第六章「灰になるまでは」

第62話 脆き団欒

────「晴笑の家」調査終了から一ヶ月後。


「.....はァ。」


 リハビリを兼ねたトレーニングを終えて、今の今まで詰まりきっていた息を吐き出してからいつものスポーツドリンクを流し込む。九月になり、空気が涼しさを帯びてきた。

 まだ表面保護のための革製グローブが手放せないが、左手はかなり治癒してきたようだ。

 剥がれた部分の皮膚はプラスチックにコーティングされたようにツルツルとしていて、まだ赤い。下手に動かせばひび割れてしまう。医者には異常な回復力だとバッサリいかれた。


 徐々にこの左手を庇いながら動くスタイルを正していかなくては。だが身のこなしは決して鈍ってはいない。大丈夫だ、俺ならやれる。

 坂田にも対等に渡り合えるようになってきたし、尊とのパトロールも順調。この間なんか引ったくり犯を捕まえた。

 こちとら大事なモンを引ったくられそうになったがある、余裕で追い付いて逃げる背中に飛び蹴りをくれてやった。


「お疲れ~。ほいっ。」


 戻ってきた坂田が、近くにある自販機で買ってきたアイスクリームを投げ渡す。この日々が始まったのが夏だったので、いつしかトレーニング終わりにはささやかなご褒美としてこれを食べるのが習慣になっていた。

 一際冷たい風が吹き、包装を剥がそうと伸ばした手を止める。しかしこのまま溶かしてしまうのももったいないので、俺は仕方なく封を切った。


 滑らかなバニラアイスに歯を通し、濃厚な風味と甘さを味わう。だがそれには身震いが伴ってしまうのも事実である。


「なあ、坂田。」


「んー?」


「もうそろそろ、アイス...やめねぇ?別に美味いんだけどさ。もう秋ンなりかけだぜ。」


「そーだね、確かに。私は暑がりだからまだ食べるつもりだけど。」

「じゃあ明日から買ってくるの一本だけにするけどいいの?」


「....まぁ欲しい時は言うわ。」


「なにそれめんどくさぁ。」

「.....?」


「それはどっちの意味!?」


 いきなり遊び半分で向けられる軽い脅しに、おののきを包み隠すようにアイスをかじり首の関節を鳴らす。

 すると、マンションの部屋から尊がバッグを抱えて飛び出してくるのが見えた。少し話しすぎたのか、向こうがせっかちなのか気まぐれなのか、とにかくこれからパトロールの時間らしい。


「ふわっちぃ!!パトロール行くぞぉお!!」


 距離を詰めるのを待たずに元気一杯に叫びながらこちらに走ってくる尊は、慌ててブレーキをかけて足を止めた。

 散々迷ったが、俺は橘から聞いた彼女が義理の妹である事実を打ち明けることにした。しっかりとテーブルを挟み、面と向かってだ。

 話してすぐは尊も戸惑っていたが、そのしばらく後には俺の呼び方をこれからどうするかを真剣に考え始める始末だった。

 「兄貴」だの「お兄ちゃん」だのなぜか俺に対して色々案を投げ掛けていたが、結局は呼び慣れた「ふわっち」に落ち着いた。


 坂田はこのことを既に知っていて、橘と話し合った上で黙っていたらしい。だからなんでそうあんたらは大事なことを隠したがるんだ。

 知っておかなければ面倒なこともあるだろうに、それが血の繋がりなら尚更のことだ。


「悪い、いっ、行ってくる!」


「行ってきまぁ~す!」


「はーい、行ってらっしゃい。」


 俺は尊に手を引かれながら商店街を練り歩く。いつもの日常。ガラガラなのに潰れないブティック、揚げたてのコロッケ、アーチを描くガラス越しに見える青空。

 全てが普遍的で、かつ素晴らしい。自分がそんな日常の裏側を覗かなくてはならない役回りであることを毎度忘れそうになる。


 盛夏と合流してから、何気ない話をしながら町を見て回るいつもと変わらないパトロール。

 本日も異常なし。町はいつも通り変わらず平和で、それを保っているのは俺達だ。そしてそう言い聞かせられるだけの根拠を持っている。

 それは勇気。他の追随を許さない心の強さを力にしている。


 パトロールを終えて俺達が部屋に帰ろうとすると、玄関のドアの前で橘とバッタリ出会った。どこか緊張した面持ちを見せ、サングラスを取って襟元に引っ掻け、片手を上げて会釈をする。


「...親父...!何しに来た!」


「まァまァそう構えんなって。今日は折り入って話があって来たんだぜ。」


 尊のこの反応、橘とは仲があまりよろしくないんだろうか。その理由はおよそ想像がつく。

 姿を消していた俺を探すことに注力しすぎた結果、家庭を蔑ろにしてしまったことに対して怒っているんだろう。

 二人の細かな胸中は定かではないが、橘が申し訳なさを抱いていることは確かだ。尊がこんな態度になるのもごくもっともな事。

 数秒の間睨みをきかせ、観念したように尊は部屋の鍵を取り出した。


「...お母さんならいるけど。」


「一応、入ってもいいか聞いてくれないか?」 


「えー....わかった。」


 尊だけが中へ入り、坂田と話しながら歩いて戻ってくる。坂田の面持ちは暗くも明るくもなく、侮蔑でも喜びでもない視線を向けていた。


「...入って。話あるんでしょ。」


「ありがとう。」


 俺達は部屋に入る。橘は常にマナーを遵守したような丁寧な立ち振舞いをしており、それでいて落ち着きのなさが滲み出ていた。

 テーブルを挟み向かい合って座る。正座したまま固まっている橘に坂田が茶を差し出す。


「...話って?」


「あぁ。実は、この四人で旅行に行こうと計画してるンだが...」


 すっかり冗談半分だと思って忘れかけていた、沖縄旅行の計画。

 頬杖をついて橘をじっと見つめていた尊の肩がぴょこんと跳ねた。相反する感情が入り雑じって葛藤を生んでいるようだ。

 眉間にシワを寄せたり待ち遠しそうに頬を緩ませたりを繰り返している。


「もちろん費用は全部俺が持つさ!霞と二人きりで話したいこともあるしさ...」


「...だったら電話なりすればいいでしょ?」


「なんつーか...ちゃんと面と向かって言いたいし、睦月の慰安旅行って意味もあるし...尊も旅行なんて行ってないだろ...?」


「どーいう意味だ!...行ってないけど、それはアタシが忙しいからだ!」

「お母さんがアタシを放っといてるみたいな言い方は止めろ!」


「...そういうことじゃない。」


「私は別にいいけど。二人は?」


「俺はもう話聞いてた。別に行く。」


「....ふわっちが行くならアタシも行く。」


「...じゃあ手続きしとく。今日のところはそれだけだ。長居してんのも嫌だろ、帰るぜ。」

「茶ーご馳走さん。」


 湯呑みの緑茶を飲み干して、サングラスをかけ直すと橘は立ち上がり、これといった感慨もなく出ていく。

 尊も坂田も特になにも言わない。俺はいたたまれず、急いで靴を履いて部屋を飛び出し、エレベーター前で立っていた橘を呼び止める。

 あの二人だって家族であるはずだ。俺を取り戻したとて、その事実は揺るがないだろう。

 それなのになぜ橘はあんなによそよそしくするんだ。


「待てよ...たっ...親父。」


「あー?どうしたわざわざ走ってきて。もしかして見送りかァ?」


「違う!アンタ、あの二人となぜもっと話してやらねェんだ!?家族なんだろ?」

「俺のせいで...俺のせいでアンタが、実の父親が疎まれてるってんなら...ッ!」


「やめとけ。」


 俺の真意を読み取ったかのように、橘は人差し指を立てて毅然とした態度で二の言を塞き止めた。その瞳の輝きは僅かな暖かみを見せるが、残りは哀しみで埋め尽くされていた。


「俺は、憎まれ役が似合いなのさ。」

「これでいいんだ。お前はただ、あいつらと仲良くしてやってくれればいいんだぜ。」

「それが俺の望みだ。お前が生きてるってことを実感するだけで、俺はいつだって嬉しくて堪らねえ。」


「橘....」


「今、無理して"親父"っつってくれたろ。心配すんな、俺はいつまでも、お前にとって甲斐性なしの"橘"であるべきなんだ。」

「じゃあな。今度は当日に会おうぜ。」


 橘は歯を見せてニカッと笑いながら、束ねた二本の指を振るキザなジェスチャーを見せてエレベーターに乗り込んでいってしまった。

 俺はその気配が消え去るまで、マンションの廊下で立ち尽くしていた。あの男はなぜ、ああまでして俺の事を想ってくれるんだ。

 記憶をなくし、思い出をなくし、真っ当な人間である資格さえ失いかけたこの俺に、なぜ。


 十五年前のあの話が嘘であると疑ったことは一度もない。あの人が俺の父親であることも。

 どう見たって無理をしている。自分が生んだ軋轢に苦しみながら、唯一救い出した俺という存在だけをよすがにして生きている。

 いつ崩れ去ったっておかしくない。だからこそ俺は絶対にくたばるわけにはいかない。

 尊のために。父親のために。良くしてくれる仲間のために。

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