CASE1 生徒会執行部③
「会長、紅茶をお持ちしました。一息入れたらどうですか?」
「ん……ああ、悪いな。ありがたく戴くよ」
午後の優雅なひととき。
諸々の失態がなければもっと心穏やかでいられたのだが、残念ながら俺に時間を戻す魔法はない。
慣れた動作でデスクの脇に配膳する織原から紅茶を受け取ると、俺は香気だけをかいでカップを受皿にもどした。
紅茶とは本来、香りを楽しむものだ。熱いうちは香りが引き立つので口をつけてはならない。
文庫本を片手に紅茶の香りをたしなんでいると、書棚の方からガタリと音がする。その音につられて視線を動かすと、織原がキャスター付きの椅子の上に乗っかり、棚の上に手を伸ばしていた。
「織原……それ、ちょっと危なくないか……?」
「だ、大丈夫……ですっ」
うー、とうめき声を上げながら椅子の上でつま先立ちになる織原。
大丈夫だとは言うが、とてもそうは見えない。
「いったいなにを取ろうとしてるんだ?」
「か、会長が、おそらくこれから、必要とする資料……ですっ」
「いや、だったら俺が――」
代わるよ、と言おうとした刹那、椅子が僅かに転がり、バランスを崩した織原が足を滑らせる。
「きゃっ!」
「!!!!」
俺は咄嗟にカップと文庫本を放り出し、倒れ込む床との間になんとか自分の身体を滑り込ませた。
「か、会長!?」
「あたたたた……」
床に打ち付けた背中の痛みに耐えながら、俺は両腕のなかに収まった織原を見てほっと息をついた。
「け、怪我は、ないか……?」
「は、はい……あの、その、あ、ありがとう……ございます……」
織原は顔を真っ赤にしながら俺に礼を述べるのだがいかんせん顔が近すぎる。彼女の吐息が顔にかかってくすぐったい。できれば早く退いてほしいのだが、俺が下敷きになっている手前、身動きがとれない。
「あ、あの……お、織原……さん?」
「………………………………」
何故かその場から動こうとはせず無言でジーっと俺を見つめる織原に、俺はどう反応していいかわからず降参のポーズのまま固まってしまう。というか、こんなシーン誰かに見られでもしたら――なんて思った瞬間、バーンと生徒会室の扉が勢いよく開かれた。
「お兄様っ、お茶でもご一緒に――って、ああぁぁーーーーッ!!!!」
「ゲッ……聖良……!」
入室直後の笑顔から一転、俺たちの格好を見るなり絶叫したのは、俺の一つ年下の妹。
陽光に溶け出す淡い雪のような白い肌、
小柄で華奢な身体とあどけない顔立ちから『雪姫』の異名を持つ、我が生徒会書記。
「は・な・れ・て・く・だ・さ・い・!」
聖良は織原の両脇に手を入れ強引に引き剥がすと、解放された俺はズキズキと痛む腰をなだめながら立ち上がった。続いて織原も乱れたスカートを手で払いつつ後ろ向きに立ち上がる。
「……………………チッ」
なんかいま、織原の方から舌打ちが聞こえたような……。
「織原……?」
「なんでしょうか?」
「い、いや……なんでもない」
振り返った彼女はふだん通りの表情。すん、としたクールなすまし顔。……なのに何故か妙な圧を感じるのは気のせいだろうか?
聖良についても同様、かの名優ハンフリーボガートも裸足で逃げ出す面構えだ。
「……副会長、密室でお兄様を押し倒すとは、どういう了見でしょうか? 納得のいく説明を要求します」
「あら、そう見えたのであればそれは貴女の勘違いかしらね。会長は倒れる私を抱き留めてくれただけなのだから」
「……………………」
「……………………」
幻覚かな? 無言で睨み合う二人の背後に般若と龍が見えるような……。
「…………(相変わらずのクーデレ構ってちゃんですね。あなたのねじくれた求愛行動は、全てわたくしがぶち壊してやります)」
「…………(面倒くさいヤンデレブラコン妹ね。いつまでも厚かましく首を突っ込んでくるようなら、力づくでも排除するわよ)」
「ふっ…………」
「ふふふっ……」
なにやら心理的圧力で会話を交わすこの二人。一見して水と油だが、中等部の頃は仲の良い先輩後輩として有名だったというのだから驚きだ。
人のことを詮索する趣味はない俺としても、いまこうして切っ先を向け合う仕儀と相なった経緯については知りたいところではある。
「では、副会長はご無事な様なのでお兄様はお借りしていきますね」
「あ、ちょっ……聖良……」
織原に声をかける間もなく、俺は聖良に手を引かれて強制的に生徒会室から連れ出された。
◇
「お兄様、副会長とは金輪際、距離を置くことをお勧めします」
ずんずんと俺の手を引きながら前を歩く聖良は不満そうに口を尖らせる。
「さすがにそうもいかないだろ。同じ生徒会役員同士なんだから」
「なにかあってからでは遅いのです!!!!」
「ひえっ…………」
あまりの聖良の剣幕に俺は思わずたじろいでしまう。
「あ……わ、わたくしの方こそ、大声を出してしまい申し訳ありませんでした。行きましょう? お兄様」
「あ、ああ……」
「(お兄様……?)」
「(お、お兄様って……)」
春に入学したばかりの1年坊主の廊下を歩いていると、周囲からざわめきが漏れる。
さらに耳を澄ませると、主に男子生徒を中心にシスコンだの、超キモイだの、インセストタブーだの大変お上品な単語の数々が耳に飛び込んできた。
この丁寧な口調や「お兄様」という呼び方にも慣れてしまったが、初見の人間が聞けばやはりこういう反応か。
俺の家庭は少々――いや、かなり複雑で、聖良と俺との間に血の繋がりはない。
それはいまから10年前、駆け落ち同然だった本当の両親は自動車事故で亡くなり、身寄りのいない俺は小さな縁で小日向家に引き取られることになったから。
当時の俺はかなり荒れていたが紆余曲折あって、いまはこうして小日向家の長男として生きている。
「そういえばいつからお兄様だったんだっけ?」
「ヘンなお兄様。お兄様は、生まれた時からずっと私の王子さ……こほん、お兄様ですよ」
「……生まれた時は一緒じゃないだろ。呼び方の話」
「ああ、それは……自然と、ですね。きっとお兄様が私にとって誰より素敵で頼もしい方だからです」
「聖良は俺のこと持ち上げすぎじゃないか?」
そう。聖良は俺を勘違いしている。
俺など極度のめんどくさがりで、慈愛の心もない、口を開けば屁理屈ばかり。人から褒められる点など一つもないただの俗人だ。そしてその自覚がありながら改める気もない。
勉強が多少できるのは、さっさと一生分の金を稼いで、誰よりも早く社会人を中退してやろうという浅ましい狙いからである。
しかし聖良は――
「ふふふっ、わたくしは事実をそのまま言っているだけです。(あぁ、素敵……キリッとしたお顔に隙だらけの仕草も……聖良は自分が保てません。お兄様……)」
……かぷっ!
「ひぅ! せ、聖良!? な、なぜ俺の耳を噛む!?」
「申し訳ありません。お兄様があまりに無防備で……い、いえ、ちょっとつまづいてしまって(なんという引力……わたくしの理性がいつまでもつことやら)」
噛まれたついでに舐められたような……たまたまか。
「そ、そうか、つまづいたならしょうがない、のか……?」
「さ、行きましょうか。お兄様」
そういって俺の手を離したかと思えば、今度は腕組み。
ひそひそと、さらに周囲がざわめく。
「な、なあ聖良さんや……何度も聞いて悪いとは思うんだが、これって本当に『ふつう』なのか……?」
俺は絡みつく聖良の腕を指しながらいった。
「はい、仲のいい兄妹はみんなやってます」
「少なくとも俺の知ってる兄妹では一度も見たことが無いんだが……」
「それは単に照れているだけです。家では皆さんやっていることです」
「そ、そうだったのか……」
家庭内における一般的な兄妹のあり方や距離感について俺はまだよく分かっていない。
ゆえに聖良から「ふつうの兄妹なら常識です」と、いわれてしまえば俺はそれにうなづくしかないのである。
(それにしても……)
仲のいい兄妹はみんな家で腕組みをしていたのか……。
どういう流れでそうなるのか聖良以外の人物に一度訊いてみたいとは思ったが、藪をつつくような真似はしない方が賢明だろうと思い直す。
その後、俺は聖良と学食のテラス席で二回目のアフタヌーンティーを堪能し、午後の授業へと臨んだ。
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