さよならの貌(カタチ)

令狐冲三

第1話

 佳苗は改札を抜け、駅前のロータリーに出ると、目的の喫茶店を探して歩き出した。


 焼けつくような真夏の陽射しが、首筋に執拗に食い込んでくる。


 彼女はたえず汗ばむ項や腋をハンカチで拭っていたが、首から背中にかけて這い上ってくるなまぬるい不快感をどうすることもできなかった。


 非常な倦怠だった。


 なぜそんな感覚に囚われねばならないのか彼女自身さだかではなかったが、原因とおぼしきものもうっすらと自覚してはいた。


 これから約束の喫茶店へ行き、3ヶ月前に別れた達彦に会うという行為から、自然とそんな感情がわいてくるのだ。


 だが、なぜそんな気持ちになってしまうのか。


 彼女にはそのことがどうにも納得できないのだった。


 今日という日を、佳苗はどれほど心待ちにしていたことだろう。


 4月から大学生になり、東京での独り暮らしがはじまったことで、達彦とは物理的にまったく会う機会を得られなくなっている。


 また、仮に地元へ留まっていたとしても、以前のように彼と自由に、のびやかに恋愛することはまず無理だろう。


 それは動かしがたい事実だった。


 だからこそ、今でも心から慕い続けている彼と久しぶりに会える歓びは、どう形容のしようもないほど彼女にとっては大きなものになるはずだった。


 なのになぜ、その大きな歓びが、倦怠などという投げやりで不誠実な感情へと導かれてしまうのか?


 佳苗はそれ以上掘り下げて考えるのをやめた。


 あえて疑問を封印して、とにかく喫茶店の看板を探した。


 相変わらず、強い陽射しが頭上から襲いかかってくる。


 ハンカチをもつ掌までも、じわじわと汗ばんできた。


 だがそれは、この物狂わしい真夏の暑さのためだけだったろうか。


 ほどなく、佳苗は約束の喫茶店を見つけ出し、軽やかな木製のドアをあけた。


 壁に飾られた数枚の水彩画が、彼女のほうへ涼しげな微笑を向けてくる。


 彼女は一瞬ホッとしたものの、すぐにまた例の不吉な倦怠が取り巻いてくるのを感じた。


 彼女はしゃんとして、あたりをみまわした。


 3時半。


 時間通りだったが、達彦の姿は容易にみつからず、佳苗はしばし当惑した。


 が、なんということはない。


 彼はすぐ目の前の水彩画の真下のテーブルに、新聞を読みながら座っていたのだった。


 以前の達彦は、佳苗が彼のアパートを訪れるたびに、怜悧な横顔を崩し、一瞬おかしいほどはにかんだ表情になって、


「よく来たな」と、ささやくようにいって、そっと抱き寄せてくれた。


 佳苗はその瞬間を、スッと魂が抜けてしまいそうなほど好きで、彼の優しさを肌で感じ得ていたと信じている。


 あるいはドアをあけた瞬間、彼のその表情が思い浮かび、もはやそれは二度と自分に向けられることはないのだという諦めから、無意識に水彩画へ目をやって、そこに彼の幻を映そうとしていたのかもしれない。


 そんな自分を佳苗は妙に惨めに、不憫に思うのだった。


 感傷に浸る彼女へ、達彦は先に声をかけてきた。


 サーファーらしい浅黒く日焼けした肉づきのよい胸を清潔な白いシャツに包み、意外にもあの頃と変わらないはにかんだ表情で、


「こんにちは。立ってないで座れば?」


 その瞬間、思いがけぬ彼の言葉や表情に彼女は返す言葉を忘れ、汗じみたハンカチで目頭をそっと抑えた。


 懐かしい達彦の声が緊張を和らげ、佳苗を嗚咽へと傾斜させた。


 ずっと感じていたあの倦怠感は、むしろ畏怖に近いものだったかもしれない。


 3ヶ月という時と、彼の結婚。


 二つの現実が彼女を圧迫し、萎縮させ、いまや喘ぐことと諦めることしか出来なくなって、自然に倦怠という感情へ昇華してしまったのかもしれない。


 彼女は自分の感情の起伏の安易さに、一種軽薄なものすら感じざるを得なかった。


 佳苗はハンドバッグをテーブルの隅に置き、うつむき加減にゆっくり腰をおろした。


 その動作が緩慢すぎたせいで、座り方や視線のやり場にぎこちなさが生じた。


 これから二人で積もり積もった話をしようというのに、不自然な体勢ではどうしようもない。


 当惑する彼女の脳裏を唐突に走り抜けたのは、達彦とはじめて会った3年前の記憶だった。


 それはまるで、驟雨のようだった。

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