第26話 そして彼女の音は天に届く

 作業場に戻ったイツキはヴァイオリンの分解に着手する。

 分解――組み立て。

 イツキの見立て通り、なんの問題もなく終わった。眼前には、グレーリッツ邸で見たままのヴァイオリンがある。


「ほえー、すごいね……。分解前と完全に一緒だ」


 感嘆の声を上げるリティアに、イツキは言葉をかけた。


「弾いてもらえますか?」


 ここはルフェイン楽堂の作業場だったが、軽く音を確認するくらいなら防音室まで行く必要もなく、みんながやっている。

 リティアはヴァイオリンを手に取った。

 グレーリッツ邸で響いた、美しく鮮やかな音色が作業場に広がる。

 実に素晴らしい音色だった。

 極上の音ならば聞き慣れている楽器職人たちですら、呆然とした表情で手を止めてしまうほどの音色だった。

 リティアが音を止めた。


「ん、完璧に元通りだね」


 元通りでなければ、いつもの雑な音色だったはずだから。

 グレーリッツとの約束は果たした。

 そして、分解したヴァイオリンの構造は全てイツキの頭の中に入っている。イツキの技術なら、それをそっくりそのままコピーすることなど造作もないことだ。

 コンクールの決勝まで3ヶ月ほど。

 それまでにイツキは己の技量を駆使して、最高傑作を作る必要がある。


「……リティアさん、決勝の日までには必ず間に合わせますから」


「無理はしないでほしい……ううん、違うな」


 リティアは首を振った。


「ごめん、本当に期待しているから」


 その言葉はイツキにとって心地よかった。ありきたりな気遣いよりは、心の底からのエゴが聞きたかったから。

 それこそが、リティアの渇望だから。

 それこそが、イツキの応えるべきモチベーションなのだから。


「任せてください」


 イツキは静かにほほ笑んだ。

 そして、月日は流れ――

 コンクール決勝の当日となった。

 ヴァイオリンは完成した。店にやってきたリティアに、イツキはヴァイオリンを差し出す。


「どうぞ試してみてください」


 興奮気味の様子でリティアはヴァイオリンを受け取り、イツキやリッツーとともに防音室へと入る。

 息を整えた後、リティアが演奏を始めた。

 それは、ただただ『最高の演奏』としか表せないものだった。

(ああ、音符が輝いているような感じだ)


 イツキは自分の仕事だということも忘れて聞き惚れた。リッツーも瞳を閉じて、うっとりとした表情で聞き入っている。


 今まさに、楽器の女神に嫉妬されるほどの才能はここに結実した。


 その音色の鮮やかさもイツキの心を揺らしたが、それ以上に感じさせてくれたのは演奏者であるリティアの表情だ。

 彼女の表情には喜びだけがあった。

 最初にヴァイオリンを弾いてもらったとき、彼女の表情には苦悶だけがあった。それが、今は真逆だ。生まれて初めて踏み入れる、美しき音色の草原を駆け回る無邪気な子供のような様子だ。


(……うん、素晴らしいな……)


 曲は鳴り止まない。まだ続くと思っていたら――

 不意に演奏が止まる。

 ぶつんと途切れたかのような、不思議な終わり方だった。


(え……?)


 何が起こったのだろうとイツキがリティアに目を向けると、手を止めたリティアが涙を流していた。


「う、う、う……」


 その涙の正体は、容易に想像がつく。

 もちろん、嬉し涙だ。

 今までずっと届かなかった憧れの場所にリティアはついに至れたのだ。その喜びが涙になるのは当然だ。

 だから、イツキの告げるべき言葉は決まっていた。


「おめでとうございます、リティアさん」


「……あ、ごめんね。急に泣き出したりして」


 すんすんと鼻をならしながら、リティアが続ける。


「でもね、本当に嬉しかったんだ。ようやくここに来れた。何度も諦めた場所に来れた。自分を信じて、音楽の道を続けてきてよかったよ!」


 もうきっと我慢できなかったのだろう、リティアは腰を下ろして大声で泣いた。

 それほどに、彼女は苦しみ続けていたのだ。

 リッツーがイツキの肩をちょんちょんと叩く。イツキがちらりと目を向けると、小声で、


「お疲れさん。すごい仕事したね」


 と言ってくれた。

 ああ、ようやく仕事が終わったんだな、とイツキは満足する。そして、自分の仕事が誰かを幸せにした実感もまた。

 誰かどころか。

 きっと、覚醒したリティアはこのミューレの街中を幸せにするだろう。

 その手伝いができたことはイツキにとって誇らしかった。

 リティアがようやく落ち着きを見せ始めると、リッツーが近づいて彼女の肩を叩く。


「悪いけどさ、まだ終わってないよね? 本番はこれから、コンクールの決勝なんでしょう? 優勝したときのために涙はとっておこうよ?」


「……そうだね」


 リティアが立ち上がる。


「ありがとう、イツキ、リッツ―。このヴァイオリンがあれば、わたしは最高の演奏ができる。絶対に優勝するから」


 その表情には自信だけがあった。それ以外の未来など見ていない――存在はしない。そんな強い意志を感じさせる。

 それをイツキは過信だとは思わなかった。

 それを断言するだけの才能と鍛錬が彼女にはあるのだから。

 イツキはにっこりとした笑みを浮かべる。


「はい、必ず優勝してくださいね。だって、ヴァイオリンのお代は優勝賞金なんですから」


「あ、そうだった!?」


 完全に忘れていた様子でリティアは頭を抱えた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「行くわよ、イツキ」


 その日、イツキはロゼとともにコンクール決勝の会場に向かった。一緒に観覧しようと誘われたのだ。


「お待ちしておりました、ロゼ様」


 きっと会場のスタッフでも上位に位置するだろう、仕立てのいい中年男が丁寧にロゼを迎え入れる。

 去年の観客席――に向かうはずもなく、そのまま、高所から見下ろすことができる、個室の貴賓席へと連れていかれた。

(ほへー)


 初めて入るので、イツキは無駄に興奮してしまう。完全にホテルの一室のような感じで、食事もアルコールも食べたい放題だ。

 部屋でコンクールの開始を待っていると、もう一人の客がやってきた。


「お邪魔するよ」


 振り返ると、部屋の入り口に巨匠グレーリッツが立っていた。


「グレーリッツさん!?」


 不意打ち気味の登場だったので、イツキは思わず驚いてしまう。

 その様子を見たグレーリッツがロゼに目を向けた。


「なんだ、言っていなかったのか?」


「驚かせようと思ったからね」


 うふふふふ、とロゼが笑う。

 ミューレの大物2人に囲まれて、イツキの肩身は狭かった。

 やがて、コンクールの決勝が始まった。

 予選を勝ち上がってきた8人が順に同じ課題曲を演奏する。

 同じ曲だけに、残酷だった。


「次はエントリーナンバー189番リティアさんです」


 リティアの演奏は、明らかに他のメンバーとは格が違っていた。何者も寄せ付けない、圧倒的な力。

 もう、誰が優勝かわかってしまうだけの――

 曲が終わった後、明らかに他を圧する拍手が鳴り響いた。


「素晴らしいな」


 巨匠がぽつりとつぶやく。それは無意識のうちに口からこぼれた成分100%の本音だった。


「楽器を提供した甲斐があったよ。さすがだな、イツキ」


「ありがとうございます」


「正直なところ、あれを壊してもらってもよかったと思っていたんだ。至高の楽器を作ってもらえる機会との引き換えならな、だが――」


 ステージに立つ、満たされた表情をしているリティアに巨匠が視線を向ける。


「こちらのほうがいいな。10年後、この街で最高と評されるヴァイオリニストの誕生を目の当たりにできたのだから」


「商売としてもね」


 ロゼが言い添えた。


「あのヴァイオリンは女神の嫉妬に苦しめられている演奏家たちへの救いになる。製法をまとめておけば、演奏家たちの光となるわ」


 それは自分の仕事だろうと、イツキは思った。それが人々を救う事実が何よりも誇らしい。


(この世界にきた――きたおかげで、救われる人がいるんだ)


 自由曲による決勝本戦が始まった。

 だが、何も波乱はなかった。予選で見せた実力のままにリティアが他を圧倒しただけ。

 結果は――


「本年度の優勝者はリティアさんです!」


 誰もが予想した通り。会場にいる客も含めての満場一致でリティアが栄光の頂に立った。

 舞台に立ったリティアが満員の会場に向かって挨拶を交わす。


「このような過分な賞をいただき、本当にありがとうございます。今日この日が来ることを諦めそうな日もありましたが、支えてくれている人たちのおかげでここまで来ることができました。これからも皆さんに素晴らしい音楽を届けたいと思っていますので、ぜひ応援をよろしくお願いいたします」


 会場を覆い尽くすかのような拍手が響き渡る。

 リティアはただ喜びだけの表情で、両手を振って歓声と拍手に応えていた。

 今日ここに新たなるスターが現れたのだ。


(おめでとうございます、リティアさん)

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