一人目…(結び)【またのお越しを】
――鍾乳洞の地底湖に、明の陽光が射す。
蛇骸と肉塊の
伝説と過去の
日々の安泰を得ようと、凶事を遠ざけようと。
水神を求めた人々の妄執の産物。土地の厄災。
無垢達の嘆きと、末代まで繋げる祈りの沈澱。
――末々の少女が招いた、
古き繋がりによって呼び起こされ、
――もはや悲しい忌譚は、必要ない。
流れの滞った水底の、
満ちて溢れ出す流れは、去る夜闇を見送る。
全てが一夜の泡沫の夢跡。異形は倒れながら身より黒々とした
異形が沈み、溶けて、身から濃化した
折節を見計らっていたのか、御神体として祀られていた十束ほどの銅剣を
――全て、終わったのだから。
歪な水神の
「これで、良いのかな――」
何様かに対し、彼女は
「…………」
彼女、ヌイナは誰でもない声に感応した。
『水に還して欲しい』と。それ故の行動だ。
理由を察して、最後の行動に結び付いた。
あえて言葉に表すとするならば、凶事という形で人々の営みに罪報をもたらす呪詛と穢れを一時塞き止めて、少しずつ自然の流れに還す水門の楔。
銅剣はその役を請け負ってくれるらしい。
「『――ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し』か……」
水に罪を流し、思いを流し、魂を流す。
人は水の流れに何時しか意図を
過去の
もし末裔の少女が居なくなり、血脈と共に欠如蛟が崩れ溶けてしまったなら、積年の淀みは間違いなく凶事と転じていただろう。少女とヌイナ達の出会いは幾つもの必然の重なりであったか……。
「……ふぅ」
感応した声の正体はヌイナにもわからない。
それでも銅剣に宿り、祀られていた
……声はもう聞こえはしない。
手を払うように叩き、ほっと息を吐く。
ヌイナが目を細めると同時に、半透明の龍が水面から陽光に向かい離昇して咆哮を響かせ。そのうち鍾乳洞の天井に開いた裂け目を抜けて外の世界へと水玉の幾粒に成って消えて行く。残ったのは、陽光を彩る虹の弧。美しい日の出の刻が訪れた。
「――
深いお辞儀をして、ヌイナは手を合わせる。
黒い獣の毛皮が覆う腕と、スカートの下から伸びる豊かな毛並みの尻尾、獣の耳に牙と。かように人を逸してしまった存在だとしても、人間らしい情緒は失ってはいないと信心深く感謝を送る。
「ねえヌイナ……そのまま眠ったのかい?
レシートの裏に書いてあった『
欠伸をして、ぐっと伸びをするヌイナ。
眼鏡の奥の瞳をこすり、岩場に腰を落とす。
静まった地底湖をじっと観察すれば、
「おっと、忌譚が……」
ヌイナの視線の先、御客様に渡した『折り鶴』がヒラヒラと水に落下した。すぐに獣の腕を向けて手の内に招くも、折り鶴はその意には従わず。
「――あぁこれは、そうか」
――本来ならば、あり得ない。決して焚紙破損しないはずの忌譚が壊れた。しかしそれは、
「物語としての終わり。キミは忌譚として“存在した意味”を遂げたんだね。喜ばしい限りだ」
もう満たされたという事。忌譚の一片はその執着を逃れ、単なる一つの物語と還った。
童女と欠如蛟は歩み寄り、人と水神の和解は果たされたのだから。鎮んだ蛟の眠る水源地は、凶事なぞもたらすわけがない。人身御供は人が勝手にやった行為であり、捧げられた童女達は水神に迎えられ水底より開放された。そう別の結末を迎え、忌譚は自然と意味消失したらしい。喜ばしいこと。
「うん。祈追さん、キミのおかげだよ。
とても素晴らしい
紙の破片を
『忌譚とは何なのか』『ヌイナとは何者なのか』『土地の厄災とは』それら、現時点では誰に対しても詳らかに語る必要性は無く。眼鏡を外した彼女の瞳は、ずっと深い闇を映して据わっていた。
「…………と――」
暫しの間、屈み。湖の水面と岩場の
「さてさて、どうしようかな?」
ヌイナは岩場に打ち上げられ、
“抱き合う”姿の“二人の”少女を
「……すぅ」
一人目。御客様だった【祈追 溢姫】本人。
全身びしょ濡れの制服姿ではあるが、身体の鱗は無くなり。静かで安らかな寝息を立てている。顔には
「……んぅ」
問題は、御客様だった【祈追 溢姫】二人目。
生まれたままの姿で。一体どういった結びでそうなったのか全身が蒼く染まった異形の身体。蒼白めな肌、長い蒼髪に同色の珊瑚の角、蒼瞳、鋭い牙と二股に割れた舌、四肢は鱗が纏い、太い蛇の尻尾をくねらせており。同じく寝息を立てている。彼女がその姿のまま出歩けば『未確認生物出現!』と大いに騒がれてしまうのは想像に難しくない。
何故、増えた……?
増えた。二人に。増えるとは。
普通の人間と、異形の二人に。
「あはは……これは困ったぞ」
ヌイナはもう笑うしかできない。
本当に驚かされる稀人な御客様だった――。
◆◆◆
――誰かの声がした。
「――
騒々しい声。でも慣れ親しんだ声。
その声の
「……すぅ……よぉ――!」
数分も我慢できなくて、すぐ現実へ帰還。
起床の苦手なイツキは、ふにゃりと動き出す。
あーもー誰だ邪魔をするなぁ「私は熟睡がしたいんですよぉ!」といった寝言を呟いたイツキ。もう少しは寝たいと、
「――いぃ! 痛いですっ!」
腕の激痛に負けて目を開くと、
「
友達が
「バカッ!
なんで自殺なんてしたのッ! 朝早くに冷たくなって水路で見付かったって溢姫のお婆ちゃんから連絡をもらっでぇ゛!! そんな話を聞いたこっちの身にもなれってのォもォーッ!!」
「むぅ、死んだみたいに言わないで下さいっ!
冷たくなって発見とか、私は物語の冒頭とかで犠牲になる女学生かなにかの役ですかぁ!」
「でもッ! でも゛ォ~ッ!
友達の涙と鼻水がイツキの腕に落ちた。
ぽかーんと放心してから、イツキは言い返す。
「――はぁ!? してないですけどぉ?!」
「そうなんだねやっぱりぃ゛ッ! ごめんね!
ずうっと苦しんでたの気付いてあげなくて。
「こいつぅ聞いちゃいねぇですよぉ……」
嫌がらせはともかく、死のうとはしてない。
けれども友達は自殺未遂者と決め付けてくる。
あぁ『そういう行動ができてしまう人間』だと思われていたんだとイツキは悟る。でも思い返してみると、これまで自分の弱さを隠す為に、友達や周囲の人に対してどこか遠慮して、加えて距離を保って付き合っていた一面を否定できない。ならばイツキはもっと周囲との繋がりを大切にしなければならないんだと自分を恥じてしまう……。
……誤解を解くのに10分は必要だった。
落ち着かせた友達から、事の経緯を聞く。
現在地は病院のベッド。イツキは早朝に、散歩をしていた女性によって用水路に浸かった状態で発見され病院に運び込まれたという話。それだけ。経緯といってもそれくらいの情報で。自分が何故そんな事になっていたのかはわからない……。
……いや、夜の間にあった出来事はちゃんと覚えていて思い出せる。そうするべきと感じ、自分自身を捧げた最後の瞬間まで思い出せる。イツキは憶えていられた。時間が経つごとに、
――ベッドの机に残されていた古和紙が、風も無いのに浮かんでイツキのもとに辿り着く。
「ヌイナさん……」
古和紙に文字が滲む。
【もうキミは大丈夫だろう。
あの店のことを忘れて日常へとお帰り。僕達とはもう関わらなくて平気さ。助けも不要だね。今のキミならもう心配ないと送り出そう。また夜の帳が訪れたとしたって、自分の力で朝明けに進んで行けるだろうから。さようなら、少し稀な御客様。
そして一夜限りの素晴らしい邂逅をありがとう。どうか今後のキミの物語が、優しい光に満ちて行くのを願っているよ。今夜はお越しいただきありがとうございました。お姉さんより】
それはイツキに宛てた手紙で。
できなかったお別れ……その言葉と、イツキの今後を励ましてくれている内容だった。
きっと今までは物語の序章。序章は終わり、これからイツキの素晴らしい本編が始まる。住む世界が異なり、手紙の通りにもう
「……ありがとうございました!」
イツキは今できる最高の笑顔を咲かせた。
【追記。けれども縁というのは不思議なもの。
一度結んだ夜の奇縁は、ともすれば良くないモノを引き寄せてしまうかも知れない。もしもまた暗闇で惑いそうな事があれば、あるいは追われたり、誘われそうになったとしたら。この紙を道標にするといい。心から望むなら、店の暖簾は見付けられる。でもできれば今度は昼間、夜ではなく明るいうちにおいで。その時は、またのお越しを】
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