一人目…(結び)【またのお越しを】


 ――鍾乳洞の地底湖に、明の陽光が射す。


 蛇骸と肉塊の異形いぎょうが、きしみ、ほころび。眠りに落ちるように重力に引かれ、穏やかに倒れゆく。


はばかられ、封じ込められ、廃忘はいもうされた水牢すいろう

伝説と過去の罪重つみかさね。人の罪と咎と業の混濁るつぼ

日々の安泰を得ようと、凶事を遠ざけようと。

水神を求めた人々の妄執の産物。土地の厄災。

無垢達の嘆きと、末代まで繋げる祈りの沈澱。


 ――末々の少女が招いた、いにしえの時代の


 古き繋がりによって呼び起こされ、忌譚きたんの流れを汲んだ模倣にせものにして真正ほんものと成ったいびつ水神カミ。ともすればうつつじょうおかねなかったであろう危うき存在。けれど彼の水神【欠如蛟カケミズチ】は、他ならぬ末々の少女の祈望のぞみによって満ち、解放されたのだった。


 ――もはや悲しい忌譚は、必要ない。


 流れの滞った水底の、すすがれる時だ。

満ちて溢れ出す流れは、去る夜闇を見送る。


 全てが一夜の泡沫の夢跡。異形は倒れながら身より黒々とした霧霞きりかすみほとばしらせ、壊れた管楽器のような今際の声を発した。剥がれ、崩れ、おぞましき輪郭りんかくを曖昧にすると大きな水飛沫を上げて湖に沈む。

 異形が沈み、溶けて、身から濃化したよどみが溢れ出してしまう。たちまちに土地の水源地と繋がる湖が墨色に濁り出すも、案ずるには及ばない。現れた彼女は墨色を睨み付け、調伏ちょうぶくの行儀を成す。

 折節を見計らっていたのか、御神体として祀られていた十束ほどの銅剣をたずさえた女性ヌイナが立ち現れ、湖の底へと銅剣それを放ったのだ。すると墨色はあたかも抵抗しているかのよううごめいた後に薄まり、水中で跡形もなく霧散する。


 ――全て、終わったのだから。

 歪な水神の呪詛じゅそだけが遺され、水神とされた無垢達の意を離れてもなお蠢動しゅんどうし、意味も無く人々の営みを脅かす事は容認できない、と。銅剣を放った彼女は鋭い眼光でもって水底を見据えていた。


「これで、良いのかな――」


 何様かに対し、彼女はたずねる風に言葉を送る。返答の無い代わりに、清水の澄んだ揺らめき。


「…………」


 彼女、ヌイナは誰でもない声に感応した。

『水に還して欲しい』と。それ故の行動だ。

 理由を察して、最後の行動に結び付いた。


 あえて言葉に表すとするならば、凶事という形で人々の営みに罪報をもたらす呪詛と穢れを一時塞き止めて、少しずつ自然の流れに還す水門の楔。

 銅剣はその役を請け負ってくれるらしい。


「『――ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し』か……」


 水に罪を流し、思いを流し、魂を流す。

 人は水の流れに何時しか意図を見出みいだし、畏れ、敬い、祈った。どのような流れを辿ったのであれ、古来より人と河川は共に生きており、脈々と繋がった流れを汲み取って共に先へ紡いで行く。水は人の営みを映し出し、人は水の中にカミを見た。

 過去の人身御供あやまちを後悔し忌避するのは大いに結構なことだ。でも罪から逃れ、祈追いのりを沈めたまま忘れてしまったら、蛇骸の内は渦巻うずま遺恨だんまつまみにくくさよどむばかりだというのに。せめて放置するくらいならば水底にとどめたままあるべきでなく。信仰は水に還すべきだった。心を込め丁寧に祀り、欠如蛟とされた無垢な童女達に鎮魂の儀でもしてやればよかったのだ。絶えず流れる無常なもの。それが世の道理で、それが自然の定なのだから。


 もし末裔の少女が居なくなり、血脈と共に欠如蛟が崩れ溶けてしまったなら、積年の淀みは間違いなく凶事と転じていただろう。少女とヌイナ達の出会いは幾つもの必然の重なりであったか……。


「……ふぅ」


 感応した声の正体はヌイナにもわからない。

 それでも銅剣に宿り、祀られていた存在カミが本当に居たのだとしたら、ようやっと意味のある形で役割を果たせたのだろう。墨色と銅剣を飲み込んだ水面はどこか満足げに揺れ、陽光を迎えている。


 ……声はもう聞こえはしない。


 手を払うように叩き、ほっと息を吐く。

 ヌイナが目を細めると同時に、半透明の龍が水面から陽光に向かい離昇して咆哮を響かせ。そのうち鍾乳洞の天井に開いた裂け目を抜けて外の世界へと水玉の幾粒に成って消えて行く。残ったのは、陽光を彩る虹の弧。美しい日の出の刻が訪れた。


「――淤加美神おかみのかみ。あるいは、かつての水神とうたわれし御霊よ。どうか切に安らかなれ。僕に……いいや、あの子に。人々の営みと黒百愛このとち安泰あんたいに。お力添えをたまわり、心より感謝申し上げます」


 深いお辞儀をして、ヌイナは手を合わせる。

 黒い獣の毛皮が覆う腕と、スカートの下から伸びる豊かな毛並みの尻尾、獣の耳に牙と。かように人を逸してしまった存在だとしても、人間らしい情緒は失ってはいないと信心深く感謝を送る。


「ねえヌイナ……そのまま眠ったのかい?

レシートの裏に書いてあった『無理難題おつかい』なんとかできたみたいだよ。だから安心して欲しい」


 欠伸をして、ぐっと伸びをするヌイナ。

眼鏡の奥の瞳をこすり、岩場に腰を落とす。


 静まった地底湖をじっと観察すれば、


「おっと、忌譚が……」


 ヌイナの視線の先、御客様に渡した『折り鶴』がヒラヒラと水に落下した。すぐに獣の腕を向けて手の内に招くも、折り鶴はその意には従わず。読奏者ヌイナたもとに戻ることはなくて。そのうちに折られた鶴の形が解け、水を吸って、滲み出し、ふやけて変色が進んでいき。ついに古和紙の限界がきたのかボロボロに朽ちて損なわれていってしまう。


「――あぁこれは、そうか」


 ――本来ならば、あり得ない。決して焚紙破損しないはずの忌譚が壊れた。しかしそれは、


「物語としての終わり。キミは忌譚として“存在した意味”を遂げたんだね。喜ばしい限りだ」


 もう満たされたという事。忌譚の一片はその執着を逃れ、単なる一つの物語と還った。

 童女と欠如蛟は歩み寄り、人と水神の和解は果たされたのだから。鎮んだ蛟の眠る水源地は、凶事なぞもたらすわけがない。人身御供は人が勝手にやった行為であり、捧げられた童女達は水神に迎えられ水底より開放された。そう別の結末を迎え、忌譚は自然と意味消失したらしい。喜ばしいこと。


「うん。祈追さん、キミのおかげだよ。

とても素晴らしい改稿かいこうをありがとう。僕らにとってこれ以上ない最高の対価を払ってくれたね」


 紙の破片をすくい、ヌイナは物憂げな顔。

『忌譚とは何なのか』『ヌイナとは何者なのか』『土地の厄災とは』それら、現時点では誰に対しても詳らかに語る必要性は無く。眼鏡を外した彼女の瞳は、ずっと深い闇を映して据わっていた。


「…………と――」


 暫しの間、屈み。湖の水面と岩場のきわを視界に入れていたヌイナは困ったように微笑む。


「さてさて、どうしようかな?」


 ヌイナは岩場に打ち上げられ、

“抱き合う”姿の“二人の”少女を見遣みやる。


「……すぅ」


 一人目。御客様だった【祈追 溢姫】本人。

 全身びしょ濡れの制服姿ではあるが、身体の鱗は無くなり。静かで安らかな寝息を立てている。顔には正気せいきが戻っており。ヌイナの懸念は杞憂きゆうに終わったらしい。もう彼女に助けは不要で、これからも陽の当たる世界で生きて行けることだろう。


「……んぅ」


 問題は、御客様だった【祈追 溢姫】二人目。

 生まれたままの姿で。一体どういった結びでそうなったのか全身が蒼く染まった異形の身体。蒼白めな肌、長い蒼髪に同色の珊瑚の角、蒼瞳、鋭い牙と二股に割れた舌、四肢は鱗が纏い、太い蛇の尻尾をくねらせており。同じく寝息を立てている。彼女がその姿のまま出歩けば『未確認生物出現!』と大いに騒がれてしまうのは想像に難しくない。


 何故、増えた……?

 増えた。二人に。増えるとは。

 普通の人間と、異形の二人に。


「あはは……これは困ったぞ」


 ヌイナはもう笑うしかできない。

本当に驚かされる稀人な御客様だった――。




 ◆◆◆




 ――誰かの声がした。


「――溢姫もれひめっ! 溢姫ぇっ!」


 騒々しい声。でも慣れ親しんだ声。

 その声のあるじはずっと離れずに、自分イツキが眠っている近くにでも留まっているのだろうか。飽きもせず大声量かつ定期的に『いつ』の漢字の読みを間違った“変なあだ名”でイツキに呼び掛けてくる。寂しくなくて安心する半面、正直うっとうしい……。


「……すぅ……よぉ――!」


 数分も我慢できなくて、すぐ現実へ帰還。

起床の苦手なイツキは、ふにゃりと動き出す。

 あーもー誰だ邪魔をするなぁ「私は熟睡がしたいんですよぉ!」といった寝言を呟いたイツキ。もう少しは寝たいと、寝惚ねぼけけ頭で、安眠妨害な声の主を払い飛ばそうと右左に腕を伸ばしているうち、そこを非常に強い力で握られる。


「――いぃ! 痛いですっ!」


 腕の激痛に負けて目を開くと、


溢姫もれひめェ~!!」


 友達が自分イツキの腕を掴み、普通は曲がらない方向に捻りあげてい「痛たたたァ!」イツキは悲鳴を上げ腕を救出する。友達は構わずに、寝起きの激痛によって涙目のイツキを抱き締めてくる。


「バカッ! 溢姫もれひめのバカッ! ポンコツっ!

なんで自殺なんてしたのッ! 朝早くに冷たくなって水路で見付かったって溢姫のお婆ちゃんから連絡をもらっでぇ゛!! そんな話を聞いたこっちの身にもなれってのォもォーッ!!」


「むぅ、死んだみたいに言わないで下さいっ!

冷たくなって発見とか、私は物語の冒頭とかで犠牲になる女学生かなにかの役ですかぁ!」


「でもッ! でも゛ォ~ッ!

溢姫もれひめは、じッ、死のうとしたんでしょッ?」


 友達の涙と鼻水がイツキの腕に落ちた。

ぽかーんと放心してから、イツキは言い返す。


「――はぁ!? してないですけどぉ?!」


「そうなんだねやっぱりぃ゛ッ! ごめんね!

ずうっと苦しんでたの気付いてあげなくて。溢姫もれひめが誰かから酷い嫌がらせ受けてるかもって噂、前から知ってたのに。愛され溢姫が『そんなことされるわけないじゃん』てみんな聞き流してたの。でも自殺しようとまでしたってことは、あれ本当のことだったんだね。本当にごめん、ごめんねッ!! 溢姫はみんなで守るから、これからはみんなで守るからね。だから約束してよォッ絶対に今後は『死のう』なんて思わないってェッ~!!」


「こいつぅ聞いちゃいねぇですよぉ……」


 嫌がらせはともかく、死のうとはしてない。

けれども友達は自殺未遂者と決め付けてくる。

 あぁ『そういう行動ができてしまう人間』だと思われていたんだとイツキは悟る。でも思い返してみると、これまで自分の弱さを隠す為に、友達や周囲の人に対してどこか遠慮して、加えて距離を保って付き合っていた一面を否定できない。ならばイツキはもっと周囲との繋がりを大切にしなければならないんだと自分を恥じてしまう……。


 ……誤解を解くのに10分は必要だった。

落ち着かせた友達から、事の経緯を聞く。

 現在地は病院のベッド。イツキは早朝に、散歩をしていた女性によって用水路に浸かった状態で発見され病院に運び込まれたという話。それだけ。経緯といってもそれくらいの情報で。自分が何故そんな事になっていたのかはわからない……。


 ……いや、夜の間にあった出来事はちゃんと覚えていて思い出せる。そうするべきと感じ、自分自身を捧げた最後の瞬間まで思い出せる。イツキは憶えていられた。時間が経つごとに、体験あれが夢か現だったかの境界があやふやになり記憶の細部から薄れている気はするも。あの『お店』のこと。助けてくれたお店の人ヌイナさん達のこと。何より欠如蛟じぶんのこと。全てを結び歩み、これからもイツキは生きていく。もしも夜のことを記憶として忘れてしまっても、ずっと心と魂に刻んで、そうして祈望を抱いて生きていくんだ――。


 ――ベッドの机に残されていた古和紙が、風も無いのに浮かんでイツキのもとに辿り着く。


「ヌイナさん……」


 古和紙に文字が滲む。


【もうキミは大丈夫だろう。

あの店のことを忘れて日常へとお帰り。僕達とはもう関わらなくて平気さ。助けも不要だね。今のキミならもう心配ないと送り出そう。また夜の帳が訪れたとしたって、自分の力で朝明けに進んで行けるだろうから。さようなら、少し稀な御客様。

そして一夜限りの素晴らしい邂逅をありがとう。どうか今後のキミの物語が、優しい光に満ちて行くのを願っているよ。今夜はお越しいただきありがとうございました。お姉さんより】


 それはイツキに宛てた手紙で。

 できなかったお別れ……その言葉と、イツキの今後を励ましてくれている内容だった。


 きっと今までは物語の序章。序章は終わり、これからイツキの素晴らしい本編が始まる。住む世界が異なり、手紙の通りにもう恩人ヌイナさん達には会えないというなら、ならイツキは、貰った恩に報いて生きるだけ。もしも偶然にでも再会できることがあれば、今度は笑い会いたいから――。


「……ありがとうございました!」


 イツキは今できる最高の笑顔を咲かせた。


【追記。けれども縁というのは不思議なもの。

一度結んだ夜の奇縁は、ともすれば良くないモノを引き寄せてしまうかも知れない。もしもまた暗闇で惑いそうな事があれば、あるいは追われたり、誘われそうになったとしたら。この紙を道標にするといい。心から望むなら、店の暖簾は見付けられる。でもできれば今度は昼間、夜ではなく明るいうちにおいで。その時は、またのお越しを】

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