第五章「負の遺産たち」

第52話 ステイクト

 ───15年前、特殊事象対策課発足以前。


 刑事、橘 丈一郎は苦悩していた。


 自身のオフィスルームの壁にかけたコルクボードに無数に突き刺さる風景、ピンぼけした人物の写真、あらゆる場所に幾重にもマークされた地図。それらに煙草の紫煙を吹き掛けながら腰に手を当てる。

 奴の現れる法則性、人となり、姿形を少しでも捉えるためにはここまでやってもダメなのか。この壮絶とも言える個人捜査の痕を見ていると自然と溜め息が出る。

 睦月が姿を消してから数年、ずっとこの個室のオフィスルームに布団を持ち込んで寝泊まりしている。無論、これは捜査のためだ。

 私情を持ち込むとして俺は捜査メンバーから除外されてしまったが、どうしても俺は諦めきれない。睦月を。

 部屋は、俺に同情した上司が空き部屋を貸してくれたものだ。処遇の決定を押し付けあった結果回ってきた貧乏くじだってのはわかっているが、感謝はしている。


 妻、郁梨とは互いの合意の上で別居している。彼女もまた優秀な刑事だ、破天荒の荒くれ野郎で通っていた俺に代わって、言ってもないのに的確に指揮を執ってくれていることだろう。

 俺は睦月を「矢嶋」から取り戻すことを望み、郁梨はそれに協力しようとした。だが俺はそれを拒んだ。

 避けられない危険、協調性の欠如。その全てを顧みた上でのこと。死ぬならば俺一人で十分だからだ。

 例え残されることになったとしても、彼女が俺の後を追うような真似をしないことは俺が一番よく知っている。


 だがそんなことは上っ面だ。俺は携帯電話を開き、二歳の誕生日を迎えたミコトの待ち受け写真を眺める。

 この子もまた、俺が未熟だったばっかりに運命を背負わされてしまった存在だ。個人的な聞き込み調査の過程で訪れた児童養護施設、当時そこで働いていたカスミと俺は出会ってしまった。

 俺達は話を聞くうちすぐに意気投合し、誓いの証左である薬指のプラチナを隠したまま欲望をぶつけ合った。痩せこけた心を押し潰すには大きすぎる罪悪感が、夜を越える度、研鑽の表れたその身体を抱く度に俺を弄んだ。


 俺に真実の愛なんて似合わないさ。なんて言い訳をするつもりはないが元より女好き、特にタッパの高く俺よりも強い女。

 郁梨だって永遠のマドンナと謳われ続けていたし、しつこくアプローチを続けた果てにようやく成就した関係だった。

 それでも愛していることには変わりはない。要は寂しかった。空いた隙間を埋めたかった。

 捜査にのめり込むこの数年間で、俺の精神はすっかり荒んで、弱り、爛れてしまった。

 つくづく意志の弱い人間だ、俺は。浮気の動機にランキングがあったなら上位に食い込むであろうものを次々と踏み抜いている。


 長く繋がった灰をコーヒーの空き缶につついて落とす。今はこの時間だけが唯一の安らぎ。

 俺は決めたんだ。睦月を取り戻すその日まで、絶対に二度と愛には甘えないと。再びこの一線を越えたなら、もう彼の目を見る資格は俺に残りはしないだろう。

 すると、部屋の扉をノックする音が飛び込んできた。急いでまだ半分ほどしか燃焼していない煙草を缶の縁に押し付けて火を消し、そのまま中へ放り込む。


「おはよう。邪魔するよ。」


 扉を開いて現れたのは、木知屋コチヤ ロク。俺の同期で、サスペンダーの似合う細身のシルエットと整った顔立ちから女子人気が高い男。柔らかな物腰と礼節を兼ね備えたこいつと、まるで正反対の俺と組んでるのを見られる度周りに悪態をつかれるのは恒例だ。

 木知屋は書類まみれのデスクの上に腰掛けて足を組むと、怪しい人物の情報が入ったと俺に一枚の写真を手渡した。これで何枚目になるか、これまたピンぼけした写真。

 長身痩躯にカーキのロングコートを羽織った、電柱にもたれ掛かっている男のように見えるが顔は見えない。


「二課の阪野バンノくんが寄越してくれたものだよ。街角で偶然撮れたんだってさ。」

「これを中継した郁梨さん、また上に怒られてたよ?アイツの肩をもつような真似をするなって。」


「...郁梨が勝手にやってることだ。俺には...」


「関係ないって言うのかい?君はつくづく素直じゃないねぇ。」

「今日も個人捜査に行くんだろう?有給取ったから、付き合うよ。」


「...いいのかよ、貴重な1日分だぜ。」


「このぐらい安いさ。私も君が一人で枯れ果てていく様を見るのは心苦しい。手を貸すよ。」


 俺は椅子にかけていたジャケットを持ち上げ、勢いよく袖を通す。そして胸ポケットにサングラスを引っ掻けるいつものスタイル。

 そんなだから新人にビビられるとこれまで何度言われただろうか、しかしこの服装は刑事である以上致し方ないもの。だが最低限のオシャレの足掻きはさせて貰う。

 木知屋の運転する禁煙の車に乗り込んで、写真の撮られた現場である喫茶店へと向かう。車を路肩に停め、入店しとりあえずコーヒーを一杯注文する。

 そして店員や居合わせた客に写真を見せて回ってみるが、有益な情報は得られないまま。


 確定情報のない地道な捜査はもう生活に組み込まれているが、やはり写真の男が矢嶋である決定的な要素を含んでいない分感じられる意義が次第に薄れていくのは致し方ない現象だ。

 もう正午に差し掛かろうとしている、針が上を向いた腕時計を一瞥し革の座席に身体を放り投げるように座り、既に冷めてしまったコーヒーを飲み込む。


「収穫はない、か...なかなかいいヒントだと思ったんだが、惜しいね。」


「俺は"矢嶋"の姿すら見てねェからな...名前も踏み込んだ刑事が名乗るのを聞いただけ...」

「それも元俺ん家、暗闇の中でだ...」


「すまない、無駄足を使わせてしまったな...」


「いやいや、有難ェ話だぜ?郁梨とお前だけだ、俺に力貸してくれんのはよ...」

「"カーキのロングコート男"、か...」


 回るシーリングファンを背景にして写真を眺める俺がそう呟いた瞬間、背後でカップの中身を噴き出す音が聞こえた。何事かと思い振り返ってみると、激しくむせながらテーブルに飛び散った紅茶をペーパーナプキンで拭き取っているスーツ姿の小柄な女性がいた。

 セミロングの髪は綺麗な栗色をしていてヨレひとつなく小川のように流れ、晒す醜態とは裏腹に目を引く美人顔。

 一頻り咳き込み、鼻をかみ、周囲の客に生暖かい視線を浴びせられた後、女性はようやくこちらに向き直って口を開いた。


「あ、あなた...、今なんて言った!?」


「え...?"カーキの"、"ロングコート男"っつったぞ...?」


「やっぱり!!ほ、ほら!!」


 女性はなんと、俺達が捜査の足掛かりにしようとしていた手元にある写真と全く同じものをこちらに見せた。驚きと歓喜の入り交じった表情、俺もきっと同じ顔をしていることだろう。

 それにしてもなぜ、警察内、しかも俺達を含む数人の間でしか出回っていないはずの写真をこの女性が持っているんだ。外部漏洩はありえない。それをする意味が俺達にとって皆無だからだ。

 女性は食べかけのミルクレープの皿とティーカップ、ソーサーを手にこちらの座席に移り、慌ただしく懐を漁ると警察手帳を取り出して見せた。


 そこに書かれた名前は「藤波フジナミ 志穂シホ」。奇妙な運命の巡り合わせもあったもんだ、俺達はこの名前を、同期であるこの人物の存在を知っている。

 まず俺と木知屋、そしてこの藤波 志穂は、共に警視庁内で「某世代三大問題児」として括られている存在だ。名前だけは聞いたことがあって顔もしっていたが、面と向かって話すようなことはこれまででなかった。

 何せ括られ方が気持ちのいいものではないし、「おう問題児!俺もだ!」と絡みに行くのもおかしい話だ。向こうも同じような心境であったはずだが、こんなところで出会うとは思いもしなかった。


 藤波は、次々と浮かぶ疑問をぶつけようとした俺達を突き出した掌で制止したかと思うと、皿のミルクレープをフォークで口に押し込む。

 欲張りな子供っぽく、頬袋を膨らませて。俺はそんな光景にどこか親近感のような気持ちを覚えた。

 彼女がの一角である証拠を、たった今目の当たりにした気がしたからだ。もがもがと言いながら、カップに残ったわずかな紅茶でそれを流し込むと、満足げに口を尖らせて甘い匂いの吐息を吹いた。


「あなたたち、橘 丈一郎と木知屋 六でしょう!?なんで問題児の二人が、この写真持って走り回ってるの!?」


「イヤイヤ、そいつはこっちが聞きてェことなんだよ....」


「あっ、そっか...阪野の奴に写真ムリヤリ現像させたの私だったわ。」


「彼、"のせいで、朝から並んで買った特上カツサンドが食べられなかった"とさっきぼやいていたが...君か。」


「うん。そーだよ。橘くんって郁梨さんの旦那さんなんでしょ?なんであんな美人のお嫁さん放っぽってるのさ~!」


 本筋もかなぐり捨てて雑談に持っていこうとするそのに思わず圧倒される。元々紅茶噴きながら突っかかってきたのはそっちでしょうが。


「ちょっと待てよ藤波...さん。今そこじゃねェだろう!?」

「なんでアンタがその写真を、後輩のささやかな楽しみブッ潰してまで手に入れたかったのかって聞いてんの!」


「そりゃもちろん、捜査のため。」


 一転して落ち着いた雰囲気を纏う藤波。そして厚かましくもキャラメルラテを注文すると、ようやく写真を欲した理由であると自らの持つ過去についてを語り始めた。

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