CASE2 もしも宝くじで8億円が当たったら①




人生が変わる瞬間というのは、誰の前にも訪れるものだ。


些細なきっかけがその後の人生を一変させる――それは世の中にありふれた体験談として人々の口から語られている。

もしも非凡な人間なら、その瞬間を自分の力で手繰り寄せることができるのだろう。そして未来をよりよい方向へ変えられる。


力のない凡人は、チャンスをただ待つことしかできない。

人生がどう変わるかも、定かでない運命に任せるしかない。


だがこの世界には、誰しもが等しくチャンスを待ち、そして明確な未来の可能性を示してくれる、そんな都合のいいものがある。


……それが、宝くじ。


際立った才能のないごく普通の人が、純粋な偶然だけで非凡になることができる。人生を変える力を与えられる。

だからこそ多くの人がその夢を追い、そして偶然にも選ばれたほんの一握りの人間がそれを手にする。そして未来を変える。

かつて偉大な人物が言った。俺はなるほどなと思った。


『お金はすべてじゃない。ほとんどだ』





7月3日。


生徒会の用事を手早く済ませた俺は、早速商店街の宝くじ売り場にやってきた。

狙うはただひとつ、最高額の当選のみ。

01から43までの数字の中から異なる6個を選択するものである。

キャリーオーバーも含めて8億円の当選を確実にものにできる。


俺は絶対の自信を胸に、売り場カウンターへ向かった――





数日後、朝のリビングで朝食時を迎える小日向家。母さんはテーブルに食器を並べ、父さんは椅子に座って新聞を読んでいる。

ちょうどいい頃合いを計り、俺は自然な様子で父さんに声をかけた。


「あ、そうだ父さん。新聞読んでるなら見てもらいたいものがあるんだけど……」

「ん、なんだ? 読みたいものがあるならちょっと待ってくれ」

「いや、父さんが見てていいよ。待ってて、いま持ってくるから」


俺は2階へ上がり、財布から10枚のくじ券を抜き取った。

1枚だけ買って当たったのではさすがに怪しすぎるので、ダミー用に9枚を用意した。本命は10枚目――いちばん下だ。


「これなんだけど、確か今日の新聞で結果が分かるんだ。だから俺の代わりに見といてくれない?」

「ん、これはLOTOセブンか? どうしたんだこれ、お前のか?」

「うん。父さんの影響じゃないけど、俺も試しに買ってみたんだ」

「父さんくじ運ないから、別の人が見た方がいいぞ」

「いや、たまには父さんが見てもいいでしょ。だいたい誰が見るかで結果なんて変わらないって」

「仕方ないなぁ、どれどれ……」


くじ券を手渡すと、父さんは新聞をめくりくじの当選結果の欄を探し始める。

俺の親孝行、喜んでくれるかな?


「えーと……あぁ、これか。どれどれ……」


そして、結果を確認――紙面と手元の券とを、交互に見ている。


「うーん……やっぱりどれも外れてるなぁ……やっぱり父さんが見るより――…………ん?」


そして最後の10枚目のくじ券を手に父さんの顔が一変する。


「お……おぉ……あー……んー……あぁ? え、えぇっ? あ、あれ、ちょっと、ん……えっ、あ、んぅ!? いや、いやいやいや、いや……あぁ?」


やばい……反応が面白い。

ところどころ声が裏返っている。その表情も、予想以上にころころと変わっていた。


紙面と券の往復は視線だけに留まらず、頭全体をおもちゃのようにかくかくと動かしている。何度見ても結果は変わらないのに、まだ現実を受け止められないのか。

普段はのんびりしている父さんが、ここまで狼狽することになるとは……


「はいお待たせ、ご飯にするから新聞はしまって――……どうしたの?」


母さんも異様な素振りに気づいたか、怪訝な顔で父さんを見る。だがまだその表情が意味するところには気付いていない。


「あ、あぁ、ん、んぅ……ない、ないぞ……どこも、ない……」

「ない? どうしたのよ、何の話?」

「はずれて、ない……はずれてない!! ひとつも!! お、おい、こ、ここ、これって、これって……!」


やっと思考が追いついたか。父さんは震える手で口を抑え、だが溢れる声を止められないでいる様子だった。

ちょうど朝シャンを済ませた聖良も遅れてリビングにやってきた。


「おはようございますお兄様っ、今朝も一段と凛々しい――」

「み、みんなっ! お、お、落ち着いて聞いてくれ……ッ! 」

「……お父さまの方こそ落ち着いてください。いまは聖良がお兄様と大事な朝の拶を交わしてるところなので、少し黙っててもらえますか?」

「せ、聖良っ、それどころじゃないんだって! まずは父さんの話を聞いてくれないか!?」

「そうですか。お兄様との朝の愛拶が、『それどころではない』、と。お父さまは、そう仰るのですね?」

「い、いや、そんなことは……」

「では少しだけでいいので黙っててください」

「……………………」


聖良の有無を言わせぬ冷たい口調に、父さんは押し黙った。

そしてくるりと俺の方に振り返ると、一瞬で笑顔に戻る。

その豹変ぶりに、慣れているはずの俺でも思わず後ずさりしてしまう。


「改めまして。おはようございますお兄様っ!」


聖良は俺の腰に手を回し胸の中に顔をうずめる。


「あ、あぁ……おはよう……」

「お兄様っ、あぁ……(くんかくんか、すーはーすーはー)」

「せ、聖良…………」


妹の唐突な愛情表現――悪く言えば奇行……毎度のこととはいえ、俺は兄としてどう対応するのがベストなのか、未だによく分からない。

俺の両腕は行き場をなくしたように宙を漂い、されるがままになっている。


それから約1分後。最後に大きく鼻から息を吸うと、名残惜しそうな顔をしてようやく俺は解放された。


「――充電完了しました。聖良はこれで今日も1日、お昼休みまでお兄様に会えなくても頑張れますっ」

「それはなんというか、燃費が半端なく悪いというか……って、それよりも父さん。何か言いたいことがあったんじゃないの?」

「お、おおっ、そうだったな!」


この家の力関係が垣間見えたところで、改めて本題に戻る。

父さんは椅子から立ち上がり、辺りを見回す。そして俺たちの方に向き直り、満面の笑みを浮かべた。


「1等っ! 1等が当たってるんだよ! えーと、これだ! ほら、これ!」

「え? なに、え、それ、宝くじ? キャリーオーバー発生中……1等、8億円? え、1等って、ええっ!? ちょ、ちょっとあなた、見せて!」

「あぁ、何度確認しても……あぁ、ダメだよ真由美、落ち着いて、乱暴に扱っちゃダメだ! 破れたらどうする!!」

「え、ほ、本当なの? 冗談じゃなくて? え、だって、そんな、え、嘘でしょ? ちょっと、待ってよほんと、あー……」


震える手でくじ券を受け取り、同じように新聞の紙面と見比べ始める母さん。

そして父さんとまったく同じ動きを繰り返していた。


「ど、どうするのこれ! ど、どこに持っていくの? 銀行? ちょっと、大事にしまわないと! 盗られたら大変よ!」

「そうだよ、あぁ、でもすぐに行かないと! て、手続きをするんだ。あー、何がいるんだ? えー、あー、そのー……あー、ダメだ! これやばい、ほんとやばい。無理だ、今日、会社行くの、無理! ちょっと、やばい、休もう! 休んで銀行に行こう!」

「わ、私も! だ、大事にしまって、8億円でしょ、お金だもんね! それで、銀行まで無事に、持っていかないと!!」


これがお金の力か、8億円の重みか……

まるで酔っぱらったみたいに、普段の落ち着きを完全に失っている両親。


「どうやら朝食どころではありませんね。この2人は無視して学園へ行きましょう、お兄様」

「いいけど……聖良は驚かないのか? なんか、8億が当たったらしいぞ」

「ふふっ、お兄様が驚いていないようなので、わたくしも驚かないでおきます」

「……………………」


まさか聖良は何かからくりがあるって気付いているんだろうか。

偽物とかじゃないし、バレるはずがないとは思うが……


「はー、はぁー、ちょっと、なんか息が苦しくなってきたわ……」

「真由美、だ、大丈夫かい!? それはいけない、キミが死んだら8億はどうなる!!」


しかしここまで慌てふためいている両親を見てると、逆に自分は冷静になれるもんだな。

一緒になって騒ぐのは確かに気が引ける。


お金って……怖いなぁ。

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