一人目……(八)【辿りの午前一時】
虚無虚空の深い闇。何も無い
『……来ないで――』
無断で自分の内領に流れ込んでくるもの。
それを否定した。拒絶した……のだったか。
――急に空中へと放られたような浮遊感。
わけもわからないまま。手を伸ばして身体を宙に
違う。違う。違うのに。
――
このままではいけない。手を伸ばして寄せようと
試みたけれど、一度入った亀裂は忘却を
なんで『こんなこと』になったのか。
もう憶えてない。複雑なことも考えられない。
――境の内。黒い獣が牙を剥き、阻まれた。
黒い獣は怖く恐ろしかった。近寄れない。
どうしたって近寄れない。諦められないのに。
そのうちに限界がやってきて沈黙する。
亀裂は深刻なほどの溝となり、もう保たない。
ねえ……『私』は、なんだっけ……?
いったい『私』は、なんだったの……?
保たない。崩れ落ちる。溶けて行く。
――黒い獣は傍らに来ていて、
牙を納め。舌で舐めて慰めてくれた。
獣なりに何かを察してくれたのだろうか。
保たない。もうダメだ。ごめんなさい。
――雨が、雨音が、夜霧が。
溶け、溢れて、零れて、一層に強まった……。
◆◆◆
――ざあざあ、ざあざあと……。
古いテレビのホワイトノイズに似ている。
激しく降る雨の音、それか本当にブラウン管の砂嵐の音なのか。そういえば記憶にある。ゲーム器の外部出力のケーブルを、自分の不注意で引っこ抜いてしまった時に似ている。ぶつりと直前まで映されていた映像は途切れてしまって。記憶の中で『セーブしてなかった!』と嘆いたけれど、一緒に居た友達は『また繋げれば大丈夫』と笑っていたっけ――。
「――あれぇ……?」
心付くと、イツキは立ち尽くしていて。
足元は雨が降った後の土臭いモザイクタイル、それらを照らす年季のある街灯の下に居た。
並んで『三瀬川食堂』『葬頭河商店』『スナック涅槃』と電飾の消えた看板達。見たところ店を営んではいたのだろうが、こんな時刻だから店仕舞いをしているのか、もう何年も前に畳んでしまったのかも判断できないボロボロな店先の古民家達。古民家の連なりが途切れた辺り、脇の道路に面した奥まった場所にコインパーキングの入口案内がある。
正面をきょろきょろし、現状確認。
「なんだか、デジャブですよぉ……」
他に誰も居ない場所に一人とは。
知らない景色。でも
暮らしの
「……路地裏迷路。ニガテなんですよね。
いつもどんよりしてて、オバケとか出そうで」
街灯に貼られていた、ラミネートのパッケージなチラシに注目。時間の経過で印刷がほぼ消えているけど【
「ヌイナさん達は、どこに?」
頭を振って、気を取り直すイツキ。
「嫌な予感がしますが、後ろも見ないと」
ぐぐぐ後ろに振り返ってみる。
すると、暗く狭い
「……やっぱり一人ぃ」
悪い予感の通り、頼みの綱も何も無い。
ゴミ袋の入ったポリバケツ。飲料メーカーの名前が書いてある積まれたコンテナ。ぶおーんと耳障りな音を絶えず響かせる室外機。枯れ果てた植物が墓標のように立つ、幾つかの植木鉢。長期間放置されたのだろう錆びてしまった鉄板。壁にデカデカとカラフルに『Raizon d'etru!!』きっとスペルを間違っているラクガキ。隙間の行き止まりには、
「――おかしいです! 物理的にっ!
だって、私どこから出て来たんですか?!」
後方確認し、イツキは
だってそうだろう。店の暖簾をくぐったら意識が混濁として、ハッとここに居たのに。体感でそれから一分程度しか経ってないのに。振り返った後ろには店の出入口すら存在してなかったのだから。
「ヌイナさーん! それと、あの。
神なみゅ……神まみゅ……
二人から返事は無い。当然に姿も無い。
鞄を拾い、外ポケットから
これは現実だ。そうそう怖い目には遭わない。
遭ってたまるか。それでも、もし怖いものに襲われるような状況となったなら、
「かけみずちさん。私を守ってくれますか?」
童女の涙で、人を食らうのをやめた蛟。
その蛟の忌譚は、イツキを守ってくれるのか。
その時、ぎいぃぃと古民家の扉が開いた。
「えぇ……なんで開いたんでしょう」
そこが『食堂』か『商店』か『スナック』なのかは乱雑に並んだ看板の位置でわからない。しかし半開きで
「温っ。かけみずちさん? 行っちゃダメ?」
――足を向けようとして、止まる。
握っていた
開いた扉の中を覗くくらいなら、もう数歩も寄ればできるだろうけど……やめておう。
「確かに。これホラーだと死ぬやつでした!
私は、バットエンドは回収してませんよぉ!」
騙されるかー! イツキは吠えておく。
牙を覗かせて、鋭い爪を伸ばし、身構える。
風も無いのに、バタンと扉が閉まった。
「ひぃっ! びゅ、びっくりしましたッ」
扉の内側から何かの気配が、
「かくなるうえは、ステルス状態ぃ!」
イツキは頭を抱えて膝を折り、縮まった。
一番最近やったゲームの無敵判定状態だ。
「――そうね。祈追……ちゃん?
変なポーズだけど賢明ね。あんま一人でフラフラしてっと危なかったから。その場で身を守るってあなたの行動は正しいわよ。はぁ、この辺り、今夜はいつもに増して相当ズレてるみたいだし」
「ふわぁッ! かになにゃにゃ……さん?」
バイクのセンタースタンドを降ろし、縮まったイツキの頭をぽんぽんと叩き。安心したみたいな溜め息一つ。リアボックスを開いて「なにそれ笑える。あたしは
ヌイナが紹介してくれた女性。あの店の従業員の一人という【
ほんのさっきまで姿が無かったのに。彼女は奥のコインパーキングの方向から大型バイクを『押してきました』という風に普通に現れてきて、イツキの近くで停止して。髪を結び直し、グローブをはめて、出発の準備をしてくれている様子……。
「あの、ヌイナさんは……?」
「そこに居るでしょ。匂いがするから」
街灯の光が、寸時の消灯。
再び灯ると、周囲の景色が少し変わり、
「――うん。これで互いに認識できるかな。
環境に引っ張られてズレた認知を、互いの縁で同調させてみたよ。それにしても、どうして店の外がこんなことになってたんだろう。とんだ罠だ」
頭を撫でられるイツキ。
「ヌイナさんっ!!」
「祈追さん、無事だね。何もなかったかな?
急に一人にさせてごめん。キミとの間のズレを合わせるのに、まぁなかなか手間を取ってね」
美歌の言った辺りから本当に、街灯の点灯と同時に
それは余所行きの服装なのか。彼女は藍色のバケットハットを被り、室内で巻いていたストールケープの代わりに白いロングコートを着ていた。
手を引かれイツキは立たせてもらう。
「……ヌイナさん、色々と質問したいけど。
ファンタジーな部分に踏み込むと、私の頭が理解しきれなくてパンクするので止しておきます。でもそのフクロウさんは本物だったんですか!?」
「剥製だと誤解していたのかな。だけどプライドが高いから、そんなこと言ったら怒られるよ。つつかれちゃうの注意して。遅れての紹介になるけど、気難しくて、頑固で、でもなんだかんだ言っても優しい僕の親友。副店長の【たくや】くんだ」
「たくやくん。フクロウなのに副店長?
名誉副店長な感じのマスコット枠ですねっ!
――痛い! つつかないでっ、痛いですよ!」
「ははっ。じゃあ祈追さん、忌譚を取り出して。
……いやもう握ってるね。うん。なら
「え?」
――語り継がれた
すでに二つ折りにしているのに、もっと折っても大丈夫なのかとイツキは疑問を抱くも。そう指示されたなら大丈夫なんだろうと頷く。
小学生以来のおりがみ。街灯の明かりで折り方を確認しつつ、アヒルみたいな不器用に形が崩れた折鶴を完成させてみた。すると「あぅ!」イツキの手から
「たくやくん!? 待ってくださーいっ!」
走り出そうとするイツキにストップが入る。
「いや、あれで良いんだよ。説明が抜けてた。
よし。神波鳴さん、それじゃお願いするね」
「はぁ……はいはい。わかってるわよ。
祈追ちゃんの縁を辿って飛ぶ、
イツキに、スポッとヘルメットが被せられる。
バイクに跨がってスタンドを戻し。スロットルを弱く回して、セルモータのスイッチを押す。美歌は急かし「ほらほら行っちゃうわよ」エンジンを鳴らして「早く後ろに乗って」と。しかしバイクに乗せてもらった経験が無くてあたふたするイツキ。
「手伝うよ」
その様子を見たヌイナが、ヘルメットの顎紐をしめてくれて。続けてイツキの身体を持ち上げ、バイクに跨がせてくれる。「ここを掴んでね」タンデムグリップを教えてもらい「足はここに」ステップも教えてもらう。「姿勢はこうかな」最後に身体を傾けられて、何となく乗り方は理解できた。
「じゃあ祈追さん、一旦はお別れだ……。
僕は僕の縁を辿るからね。でもきっと、直ぐに再会できる。同じ所に辿り着くはずだから。今と変わらないキミと必ず再会できるって信じてる」
「ヌイナさん……えっと、また後で」
別れる二人は、その間際に手を繋いだ。
確認した美歌が「行くわよ」と一声。クラッチが少しずつ離され、スロットルが回される。
バイクは深い闇を切って、走り出した――。
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