にじむ境界

にじむ境界(1)

「水さえあれば生きていける気がする……」


 という妙な自信に満ちた独り言が正次の口から適当な声色で発せられる。

 まあ事実そうとまでは行かないのだろうが、それくらい彼の肉体は強靭であり生命力があった。多少の日銭があれば死なない自負があった。

 何も特筆してやりたい事も見つからぬ……と。どこか中途半端な気分がひどく彼の中を満たしていた。


 しかしこの吉戸正次、いくらなんでも昔からそうであったわけではない。

 青春に身を任せ肉体を鍛え無為に強さを求めた事もある。

 しかして――今や、多少の腕っぷしの強さなど役に立つとは思えない。

 拳法紛いの戦い方は格闘技やその試合には適合せず、さりとて大人にもなって喧嘩を求め続けるほど戦いに餓えているわけでもなかった。


 しかし、それ以外にさしたる能がないのも事実。


 我流混じりの半端な拳法などと言うものが、実生活で何の役に立つだろうか。いや、物によっては役立つレベルまで研ぎ澄まし使いこなせる場合もあるだろうが、それほど唯一無二というわけでもなければ器用でもないのがダメだった。

 つまりは、特技や趣味止まりに過ぎないのである。

 大学を卒業してぶらぶらとアルバイトをする毎日。

 不満らしい不満があるわけではない。退屈だと言い切れるほど余裕綽々な生活でもない。


 つまり……正次は使いどころがない自身の長所とも言うべき能力を「なんとなく」持て余していたのだ。

 どこか座りが悪いという、気まずさという感覚が一番近い認識だろうか。

 しかしそれをどうにかしようとする気にもならず……そもそもそこまで日頃から強く意識している物でも、さしたる不便やら不快感があるわけでもなしと、半ば錆びついたまま彼の能力は放置されていた。

 人によって打ち込んできたジャンルや程度のばらつきこそあれ、それはさして珍しい事ではない。己の得意なもの一本で生きていけるとは限らない。そんなありふれた話。本人からして悩みとも言えるかどうか怪しいレベルの問題。

 なのでさしてそういった思考を深く留める事もなく、その体力のある肉体を軽やかに動かし――今日も自宅から近いバイト先の喫茶店へ通う。


「あ、正次さん。今日はおでかけで?」

「ああいや、店が休みだってのを忘れていて」


 ぼけっとしていてバイトの日を間違えてしまった。真実そうであるのにどこか言い訳じみた口調になってしまう。僅かな慌て。

 どこか不思議な雰囲気をしたこの――田黒という女性の前ではそうなってしまう。

 不思議と言っても、彼女に何かおかしい言動やら特別な身体的特徴があるわけではないのだが……精々が艶やかな長髪程度だろうか。何か妙な均一した特徴の薄さが、逆に正次の眼にはやや印象的に見えた。


 結局その日は適当に挨拶をして、正次はとぼとぼと帰った。

 ふと、帰宅の道中にコンビニエンスストアで特に意味なく酒を買って飲む。

 だらだらと夕飯を食いながら飲み煽る。

 さほど酔いもしないが面白くもない。こういうのはまあ、アルコールの耐性さえあれば慣れ次第で好きになる物だとは思うが、どうにもそこまでして飲む気にもならないのが本音だった。

「寝酒だ寝酒。身体に悪いが知るか」

 独り言を無意味、かつ無表情に呟いて無理に目をつぶる。

 どうせ朝になれば今度こそバイトの日なのだから、そちらの方が気楽だと考えた。

 自棄とも投げやりとも言えぬ奇妙な感情が、大雑把な雰囲気で彼の肉体を支配していた。

 意識がうっすらとぼやけていく――次に目を開ける時は、朝だ。

 それでいい。ありもしないと言える程度のボヤけた悩みに押しつぶされるよりかはずっと、この方がそれらしい。自分らしいんだ。

 正次は眠りにつく直前、そんな意味の無い思考を頭によぎらせた。


 ………………………………


「既に身体は起きてるでしょう? 吉戸正次きっどせいじさん」

 朝の日差しと共にどこか聞き覚えのある声が耳をうつ。

 はて、夢か。

 それとも、寝ぼけか?

 その実両者にさしたる違いはない。だが、思考の鈍化した彼にとっては恐らく大きな違いなのだ。徐々に正次の思考は覚醒へとするする傾いていった。

 眩しさに目が慣れると、頭の横には座り込んでこちらを観察するように凝視する女性の顔がある。

「…………」

 ここは正次の部屋である。

 彼女はバイト先の女性、田黒である。

 見慣れた顔と見慣れた部屋が見慣れない光景を目に映していた。

(如何しろと言うんだ)

 誰もその問いに返答をしてくれない。独白なのだから当たり前ではあるが。いやこの場に少なくとも正次自身以外の存在は居るわけだから傍白か。


「もし?」

 訝しまれる。

「……バイトの時間ですか?」

 などという無難だが状況をどこまでも棚上げする事に徹した正次の間の抜けた問いかけに、いえと律儀に田黒らしき女性は返答した。どうやら幻像の類ではないらしい。

「お迎えにあがりました、貴方は新しい仕事に受かったので」

 私はそこの先輩ですよ。そう田黒は言った。

 だが得心するでもなく、正次は一旦田黒を部屋の外に出し、キツネにつままれたような気分のまま服を着替え顔を洗いその他諸々の準備を終えて話を聞いた。

「それで仕事とは? というか転職活動をした覚えは――」

 

 ある。

 

 ふとそんな確信めいた言葉が脈絡なく脳裏に浮かんだ。

 正次は思わずびくり、と反射的に痙攣のような挙動を見せ、それに「ああやっぱり」とでも言いたげな眼差しを田黒が向けた。

「では仕事場に行きましょう。正次さん」


  ❖

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