100 「飛行船の中で」
「おー。ちゃんと浮くものねー」
「玲子、お前は肝が太いな」
「紅龍先生こそ。空は初めてでしょう」
「お互い様だろ」
「(私は夢の中で何度も飛んでるからそうでもないの)」
子供らしく耳元で囁く。狭い船内で大声で話すとまる聞こえだから。
そう、今は飛行船ツェペリン号の船内。そして会話の通り、霞ヶ浦を離れて上昇し始めたところ。
日本からの乗船者は、私と紅龍先生以外にもう一人。草鹿龍之介という海軍将校さんだ。私の歴女知識には、真珠湾を奇襲攻撃した南雲機動部隊の参謀長とインプットされている。その草鹿さんも私達と同じように地上を見下ろしている。
さらにこの場には、乗客の全員が揃っていた。というのも、この船には寝室以外で乗客が過ごせる場所が、私達のいるレストラン兼ラウンジのようなこの狭い部屋しかない。あとは二段ベッドの狭すぎる個室が10室だけ。
前から操縦室、レストラン、客室、共同トイレの順に並んでいるが、レストランに隣接するキッチンを含めても、30メートル×6メートルしかスペースがない。当然、全てがこぢんまりとしている。
それが大きな船体の前の下あたりにへばり付くように設置されている。
しかも聞いた所では、乗員に個室はなく船体内に置かれたベッドで眠るそうだ。もちろんだけど乗員用の食堂などない。客用の船室も鉄道のコンパートメントより狭い空間に二段ベッドがあるだけ。
見た目は大きな飛行船だけど、ぶっちゃけ浮くので精一杯な事が良く分かる。
空を飛ぶ、単調な景色を見る、という以外に娯楽がないので、料理だけはフランス料理のフルコースって感じらしいけど、料理も正直飽きそうだ。
なお、23日に出発すると26日にはアメリカ西海岸のロサンゼルスに到着、そこからさらに3日後の29日に東海岸に到着して、世界一周旅行達成となる。
このうち私達は、主に私の我儘で西海岸まで。3泊4日の飛行だ。
そして乗っている乗客だけど、私以外は殆ど男性。女性がいても男性の奥さん。当然全員がブルジョアのしかも上位の人達。空を飛んで世界一周旅行をするという事を、旅の後で周りに自慢する為に乗っているような人が殆ど。要するに、金持ちの暇つぶしだ。
私自身も、このツェペリン飛行船が歴史の1ページと知っているから乗ってみたかっただけなので、大同小異といえる。
ハースト氏が出資して乗船しているのは知っていたけど、深い関係になるとは考えもしていなかった。
そして船内での数日間だけど、嫌でも乗船者全員と親密な関係を築かざるを得ない。
何しろクソ狭い個室で横になる以外、たった一つの狭いレストラン兼ラウンジで過ごすより他ない。席はなんとか乗客分あるけど、お金持ちには狭い空間だ。
子供の私ですらそう感じるくらいだから、大人が感じる圧迫感は相当だと思う。それでも明るいうちは窓から空が常時見えているので気晴らしもできるけど、日が落ちると窓の向こうは真っ暗。
空の上でポツンと灯を漏らしつつ進む飛行船は、周りからどう見えるのだろう。
最短距離を進むので夏の北太平洋を押し渡るが、船から見えることもないだろうし、そもそも北太平洋を航行する船は多くはないので、孤独な航海だ。
そして圧迫感、言い知れぬ孤独感を紛らわせる為に、乗客達は狭いラウンジに集まり続けて、ブルジョアとして上流階級としての矜持を持ちつつ、延々と歓談に興じる。
そうした中で、紅龍先生は人気者だ。
既に幾つもの革新的な新薬の事は世界中に広まっていて、新薬で助かった人も大勢出ている。特に生産が簡単というか、簡易バージョンならご家庭でも気軽にできてしまう経口補水液が、短期間の間に爆発的に普及。胃腸炎に関しては、もはや「救世主」状態らしい。
そして論文発表と共に欧米など世界各地で特許申請も出しているので、その収益も紅龍先生の元にもたらされ始めている。つまり鳳一族に関係なく、紅龍先生だけでも上流階級の仲間入りとなる。
その上、日本で最も権威のある大学を首席で卒業し、鳳伯爵家という上流階級の血縁者で、しかもその家は日本で屈指の大財閥だ。
そんな人を、人種差別の壁だけで放っておくような事はしない。むしろ自分たちの側に招き入れ、囲い込もうとするのが欧米の上流階級だ。
現に、アメリカ、イギリスの幾つもの権威ある大学や研究所が、紅龍先生を招き入れようとラブコールを送っている。
もっとも、鳳財閥が製薬会社、病院、医大(大学医学部)まで抱えているので、手放す筈がない。ましてや紅龍先生は、鳳一族にとって分家筋の嫡流だ。
その上、既に日本政府までが動き始めていて、紅龍先生への支援を始めている。
まあ、東大医学部の事とかもあるので日本政府の動きは期待していないけど、鳳自身が紅龍先生を全面的にバックアップしている。
そんな人が、不意に欧米に渡って講演会を行うというので、特にアメリカでは業界を中心としてそれなりに話題になっているらしい。
勿論、ノーベル賞候補という事が、その話題に拍車をかけている。
私の隠れ蓑として、これ以上の人はいない。
そして飛行船での私も、我儘を言って叔父さんに付いてきた貴族&財閥の困ったお嬢様として振る舞う。
つまりは道化役だ。
ハースト氏以外に、私の事を知っている人もいなかった。いたとして、鳳財閥やフェニックス・ファンドという存在であり、子供の私が深く関わっているとは思っていない。
しかし、単に我儘なクソガキではつまらないので、無理してお澄まししてます的な振りをしつつ、同乗した乗客達から色々な話を聞いた。
そして基本的にブルジョアは自慢話を話すのが大好きな人が多いので、どんどん話してくれる。
私は相槌を打ちつつ聞いているだけでいい。
向こうも、ハースト氏以外は単なるおまけの子供としか見ていないので、東洋人の小娘でも自慢話を大人しく聞くのなら話してやろうくらいにしか思っていない。
そして腐っても上流階級の人の話なので、話の中に意外に重要な情報が隠されていたりする。
「お疲れ様、紅龍先生」
「お、おおっ。話す事よりも、行儀正しくするのがこれほど苦痛だとは思わなかった。慣れない事は、するもんじゃないな」
小さいとは言え個室に戻ると、紅龍先生が首、肩、腕をほぐしている。私はお子様なので、もっと早く部屋に引き上げて持ち込んだ本を読書中。とはいえ既に2周目だ。本当にする事がない。
愚痴の一つも零したくなるけど、手持ちの小さなバックの中をまさぐり、お目当のものを取り出す。
「自分で言ってれば世話ないわね。飴ちゃんいる? のど飴よ」
そう言って、ドロップ缶を振って飴ちゃんを一粒掌に乗せ、紅龍先生の方へと出す。
紅龍先生は、それをすぐにもヒョイと手に取ってしまう。ほんと、遠慮のない人だ。多分私限定だろうけど。
「おお、これは助かる。しかし気が利くものを持っているんだな」
「こうなるんじゃないかなあ、くらいには思ってたからね」
「確かに、迂闊だった。で、そっちは収穫の一つでもあったか?」
「ハースト氏からも、表向き以上の話はなし。他の人は、私を子供扱いしかしないから、どうでもいい自慢話ばーっかり」
「まあそうだろうな。二人で話していたが、草鹿少佐は? 武道も嗜まれる中々の御仁だったが」
そう。紅龍先生は、素性が知れ渡ると他の乗客との話をせがまれて、私以外と居る事が殆どだ。
だからこうして、私は先にラウンジから退散して、寝る前に情報交換となる。
「日本語で話せるから、結構話したわよ。まあ、他の目と耳があるから、迂闊な事は言えないけどね」
「一応聞くが、妙な話でケムに巻いたりはしてないだろうな」
少し嗜(たしな)める感じの声。紅龍先生は、研究馬鹿、もとい朴念仁だからこんなもんだろう。
「あー、どうだろ。海軍の船は好きだって言ったら、喜んでくれたわよ。柱島にも見に行った話もしたし」
「そういう話なら、むしろ積極的に話すくらいの方が良いだろうな。玲子は知らんだろうが、市中では軍人の評判はあまりよろしくないからな」
「紅龍先生でも、そういう事気にするんだ」
そう言うと、ジト目が飛んでくる。三白眼だから、ほぼ睨みつけた状態だけど。
だから隠し事は通じないと観念する。
「まあ、私が鳳の油田や関連産業、タンカー建造とかの情報を言ったら、かなり驚いてた」
「それだけか?」
ジト目が強まる。
「あの方の専門の飛行機の話もしたわよ。ほら、川西飛行機に行ってきたから。あとは・・・あ、そうそう、八木・宇田アンテナの話をしたわ」
「なんだそれは?」
「指向性に優れた特殊なアンテナ。東北大学で色々な電子装置の研究開発をしているんだけど、それを鳳も支援していて将来的に軍事利用もできますよーって」
「それは、その、嘘じゃないだろうな」
「本当よ。私、夢で見たもの。電波の反射を利用して、何でも捉えるのよ」
「で、ペラペラと喋ったのか?」
「まあ、うちとの商売にも関わるかもだから、一応ちゃんとしたお話も交えて。そしたらまた目を丸くされたけど」
「そういう事を一人でするな。正直、お前の頭の回り方は、常人を超えている」
「私が子供だから、そう思うだけだって。大人になったら凡人になるわよ」
「……フム。まあいい。それで、着替えて良いか?」
「あー、上に登って布団かぶってるから好きにして。もう寝るし」
こうして数日部屋を共にしていると、無頓着な紅龍先生が多少は気が使えるようになったのは大きな進歩だ。
それに私も、少なくとも見た目は子供なので、多少のことは大目に見てあげている。
それにしても飛行船の旅は、速いという以外はあてが外れた。
太平洋上なので空と雲と海しかない。本当に何もなくて、退屈で死にそうだ。見所は空の上で見る日の出と日の入りだけど、それも3回目くらいになると飽きてくる。
地球が丸いというのを久々に空の上から実感したのが、収穫といえば収穫だろう。
前世では成層圏を飛ぶ旅客機からの眺めだったけど、空は前世も今も変わりなかった。
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草鹿龍之介:
真珠湾を奇襲攻撃した南雲機動部隊の参謀長として有名だろう。
史実でも、ツェペリン号に乗ってアメリカに渡っている。
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