三人目……(四)【井の中の弊穏蛙】
◆◆◆
深夜の苔むして古そうな井戸の底。
物音一つしない、音がしたってウチが動いた時の水音くらいしか響かない静穏静寂な
ほら『住めば都』とか言うけどさ、その通りだったみたいだわ。いやまぁ、ウチはここに住み始めたってわけじゃないけど。せいぜい十数分くらいをヒザを抱えて座ってただけなんだけども。
――あーホントに、良い場所って思う。
少なくとも実家のどの部屋よりも良い場所だ。
この場所の欠点をあえて挙げるなら、石材質の壁と地面が固いから、全裸で座ってるウチの背中とお尻がだんだんとイタくなってきてるとこ。
でも欠点を差し引いても良い場所だわ。何より嫌な視線が無いのが良いなって。その視線がいちいち煩わしくなくていい。その視線に怯えなくていい。その視線から目を逸らさなくていい。その視線に居場所を追われなくていい。その視線に大切なものを奪われなくていい。その視線から逃げなくていい。その視線と一緒に浴びせかけられる、心無い言葉を聞かなくていいし。その視線の主に、ウチ自身の存在を絶対に否定されたりしないからいい。
――けど、でもさ。ずっとは居られないし。
さすがに当然、井戸ん中で人は暮らせないわ。
今が何時何分なのか知らないけども。空が明るくなる前には外に出て、服を着なきゃなぁ。
じゃなきゃ早朝出没した露出狂な痴女として扱われかねないわ。そんなん人としての前に年頃の女として恥ずかし情けなさ過ぎ。いくらこんなバカでアホな人間の失敗作でも、失敗作なりの自尊心やら羞恥心くらいウチにも備わってるから。
そいで服を着て、逃げずに登校してよ。一人の人間としてちゃんと、けじめを付けて『ウチはイジメをしてました』って認めて破滅してやる。
それがウチを売った友達への『当て付け』で、自殺未遂までして
……だから。やっとこさウチは手を伸ばす。
外へと続いてるロープを掴んで、力を入れる。
――ホントはずっと、ここに居たいなって。
いやそれ嘘だ、嘘じゃないけどアレだ。ただ人並みの居場所が欲しかったのになぁて。なのに外には居場所なんて無かったし。その居場所を与えてくれる愛なんて壊れ物か偽物だけで、昔なら頑張って間違わないで賢くなっていい子にしてたらさ、手に入ったかもなんだけど。後の祭りよ。もうウチの手の届くとこには幸せな友愛も親愛も無いんだ。
と、暗い思考の
「は? あれ……?」
ロープを掴むウチの手が、また
まだ離してないけど、手に力が入らない。
――『救済か破滅の結びをもたらす』とか。
『御客様の全てを対価に』とか言葉を聞いたな。
これ『離したら』もう『どうにかなっちゃって』元のところには帰れはしない。全て自己責任の、大抵はろくなことにならないメニューの結果。入っちゃった
バカな頭で考えたものじゃなくてよ、きっと直感的なやつで『ダメだダメだダメだウチッ!』ってウチ自身がどっかで何か叫んでるんだけども。は? ウザすぎだろ。ウチは無視を決め込んだ。だってウチがこれまで信じたもんって、信じようとしたもんってのは大半がダメだったわけじゃん? 信じてマトモな結果になった例がないわけだし……。
「……あ」
だからウチは、ロープを離したわけ――。
もうほんのしばらく、ここに居ようって――。
――それが、ウチがウチとしての終わり。
ウチがウチとのお別れだったわけよ。ウケる。
どくんって身体が跳ねて、
「――はっ? な、なんだよ……?」
真っ裸の恥ずかしい全身がゾワゾワとして。
ウチはまず、ロープを離した方の右手の指に違和感みたいのを感じたわけ。その後に左手も。
けどその違和感の正体が謎で、じっと見てたら手の甲のほんの一部分だけが何となく緑色っぽく染まってんの。気のせいかと思ったけど、確かに緑。あー壁の苔の色でも移ったのかって思って水で洗おうとしたんだけど。何故か色は落ちなくてさ。
逆に水に浸して擦ってみたら、広がんのよ。その緑色がどんどん大きくなって。しかも異変は片方の腕だけだと思ってたのに、両腕とも緑色が同じように広がってきてることに気が付いた。ホントに驚いて、緑色になっちまったウチの肌を触るじゃん? そうすると人間の肌じゃないみいみたいに、なんかペタペタしてんの。で、触ってるうちにぬるぬるしてきたわけ。ウチはその瞬間にぞっとして、
「――ウチ……これ……は? なッ?!」
焦りながらも『この水のせいなのかッ?』って考えてみてさ。ヒザ立ちをしてた体勢から、ウチは慌てて立ち上が……れないで転ぶ。普通に立ち上がろうとしたのに二本の足で立てなくて。バランス崩して前のめりに転んで、水底に両手をつく。
その頃には水に入ってない腕の方まで両腕ともに緑色が上がってきてるし。ふざけんなって。なんとかそこから頑張って立とうとしても、ヒザが立つ為に使う筋肉の動かし方を忘れたみたいにウチの言うことを聞いてくれなくなってたの。
「嫌ッ! クソっ、助ァ、じゅゲぇ……ェ!?
ん……んべ……ェッ! ふァ、ん、べェ?!」
人間こういう差し迫った状況になると、ウチみたいのでも勝手に口から『助けて』って誰かに救い求める感じのことを叫ぶんだな。うわウケる。けど言い切る前に、急に
「んふぁ、なン、ふェふぁ、ふォ……?」
口の中に舌をしまえないし。どろどろした涎が舌から流れて糸を引く。キモっ、キモいよ。
信じられない。自分の身体の一部なのに。
もう驚きとか恐怖とか困惑とか、そんなんだけじゃとても表現し切れない色々様々な感情がウチのバカアホな頭の中で一気に溢れて爆発して、ぶちんって心の糸が切れちまった音がした気分。それで端を発して精神の自己防衛とかでか、狂わないようにか感情が冷めてくと、変わってく自分の身体を客観視してるみたいになってるウチ自身を自覚した。
「……こりェ、へロォ、ウ、うひのォ……?」
伸びたベロを触ってみようとすると、水から出した手のひらは完全に緑色に染まってて。その手のひら、手首、腕、ひじ、二の腕って辿って視線をズラして行っても全部がもう緑色で。さらにそこから進行してウチの胸や腿や股なんかも、とても人間の肌じゃないキモい緑色になりつつあった。乳房が潰れて乳輪が薄くなって、お腹がぽよんって出てきて、ウチ女の子なのにさ。これもうキモい怪物じゃん? で、これ悪い夢なら『さっさと覚めてくれ』って緑色のぬるぬるベタベタな手で顔を覆ってみたら、その指がみしみしって音を立てて形を変えてんの。そこに加えて、長くなってく指と指の間に水掻きみたいなキモい膜まで張ってきて……。
「うひぇ……うひィ……かェふぅ、いィ?」
……そこまで来たら、自分の身体がこれからどうなっちまうのかってのが何か想像つくよ。うわっあーやだやだ。
蛙……。なんて。やだ、いやだっ……!
「ここ、かふァ、でへばァ……もほれふぅ?
にんへんィ、ふィ……もほれ、ふぅ?」
水というか、この『
ロープが目に入って、今さらにそれ登ろうと考えたんだけど。もうね、物を上手く掴めないや。
石壁を登ろうとも考えたけど、普通の蛙なら壁にはり付いて登って行けそうでも。今の蛙人間なウチの体重だと無理だっての。ズリ落ちる。
「いふァ……ッ!! ァゲェ、ヤぁふァ……ッ!!」
――蛙になるの確定。おしまい。
失敗作らしい末路だなこれ。バカ過ぎ。
「そ、んふァ……ゲォ、うひぃ……ヤぁあァ!!」
目頭が熱くなって、視界がぼやけると大粒の水滴が頬を伝って落ちてく。そっか悲しいんだウチ。
泣いたってそれでも、身体は残酷に変貌してく。
身体の中から、ぼきぼき、ばきばきと音して。きっとたぶん肌の下で筋肉とか骨とか、そのもっと中とかが大変な事になってるな。あーウケる。なりふり構わず『誰か、助けて、助けてよ!』て呂律がバカになった舌で叫ぶけど全部ムダ。そのうちにウチの股が開いていって、がに股になってくる。女であること捨てるのは許容できなくて、開く股を無理矢理閉じて女の子としての大切なとことかをどうにか隠そうと抵抗するけど、もう骨格と筋肉の付き方からして股を閉じられないみたい。全部を諦めた。
腿がムチムチと膨れてって水泳の世界選手よりも筋肉がつまったアンバランスな下半身になる。踵から下がめきめき伸びて腿くらいの長さになる。指と同じ流れで緑色になった足の指も伸びてく。ついにウチは声を上げて、何時以来ぶりかに大声で泣いてた。でも出た言葉は言葉じゃなく鳴き声で「ゲロゲロゲロー」みたいなのだよ。すごいすごい鳴きながら、ぐいっとお尻の先が張り出すような感じの後、肩の位置が骨格ごと下に落ちて行って、胸が有ったとこまで来ると乳房の名残を歪ませて狭まる。
――あーあ。完全に蛙じゃんこれ。
https://kakuyomu.jp/users/1184126/news/16818023213137145159
それで限界だった。現実逃避の限界。
ウチは感情ぶっ壊してもぅわっと泣いたのよ。
「――ッ!? ――ッ!!」
呂律が回らないとかじゃなく、もう鳴き声で。
でもそれに構わず、鳴き声で叫んだ。
ぱらぱらと大切な髪が抜け出したから。
蛙の前肢で、水に浸かった髪の一本一本を必死になって
「…………」
歯がポロポロと抜けて、蝦蟇口って感じに口が横に大きく開いていく。キモい。目が顔の横に動いて物の見え方が変わってく。キモい。顔そのものが平たくなってく。キモい。終いにウチの身体が縮んでるみたいに周りの景色がぐんぐん大きくなってくの……。
ふと見ると水に何か緑色が映ってる。
この空間に、人間なんて、もう居ない。
「…………」
そこにはもう、ウチは居なかった。
どこにも、もうウチは居なかった。
あーホントにもぅ……バカらし。
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