第89話 隠れ蓑
すると、店外の薄暗い路地、コツコツとアスファルトの上を歩く足音が近づいてくる。音の高さからしてハイヒールだろうか。
窓の外を覗くと、派手なファーのついた上着を身につけた、金のストレートヘアーを頭の後ろでお団子にした若い女が歩いてくる。まっすぐこのコインランドリーに入ってくるようだ。
俺は咄嗟に顔をロンTの袖で拭い取り繕って、入り口から目を背け気配を消す。入る前からずっと回っていた方の洗濯機が止まった。
女が自動ドアをくぐり中へ入る。寒そうに上腕を擦りながら、取り出したエコバッグに乾燥の終わった衣服を入れていく。
こんな季節にミニスカートを履いている。寒いなら止めておけばいいのに。すると、横目で見ていた俺の視線に気づき、女がいきなり振り返った。
一瞬目が合うが、すぐ顔を逸らすと服の取り込みに戻る。明らかに、こちらを心配するような眼差しだった。
椅子の背に肘を置き、我関せずという顔を作りがら頬杖をつく。どうせ他人同士だ、なにもせずこのまま放っておいてほしい。
そんな期待を裏切り、洗濯機の扉を閉めた女はゆっくりとこちらへ近寄ってくる。そしておずおずと声をかけた。
「あ、あの...」
「....」
「ねえ...!」
「...なんだ。」
俺が無視を決め込もうとするが、食い下がる。荷物を胸の前に抱えた女はわざわざ真横まで歩いてきて、こちらの顔を覗き込む。
無意識に睨むような目を向けてしまった俺に恐れを見せ、ぐっと身体を強張らせながらまだ声をかけ続ける。
「大丈夫...?顔色悪いけど...」
「...俺に構うな。」
「...そう言われたらもっと心配。」
このわずかなやり取りの間に、俺は気づいた。この女、若干。いや、かなり息が酒臭い。先刻まで夥しい血生臭さを感じていた鼻でも馬鹿にはなっていなかったらしい。
酩酊とまではいかないようだが、目が少しとろんとしていて頬もやや紅潮している。酔っ払いのお節介だというならもっと厄介だ。
泣き腫らした目を隠して近づくなというオーラを出しているにも関わらず、女はそのまま俺の隣に座った。
「私でよかったら、話してみて。」
「人に話せるようなことじゃねぇ。お前に出来ることはなにもない。」
「大丈夫。私、聞き上手だってよく言われてるから。」
根拠のない「大丈夫」。つのる俺の苛立ちをさらに加速させる。
アルコールにまともな判断を濁らされた人間、あまつさえ初対面だ。そんな相手に、家族を殺した人間を探しに強盗殺人をしながら警察から逃げていることなど、言えるわけがない。
それでも女は潤んだ瞳を向ける。苦労話が聞きたいなら他の飲んだくれにでも聞きやがれ、俺は忙しいんだよ。
「ほら、話してみ───」
「...クソが。」
「穿傀...ッ!」
椅子から跳び上がり、穿傀を呼び出して刃をその細い首筋に沿わせる。俺に関わるなってのがまだわからないのか、この女。
これでビビってここから走り去ってくれればよかった。しかし女は、一度肩をビクッと跳ねさせただけで、逃げようとしない。
それどころか、自身の生き死にに急速に迫ったはずの穿傀の刀身に触れ、ゆっくりと下ろさせようとする。
「...怖がら、ないで...私も、怖いけど。」
「...何故逃げない?俺がこいつを引っ張れば、お前は死ぬんだぜ。」
「刃物見せて脅されるのには慣れてるの...それでも怖い。だから、しまって?」
「...消えろ、穿傀。」
穿傀が俺の手の中から消え失せると、張りつめた緊張の糸が切れたように女はぜえぜえと肩で息をし始め、冷や汗を頬に伝わせる。
店内が静寂に包まれる。俺のコートの洗濯、乾燥が終わったらしい。女をそのままにして立ち上がり、回収しに扉を開け中身を取り出す。
血の汚れはすっきりと落ち、元と変わらない状態まで戻っていた。羽織ってそのまま店を出ようとするが、俺の腕を追いかけてきた女が後ろから掴んだ。
「ッ、おいッ!」
「待ってぇえ...!話さなくても、話さなくてもいいからぁ...!」
「わかった!わかったから袖引っ張んのをやめろ!シワになんだろうが!」
まったく、さっきまでの毅然とした態度はどこへやら。情緒を飲み屋にでも置いてきたのかコイツは。
子供のように泣きじゃくりながら駄々をこねている。ただの不審者でしかない俺に構って、一体全体なにがしたいんだ。
「...で、用件はなんだよ。返答次第じゃこのまま帰るからな。」
「ウチ泊まりに来て。」
「はあ...?」
「いいからぁ!心配なだけなのぉ~!」
「行くよ!行きゃあいいんだろが!泣くな!」
妙なのに絡まれちまった。歩く後ろ姿に、ただひたすらついていく。
よく見れば女の服、背中までパックリ開いている。正直なところあり得ないと思う。
格好からして、水商売かなにかだろうか。そう考えると家に上がるのがより憂鬱になる。
やがて辿り着いたのは、一棟のアパート。随分と年季の入った壁の塗装はぼろぼろと剥がれ落ちていて、金属の階段を上るとわずかに軋む音が聞こえた。
女は奥の一室の鍵を覚束ない手付きで開け、こちらに手招きをする。途中でこっそり離れればよかったのに、なぜついてきてしまったんだろうか。
相変わらず俺は他人の善意に弱い。この女がもしかしたら俺を殺そうとするMECの残党であるかもしれないのに。
なにかに縋りたい思いがあったのは確か。寒い、冷たい。孤独が吹き荒ぶ胸中を他人の温もりで暖めてほしかった。
笑みを見せる口からこぼれる八重歯が、俺の揺らぐ猜疑心にトドメを刺した。そうだ、裏切られても殺せばいいもんな。
やっぱり俺はダメだな。また重ねてしまった。また思い出してしまった。
自らの全てと信じたものを失って、殺意に焦がされてもなお離れない。断ち切れない。
それでも誰かがいた方が、寝心地の悪いネットカフェのシートより良いか。課の追手の目も誤魔化せるかもしれない。
寒空に溜め息一つ、俺は部屋へ入った。
「きったないけど、適当にどかしちゃっていいからさ~。」
「....やめときゃよかった。」
「なぁに?」
「いや。」
向こうも勢いで俺を連れ込んだんだろうが、さすがに部屋がゴチャつきすぎだろ。ボロアパートに相応しくない、ブランド物の服やアクセサリーの箱が所狭しと床に転がっていた。
惣菜の容器や酒の空き缶も混じっている。足の踏み場がないこともないが、泊めてやろうとするならその前にこの惨状を少し考慮しろよ。
今からでも出ていけば間に合うだろうか。いや、ガンガンに効いた点けっぱなしの暖房のせいで既に身体が温まった。外に出れば反動つきの寒気に曝されること請け合いだ。
「座って座って~。」
どこにだよと見渡す。すると黒いソファーが、層になった大量の服に埋もれかけていた。丁寧にそれらを端に寄せてから座る。
女はお構いなしに冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、グビグビと呷り始めた。これっぽっちも遠慮がない。
「君も飲む~?チョー冷えてるよ。」
「...いらねぇ。まだ飲めねぇし。」
「まだ若いうちに色々経験しといた方がいいのに~ぃ。あはっ、ひょっとして高校生?」
「ヤッバ!家出少年連れ込んじゃったわ~。」
足で冷蔵庫の蓋を閉め、千鳥足でこちらに寄ってきたかと思うと女は俺の隣に勢いよく座ってきた。俺のすぐ後ろの背もたれに片足を乗せ、スカートの中を惜し気もなく晒す。
「...見えてんぞ。恥とかねぇのかお前。」
「わかんな~い?見せてんの!それともキミには刺激が強すぎたかなぁ~!」
何とも思わなかった、と言えば嘘になる。記憶を失っていた間がどうだったかは知らないが、俺は女性経験がほとんどない。
それに加えて現在の沈みきった精神状態。ただただ反応に困っている。恋愛でなく親愛のみを抱いてきたためだろう。
一晩、一晩だけこの喧しさに耐えればいい。朝になったらコイツが起きる前にすぐ出ていくことにしよう。
「ねぇ、そういえば君、なにクン?」
「...睦月だ。」
「睦月君ねぇ~。私、
「睦月君、なにやってる人?やっぱ学生?」
「話さなくてもいいっつったろうが...教えられねぇんだ。」
「なんだよぉ~意地悪!私だけ言うの不公平じゃん!」
「まーいいや~。私ね、キャバやってるの!」
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