112 「悲劇の火曜日」
結局その日は、ウォール街になるべく近い場所の安全が確保できるホテルに滞在した。
けど、その日にはまだ続きがある。
さすがはアメリカ人、いざと言う時の行動が早い。市場を出る前にお呼びがかかった。だから、時田とセバスチャンを伴い、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが集まる会議に出席する事になった。
招待された席は特等席レベルで用意されていたけど、最初はかなりの人数から奇異の目で見られた。東洋人な上に子供が一緒なのだ。何も知らない者からすれば、色んな意味でふざけた奴らでしかない。
けれども、取り急ぎ集まった人々のボス達、アメリカの王様の代理人達が何も言わないどころか三顧の礼状態なので、有色人種と蔑んだり追い払う者はいない。案内人やガードマンも、最大級の待遇で案内などしてくれた。
そしてこちらが事前に提示していた２００万ドルの数字は、セバスチャンの読み通り『適正価格』だったようだ。
「鳳のプリンセス、我々はあなた方が我々が集まる前から、買い支えを表明してくれた事を決して忘れない」
「ありがとうございます。ですが、当然と考えております。私達は十分に楽しませて頂きました。また、今後もアメリカの皆様と良いお取引ができたらと、一族、グループ一同考えております」
「勿論だ。取引の際は、望む者に声をかけてくれたまえ」
「はい、その日を楽しみにしております」
「我々も楽しみにしているよ」
その会議の議長格の人と、そのようなやり取りを儀礼的に交わした。しかし彼らの言葉は本気だ。アメリカ人は、人種を問わず窮地に際しての恩は忘れない。それが開拓民の末裔である彼らのルールであり美徳だ。人種の壁で表立って動けなくても、どこかで出来る限りの恩返しをする。
私にとっての買い支えへの参加は、ごく僅かな免罪符に等しいけど、参加して絶対に損はない。
なお、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちの買い支え自体は、木曜日ではなく翌、金曜日の１３時に合意された。
そしてこの徒党を組んでの協調介入、買い支えのニュースと、さらには金曜に市場が始まる段階から伝説的と言われる投資家の猛烈な買い戻しによって、週末の相場は表面上は平静を取り戻した。
ただし、あくまで表面上だけ。
アメリカの王様達、投資家達が私に買い戻しを言わなかったのは、完全にゲームから降りたと見られているからか、すぐに動かせる金がないのを知っているからか、有色人種だからか、所詮は他国の人間だからか、買い物予定が確定しているのでメーカー企業から止められたか、恐らくその全てが理由だろう。
この時代、グローバルなんて言葉はどこにもなく、私は東洋の成金の博徒に過ぎない。
一方では全米の人々が、この週末に駆けずり回る事になる。全米の新聞が、株式市場の暴落を大々的に報じたからだ。ネットの時代じゃないから、情報伝達にタイムラグが生じる。
そしてその時間を利用して、もう少し冷静な報道にできないものかと、新聞王のハースト氏に連絡しようかと考えた。けど、私などよりもアメリカの中枢部の人達が動いている筈、もしくは手を打っていて当たり前だと考え直した。
けどこれは、私個人にとって大失敗だった。連絡だけは一度取るべきだった。
ハースト氏の持つ新聞の一部に、振袖、民族衣装を着た東洋人の子供が呆然と市場を眺める様子がかなり大きく載っていたからだ。
言うまでもなく私、鳳玲子であり、アメリカに着いてから約束通りハーストさんから派遣されてきた記者とカメラマンを同行させていた結果だ。たまに、動画も撮られていた。
それまでは、大抵は取るに足らない話題ばかり提供していたけど、テキサスでの油田発見はかなりのニュースになった。そしてそれで、新聞の売り上げに貢献してしまったらしい。
他にも、紅龍先生がノーベル賞を逃したニュースとか、執事の時田がアメリカ財界の要人と会っている場面などを提供していたので、あの決定的な日にも記者とカメラマンが付いて来ていた。
そしてあの時、一番絵になる瞬間を捉えられていたらしい。
その写真付き記事の見出しには、『東洋の少女すら投資していた株式市場が大暴落！』と打ち出されていた。
それを見て失笑すらしてしまったけど、「後で絶対文句言ってやる！」と周りに怒り散らしたように、逆にちょっと元気をもらえたりもした。
しかしこの写真、下手したら歴史資料に残ったりするんじゃないかと、余計な考えすら頭をよぎってしまう。ていうか、動画まで撮っていたのはマジやめて欲しかった。ババアになって、歴史映像番組に取り入れられたりしてたら、それでショック死しそうだ。
けどもう記者はいない。て言うか、滞在先はシャットアウトしていた。
それに週末は私がこれ以上動いても仕方ないので、滞在先で巣篭もり状態。何人か面会の人がやって来たけど、時田が表面上応対しただけ。
私が外に出たのは、近くの小さな教会に日曜礼拝に行った事くらい。
けど、審判も神の救いも何もなかった。転生なんてあるんだからと、淡い期待の一つも抱いたと言うのに、とんだ肩透かしだ。
そして翌月曜日。１０月２８日。本当の悲劇が始まった。けどその日、私はウォール街には向かわなかった。
それよりも今後どうするかを、時田、セバスチャンと週末からずっと話し合っていた。今までも散々して来たけれども、悲劇を目にして何かアイデアなりが出てくるかもと思ったからだ。
けど、「下手の考え休むに似たり」で、なーんにも出てこなかった。
そんな状態だから、月曜の株式市場が閉まった後の夕方頃、心がモヤモヤしていて、なんだかうつ病のように何もやる気のない状態だった。だから、リビングに寝そべる以外の事をしたくなくなっていた。
「結局、何でこんな呆気なく暴落したのかしら」
「他人の受け売りでよければ」
ぼーっと天井を見ながら半ば独り言を呟くと、最新情報を中心に色々な資料に目を通していたセバスチャンが、テーブルの向こうからいつもの低いバリトン気味の声で語りかけてきた。
雑談でも気が紛れて良かろうと手で先を促す。
「結論から言うと、優良株は意外に脆弱なものだったのが直接の原因だそうです」
「GMみたいに？ 確かにGMもダメだったわね。続けて」
「証拠金取引において、一般投資家が買う株が優良株です。プロの投資家ではない者から見れば、優良株なら下落は無いから安全に資産を増やせるだろうと考えます」
「妥当な判断ね」
「ええ。ですが、借金で買った株が下がれば、証拠金の請求がやってきます。そしてその請求を払う為に保有している優良株を直ぐに売らざるを得ません」
「そうなると、優良じゃない株の事とか考えたくもないわね」
思わず手を額にペチンと当てる。
「全くです。しかし、今回起きたのはその特大版です」
「１００億ドルが露と消えたんだもんね。想像も付かないわ」
本当に想像がつかない。日本の国家予算の１０年分、GNPより多い額だ。アメリカの国家予算すら上回っている。
そして私が想像がつかない以上に、他の人はもっと想像できてないだろう。アンニュイなまま目線を向けたセバスチャンも、そんな表情が半分くらい浮かんでいた。今回の事は予想以上で、流石に肝が冷えたらしい。
強キャラ過ぎる奴かと思っていたけど、案外脆いところも見つけて人として少し安心できる。そう思いつつ私が少し笑みを浮かべたら、セバスチャンも冷や汗を一筋垂らしつつ笑みを返してきた。
そして気丈に聞いてくる。
「まだ、落ちますか？」
「逆に落ちないと思う？」
私のさも当然という気持ちを乗せた素っ気ない返しに軽く息を飲むけど、話す事を止めようとしない。話さないと不安なのかもしれない。
「思いませんが、鈍化して欲しいとは心底思います」
「そうよね。けど、残念。まだまだ落ちるわよ。あのウォール街中の人たちが、近くの教会という教会に足を運んで同じ祈りを捧げるくらいにね。ちょっと早いハロウィン・パーティーってところかしら」
私が淡々と告げた言葉に、セバスチャンは流石に返す言葉がなかった。
顔もさらに青ざめている。
ただ私も、少し露悪的になり過ぎていたかもしれない。それくらい神経がやられているんだろう。
だから「悪霊には早く退散して欲しいものね」と言い訳した。
そして私の『予言』通り、１０月２９日火曜日も再び大暴落。約１４０億ドルが消えた。
木曜から１週間で消えて無くなったドルは、総額の約３分の１、実に３００億ドル。２１世紀の価値で２２５兆平成円。しかもこれは、世界人口や世界経済が、２１世紀と比べ物にならないくらい小さな時代の話だ。
しかも１９２９年の資本主義の経済システムは、２１世紀に比べると未熟で脆弱だった。
株式市場自体は、そこまで世界経済に影響しないと考える学者も少なくない中で、アメリカはとにかく突然消えて無くなったドルをなんとか補填するため、好景気で世界中に散らばっていたドルと黄金の回収を、急速にかつ無慈悲に実行し始める。
そうしなければ自分達（の経済）が文字通り死んでしまうと考えたからだけど、助かる者がいれば息絶える者も出てくる。しかもアメリカは、回収した金を後生大事に金庫に収めて自らの不安を少しでも鎮めようとした。
金は天下の回り物という言葉を忘れたかのような所業は、当然、さらなる悪影響を世界中にもたらしていく事になる。
このドル回収こそが、世界恐慌を本当に引き起こしたと言ってもいいだろう。
もっとも、私が何かを言えるわけがない。
そもそも学者や専門家でもない私に、未来の経済の素養は殆どない。勿論、転生してからそれなりに勉強したけど、前世の記憶で知っているのは、２１世紀経済の表層のごく一部だけでしかない。だからこの時代の経済について、偉そうな事は何も言えない。
私が出来る事といえば、私と私の周りの為に日本を助けるべく動くだけだ。
だから、お金をドブに捨てるのも最低限にしたし、これから起きる歴史の流れに対して足掻いていくしかない。
そしてある意味で世界恐慌の発生は、私の体の主（あるじ）との十五年戦争の、次なるステージへの移行だった。
少なくとも私はそのつもりだ。
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証拠金取引：
株式投資のように売買の都度、代金を受け渡すのではなく、決済時に売買により生じた損益（差額）のみを受け渡す。このような取引を「差金決済」と言う。
差金決済では、新規建て時に受渡金額は必要ないが、取引により損失が生じた場合でも決済ができるように一定額の金銭を預けておく必要がある。この預け入れる金銭を「証拠金」と呼び、証拠金を使用した取引のことを「証拠金取引」と呼ぶ。
一般的に、取引に必要な証拠金は、取引金額よりも小さくなるので、少ない資金で大きな金額の取引を行うことができる。これをレバレッジ効果という。
例えば、１万円の証拠金で１０万円の取引ができる場合、レバレッジ効果は10倍となる。
だが、レバレッジは信用創造。その信用が逆流すれば悲惨だ。
なお、受け売りをそのまま書いているので、書いている当人も理解した気になっているだけだ。
要するに、素人は手を出さない方が良いと言う事だ。
うまい話なんてそうそうない。
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