船(2)」
「どこの植民地からおいでなのかしら?」
上品そうなご婦人が、上品に私達を罵倒する。
私の衣装を日本の着物と理解できない、教養の足りていない人だ。そしてその連れの旦那さんも、似たようなものだった。
「これ、失礼な事を言うものではない。妻が失礼を。どちらのご出身で? イタリアかバルカンのどちらかでしょうか?」
紅龍先生を南欧系の人と思ったらしい。確かにそう見えなくはない。
なお二人とも、話しているのはおフランスな言葉だ。帝国主義華やかなりし時代なくらいまでは、欧州上流階級の半ば標準語としてヨーロッパで最も美しい言語としてフランス語が重宝されていた。そしてこちらの上質の絹を纏った身なりから、話せて当然、理解できなければ馬鹿にして良い相手と思って話しかけてきたのだろう。
そうすると紅龍先生は立ち上がり、その旦那を少し見下げる形で英語でもフランス語でも日本語でもない言葉を話し始める。
「失礼、どこの植民都市のご出身だろうか? お言葉から察するにガリアの方とお見受けするが、ルテティア辺りだろうか?」
ラテン語だ。私はフランス語は教え込まれていたけど、ラテン語はキリスト教関連の言葉で僅かに分かる程度で殆ど理解できない。あとは、ファンタジックな言葉の幾つかも、前世の記憶にインプットはされている。けど、話すのは全然無理だ。それを紅龍先生は、スラスラとまるでタイムスリップしてきたローマ人のように話す。
それに対して相手側は怪訝な表情を浮かべる。理解できていない証拠だ。
「え? どこの言葉かしら? せめて英語を話してくださらない。あいにく、植民地の言葉は存じておりませんの」
「(ば、馬鹿者!た、多分ラテン語だ) し、失礼、当方は勉強不足でして、ラテン語はあまり分かりません。察するに、宗教関係か学者の方でしょうか?」
旦那の方は無知ではなかった。小声で夫人をたしなめてから、取り繕うように聞いてくる。そしてこの時代にラテン語が流暢に話せるとなると、宗教関係か学者しかいないと見たのだろう。
それを聞いた紅龍先生が、ニコリと言うよりニヤリと大きめの笑みを浮かべ、再び口を開く。今度は流暢なフランス語だ。
「医者をしております。フランス語はお聞かせできる程得意ではなく、思わずラテン語が出てしまいました。本当はドイツ語か英語の方が助かるのですが、旦那さんもよくラテン語と分かられましたね」
「え、ええ、中等学校時代に習いましたが、覚えていないものでお恥ずかしい。それでドクターは、どちらのご出身ですかな?」
「あなた方がご存じない東洋の果て、ジャポンより参りました。こちらの方は伯爵家のご令嬢であり、アメリカの中央では知らぬ者などいない投資家の家系でいらっしゃいます。珍しい衣装に興味を持たれるのは良い事だとは思いますが、もう少し知識と見識をお磨きになる事をお勧めします」
「ま、全く以って恥ずかしい限りです。重ねて申し訳ない」
「いえ。それともう一つ、ブリテンの諺(ことわざ)に『好奇心は猫を殺す』とあります。もう少しでこちらの護衛が、伯爵令嬢に危害を加える者として、お二人にしかるべき措置を取るところでした。お気をつけあれ」
「ご、ご助言感謝いたします。そ、それでは失礼します。い、行くぞ」
「紅龍先生すごーい。あれラテン語よね。なんて言ったの?」
逃げて行く二人を見つつ、本気で感心している私がいた。
けど、私の言葉に紅龍先生は少し不満げだ。
「……ラテン語と分かる9歳児も大概だな。まあ、こうだ」
そう言ってさっきの言葉を聞かせてくれた。どこの植民地だと問われたので、同じ事をローマ帝国人の視点で問い返したという返しだ。そして相手は、何を言われたのか殆ど理解できていないというオチになる。
馬鹿にしたつもりが馬鹿にされたとは、あのご夫婦も可哀想な事だ。私は、口を押さえて笑ってしまう。
「ぷっっっ! お、お腹痛い。そ、そこまでの返しをする事もないでしょう」
「売られた喧嘩だ。せっかく高値で買ってやったのに、買い甲斐のない連中だ、まったく」
そう言って「フンっ」と鼻で笑う。
紅龍先生、理系の天才だと思っていたけど、語学も天才的だったとはさらに驚き。後で聞いたら、欧州の昔の医学関連の文献を原文で読むために覚えたのだという。研究バカも極まれり、だ。
クールなシズも強く驚いている。
「私、フランス語は教育を受けましたが、ラテン語は全く分かりませんでした。自らの不勉強を恥じるばかりです」
「いや、私もラテン語は全然だし、ラテン語まではやりすぎよ」
「そう言って頂け恐縮ですが、お嬢様が足りていないのなら、尚の事今後精進させて頂きます」
「いやいや、適材適所。来年になったら私の側近に天才児が一人付くから、その子に任せていいから。シズは側近全員の統制に力を入れてね。私の筆頭メイドなんだから」
「……はい。畏まりました」
私の説得に納得したのか、恭しく頭を下げる。せっかくのフォーマルドレスが役に立ってない。
その横ではワンさんは、泰然自若といった風で特に驚いていない。
理解できているんだろうかと、自然興味が向く。
「ワンさんも語学は達者なの?」
「そうですなあ、蒙古語、満州語、北京語、日本語、それに英語程度ですかな。先ほどのラテン語はおろかフランス語すらさっぱり。ですが、こう言う時は見かけを取り繕っておけば、どうにかなるものです」
「金言ね。てか、色々話せるじゃない」
「はい。あと、口喧嘩だけで良いなら、ロシア語も少々」
そう言って破顔する。
フィジカルモンスターだけど、見た目とは裏腹に相当のインテリだ。
なんだろう。私の周りは、こんなバケモノばかりなんだろうか。それとも、世界を引っ張って行く人の周りには、そう言う人しかいないんだろうか。
前世が凡人な私としては、ちょっと勘弁して欲しいと本気で思う。いや、思い知らされる。
そんな事は日本でも、今回のアメリカ旅行でも嫌と言うほど思い知らされてばっかりだ。
歴史チートと言える前世の記憶があり、悪役令嬢の優秀すぎる体があったところで、それはある意味手段や道具でしかないと思い知らされる。
人の意思、機転、行動力、本当の意味での知性、積み上げてきた人生経験、そう言ったものがなければ役立てる事すら出来ない。その事は、この体の主が当人談ではあるが2回も証明している。
私は、この体での6年に加えてアラフォーの分が足し増せるけど、凡人としての40年弱の人生など大して役には立たない。最初の頃に思ったけど、本当にポンコツな記憶媒体程度の価値しかないのだと、こうした時々に思い知らされる。
けど私は、それを糧としてさらに歩みを進めないといけない。すでに色々と変化させてきたのだから、途中で止める事なんて出来るはずがない。
それに止まったり逃げたところで、待っているのはロクでもない未来だ。それでも、たまには休んでも良いんじゃないかと、弱気にはさせられる。
飛行船もそうだったけど、この船の数日間はその貴重な休んでも良い時間かと思っていたけど、こうして不意に世界が私に現実を突きつけてくる。
「はあ、一人で寝ている時だけしか、劣等感から逃れられないのかなあ。ああ、たまには全部忘れて現実逃避したいなぁ」
ベッドに横になっても、漏れるのは愚痴ばかりだ。
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ラテン語:
古代ローマ帝国の公用語。
14世紀のペストの猛威が来るまで、欧州世界では教会や知識人の共通語に近い役割を持っていた。
第二次世界大戦前の欧州では中等教育で教えている場合も多いが、日本での古文や古典程度の扱いで、生きた言語として使われるわけではなく教養として教わる。
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