111 「暗黒の木曜日」
(始まったんだ)
私は護衛のマッチョマン2人を押しのけるように、見晴らしの良い場所へと足早に急ぐ。そしてその光景を目撃した。
「っ!!」
世界恐慌の詳しい事は殆ど知らなかったので、そこからの情報、光景は私にとっても鮮烈だった。
時間は10時25分。それまで無敵の高値を誇っていたゼネラル・モータースの株が大幅に下落した。私が今年の前半に売り抜けた、あのGMの超優良株だ。
けど、私が一心不乱に見続けたその後5分ほどの動きは、ダウ自体は大した値動きはなかった。だからまだ始まっていないと勘違いした程だ。
けど、ちゃんと撃鉄は降りていた。
私が気を張りすぎていたのを自覚して少し離れた直後、午前11時を迎える10分ほど前から株式市場全体が売り一色へと傾く。
それはまるで、巨大すぎるから爆発が遅れて発生したかのよう変化だった。
私の側では、最初は私を宥める余裕すらあったミスタ・スミスが、砂上の楼閣が崩れ落ちていく様を呆然と見つめていた。私はそれを、今アメリカ中の投資家の姿なのだと、半ば他人事のように見つめ続けた。
1ドル下落すれば、2億ドルが消えて無くなる。今までも下落はあったけど、今までは戻ったし、そのうち上がると言う楽観論があった。
けど、今までと違い戻る事はない。売り注文ばかりで、下がる一方だ。しかも下落幅が違う。売られる量が違う。どちらも大きくなる一方。崩壊の幻聴が聞こえて来そうなほどだ。
いや幻聴ではない。
絶望の表情やゼスチャー、そして絶叫が、時間とともに増えていく。こちらも減る事はない。中には祈り声すら聞こえてくる。
そうして30分もしただろうか、ようやくミスタ・スミスが魂の抜けたような表情で私を見た。そして私を私だと認識すると、表情が大きく変化する。それまでの役者じみた姿よりも余程人間的だ。
「伯爵令嬢、これを一時的なものだとお考えですか?」
今までと違い声がかすれて、自身も何もないむき出しな感じだ。そして私への憎悪もしくは畏怖を感じる。口にしつつ、その目は化け物でも見るものへと変化もしていった。
「一時的ならどれほど良いかと思ってはいます。ですけれど、最悪の事態を想定するべきでしょう」
「……大変失礼ながら、何かしら超常的な手段で今回の事態をお知りになられていた、という事は御座いませんよね」
本当にお前は預言者か何かなのかと問いたげだ。そして、今まで一切『巫女』などという世迷言を信じてなかったからこその問いだった。
それに対して、私の言葉は以前から決まっていた。
「それなら、もっと儲けています」
相手の目を見てきっぱりと断言し、そこで一拍子置く。
ミスタ・スミスもそれで冷静さを多少は取り戻した。彼の常識に沿った言葉だったからだろう。
そして冷静になった相手を確認して、私は言葉を続ける。
「ミスタ・スミス、私は日本に住んでいたおかげで、常に外からここを眺める事が出来ました。立場のおかげで、色々な情報に触れる事も出来ました。調べてくれる優秀な人達もいました。答えてくれる賢者もいました。だからこそ勝つ事が出来たのと同時に、危険だと認識する事が出来たのです。
さらに言わせていただければ、危険だとお知らせするべく他の方々にお伝えした事もありました。直接、私が危惧を伝えた事も一度や二度ではありません。ですが皆、心配性だと笑うばかり。誰も話をまともに聞いてくれないので、道化の気分とはこういうものかと妙に納得したものです」
私の言葉は、万が一に備えてアリバイまがいの既成事実を作っておいた結果であると同時に、本当に私の前世通り動くか不安で仕方なかったので、可能な限り手を尽くした結果でもあった。
それに対して、ミスタ・スミスの声は呟くようだ。
「……確かに、そう、その通りです。いや、でした。鳳のシンクタンクからの資料も、モルガン商会に届いていました。そして誰もが、東洋人のチビどもは臆病で馬鹿だと笑っていました。あいつらが20億なら、俺達は2000億ドルだって儲けてやるさ、と。だが、伯爵令嬢、あなたが正しい。いや、正しかった。
伯爵令嬢、あなたが正しいと全面的に認めた上でお伺いします。ここから巻き返す事は可能とお考えですか。もしあるなら、どのような手があるとお考えでしょうか?」
話しながら少し自信、いや自身を取り戻したミスタ・スミスが、目に力を戻して私を見つめる。
けど、私に言える事はもうない。
(1年前なら、もう少しマシだったんだろうけどなあ)
「ない、のですか」
表情が表に出たのだろう。ミスタ・スミスの表情が落胆へと変化していく。けど、ショック療法として、多少なりとも事態を認識させるより他ないと腹を括る。
「100億ドルでも用意できれば話は別でしょうけれど、アメリカで流通している実際の通貨量がその半分もありません。数字の上だけの膨大なドルも、すぐに動かせないものが大半でしょう。それでも余程の事をしないと、その場凌ぎの対症療法にしかならないでしょう。ダムは決壊したのです。しかも、実態のないドルという水を限界まで溜め込んだ世界最大のダムが」
「……確かにその通りです。それで、その場しのぎとして、徒党を組んでの市場介入により大量の資金投入をしたとして、この場は収められるとお考えですか?」
私がちょっと前にした話を思い出した言葉だ。
だから私は首を縦に振る。
「対症療法にしかならないかもしれませんが、それくらいしか手立てはないと思います。ですがこの惨状を見る限り、すぐに集められる金額程度で、どこまで押しとどめられるか……」
「それでも動かないわけにはいきません。既に多くの者が動いている筈です。私も、可能な限り資金を用意するように働きかけます。それでは、大変失礼ではありますが」
「私に構わず、どうぞ行ってください。あっ、買い支えを共同でなされるのなら、必ずお声をかけてくださいまし。私はこの数年間、大変楽しませて頂きました。多少なりとも、恩返しをしたく思います」
「そのお言葉、上の者に確かにお伝え致します。また、必ずご連絡を。それでは」
そう言って演技もなく、一礼もなく、ミスタ・スミスが立ち去った。
残されたのは私達だけ。一応他から隔離された場所だが、周りには喧騒しかなく、歴史の教科書で見たような情景がウォール街全体に広がっているとしたら、ここから帰るのも一苦労するだろう。
「八神さん、ワンさん、シズ、どこか近くのホテルへ移動します。時田」
「ハッ」と声とともに頭を下げシズがすぐに動き出す横で、時田が厳しい目を私に向ける。
「玲子お嬢様、お言いつけ通り、今フェニックス・ファンドが動かせるドルは御座いません」
「けど、時田の事だから、少しくらいあるんでしょ?」
そう返して少しオネダリするような視線を向けると、本気の苦笑が返ってくる。それでこそ時田だ。
「100万ドルでしたら。それ以上はいけません。それに十分な額かと」
(たった100万ドルか。時田ならもう一桁上を用意していると思ったけど、それだけ私が危うく見えてたんでしょうね)
多分そんな内心が表情に出ていたのだろう、時田がさらに何か口にしようとした所で、それまで無言だったセバスチャンが半歩前に出る。
そして何かの紙切れを差し出す。
100万ドルと書かれた小切手だ。
「1000万ドルとは参りませんが、もう100万ドルでしたらここに」
「誰のお金?」
「お嬢様にお仕えすると決めた以上、必要ないので会社などを処分したものです。如何様にもお使い下さい」
「それはダメ」
「私はお嬢様の後追いで、この数年間非常に楽しませて頂きました。その代金とお考え下されば、それに勝るものは御座いません」
そう言ってさらに小切手を前に突き出し、しばしセバスチャンと睨み合う。多分だけど、セバスチャンはこういうチャンスを待っていたのだろう。睨み合いつつも、口元には小さく笑みが浮かんでいる。
これは折れるより他ない。それに内心凄く嬉しい私がいた。
「じゃあ、少しの間借りるわ。タップリ利子をつけて返すから、忘れないでね」
その答えに言葉はなく、恭しく頭を下げるのみだ。
そう、セバスチャンは利子や利益など求めてはいない。欲しいのは、私個人の信頼を得る事。そうであれば大成功だ。
そこまで私に心酔する理由は分からないけど、公私ともに私と鳳はセバスチャンに恩を売られた。いや、恩を受けた。今日遅くか明日にでも行われるオールアメリカンの株式市場の買い支えに、私は100万ドルではなく200万ドルを用意できる。
額が大きければ良いというものではないけど、アメリカの中枢部に売れる恩はその分大きくなる。けれども、仮に時田が1000万ドル用意していたら額が大きすぎたのだろう。
何しろ私達は、アメリカの中枢部から見れば、ただの大儲けした博徒だ。あとで沢山お買い物するから見逃してと言ってあるけど、大きな顔をしてはいけない。他に買い支えに参加する人たちの面子を潰してしまいかねないからだ。
それに恩を売りすぎてもいけない。何事もほどほどが一番だ。
そしてセバスチャンは、アメリカ人としての感覚から金額を弾き出していたのだろう。時田は100万で必要十分だと考えたが、その倍くらいがちょうど良い塩梅とセバスチャンは見たのだ。
そもそもセバスチャンの全財産が100万ドルきっかりというのは、話が出来すぎている。
暗に俺に任せろと言っているのかもしれない。
けど、私の考えは少し別だ。今回の件で私が関わる分が決まった以上、先を考えないといけない。
「時田、あなたを私の筆頭執事から実質的に外すわ。その代わりフェニックス・ファンドの席は当面そのままで、鳳商事の最低でも副社長になって今後の事業拡大の中心に座って。後任として、セバスチャンを私の執事か秘書に据えて、あなたを補佐させるから。あとセバスチャン、あなたの部下も来たい人は全員迎え入れるわ。いいわね?」
「は、はいッ!」
「仰せのままに」
セバスチャンが一瞬喜色を爆発させる横で、時田はいつものように冷静な姿のまま佇む。玄二叔父さんを本当のただの神輿にすると言ったに等しいのに、表情は涼しいものだ。
そして既に答えを知っている表情で聞いてくる。
「アメリカは?」
「アメリカでの買い物はしばらく延期。交渉は、日本にいても向こうから来てくれるわ。こっちは必要なものを、必要な時に買い叩けば良いから、まずはこの大騒動の、日本への波及の火消しね。じゃあ皆んな戻るわよ。この場所に、もう用はないわ」
「畏まりました」
時田の言葉と同時に、私の周りの全員が頭をそれぞれの角度で下げる。
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大恐慌発生直後の買い支え参加:
作中では200万ドルを、外野の有色人種にとっての適正価格としたが、分かりやすく表現する為の揶揄的なものと思ってください。
なお、平成円との価値で3000倍の差と仮定すると120億円くらいの価値。
即金としてなら、少なくとも端金ではないだろう。
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