第7話


 ある日、王子妃教育の帰りに王宮の廊下を歩いていた。

 とても天気の良い日で、付き添いの騎士が気をきかせ、王宮庭園の脇の回廊を通ってくれた。

「いつ見ても綺麗なお庭。目の保養になりますわ、ありがとうございます」

 歩きながら騎士に声をかけると、彼は小さく頷いてくれた。

 こんな小さな優しが、今のティアナには泣けるほど嬉しい。ゆっくりと歩いてくれる騎士の後ろを歩きながら、花を愛でていた。



 風に乗って、ふと笑い声が聞こえてくる。楽しそうなその声は若い女性のもののようだった。今日、王宮で茶会が開かれているとは聞いていない。 

 だんだんと近づくその声に、ティアナは嫌な予感を感じた。

 楽しそうに笑う声に交じって男性の話し声も聞こえてくる。楽しそうに語り掛ける声。


 その声は忘れようとしても忘れられない、聞きたくても聞くことの出来ない人の声だった。


(ああ、なんだってこんな時に)


 前を歩く騎士も気が付いたようで、ティアナに気を遣いゆっくりだった歩調が益々遅くなる。

 「大丈夫です。このまま通りすぎましょう」

 騎士の後ろ姿に声をかけると「申し訳ありません」、そう言って前を向いたまま謝罪の言葉を放つ。「運が悪かっただけですわ。お気遣いなく」

 

ティアナは視線を庭園から外し、真っすぐ前を向いたまま少し足早に歩きだした。

 たぶん庭園の奥の方にいるのだろう、視線を背けているティアナの視野の中には入ってこない。風に乗って来るのか、女性の楽しそうな笑い声が胸を締め付ける。

 自分もほんの数か月前までは、あんな風に楽しそうに笑っていたのだと思い返す。

 クリストファーと会えなくなってから笑った記憶がない。

 好きな人が側にいないだけで笑えなくなるなんて、なんてつまらない人生だろうと思う。


 回廊を歩いていると、次第に声が近づいてくるのがわかった。

 しかし、もう後戻りすることはできない。どうか気が付きませんようにとの祈りも神には届かなかったようだ。

 真っすぐに前を向いて歩くティアナの背中に声がかかる。


「あ、あの……」


 おどおどとした感じの小さな声。ティアナは気が付かない振りをして、そのまま歩き続けようとした。


「ティアナ! ティアナ、聞こえないのか?!」


 苛立ったようなクリストファーの声が、憎々し気にティアナの名を呼ぶ。

 こんな風に憎しみのこもった声で名を呼ばれたことなどなかったのに。


「クリストファー様。私の声が小さかったのです。そんな怒らないでください」

「いや、怒ってはいない。それにローズの声は決して小さくはなかった。気が付かない方が可笑しいんだよ」


 ティアナはゆっくりと振り返り、見つめ合うふたりを視界に入れた。


(やってられないわ)


「殿下。お久しぶりでございます。少し考え事をしていたものですから、申し訳ございません」


 淑女の礼でクリトファーと聖女に頭を下げた後、そのまま顔を上げ二人を笑顔で見据える。

 射貫くような視線にたじろいたのか、クリストファーが口を開く


「ど、どうしたのだ?」


 その言葉に、彼の隣にいる聖女に視線を動かしながら


「ご紹介はしていただけないのですか?」

「あ? ああ、初めてだったか?」

「ええ、ご紹介していただいておりません」

「そうか。今更だが、こちらは今代の聖女ローズ殿だ。ローズ、彼女はスプリング侯爵家のティアナ嬢だ」


(婚約者だとは紹介してくれないのね)


「初めてお目にかかります。スプリング侯爵家のティアナと申します」


 妃教育で賜った微笑みを浮かべ、ローズにほほ笑む。

 

「ローズです。あ、あの、私は貴族ではないので、挨拶はまだよくできなくて……」

「ローズ、そのような事は君が気にする必要はない。貴族と言えど皆同じ人間なのだからね」


 ティアナは見たくもない二人の姿を見せられて、こんな事なら三文芝居でも観た方がよほど良いと、口から出かかる言葉を飲み込んだ。


「ティアナ。今度ローズを夜会に連れて行こうと思う。聖女とは言え少しずつ社交界にも慣れる必要があるだろう? それで、君には当日ローズにご令嬢たちを紹介して欲しいんだ」

「聖女様が夜会に? そのような事は今まで聞いたことがございませんが?」


「今までの聖女殿はご高齢であったし、そのようなことに興味がなかったと聞く。だが、ローズはまだ若く美しい、社交の場に興味があって当然だろう?

 当日は私が彼女をエスコートする。君はご令嬢達との橋渡しをしてくれればそれでいい。後は私が彼女を支えるつもりだ」


 ティアナはもう何の言葉も思いつかなかった。

婚約者の目の前で別の女性をエスコートすることも、その婚約者に友人を紹介するように言うことにも理解ができない。

それに、聖女様がなぜ社交に慣れる必要があるのか? 聖女は常に国のため、民の為に祈りを捧げるのが職務。それを投げ出して夜会など、女王が許すはずがない。


クリストファーは気が付いていないが、ティアナのことを「君」と呼んでいる。

 そんな事、今のいままで一度もなかったのに。彼の中では自分はすでに婚約解消した相手であり、次の婚約者は聖女ローズになっているのだろう?

 

何を言っても、訴えても、聞いては貰えない。理解もしてはもらえないだろう。

 ティアナは考える事をやめ、思考を止めた。彼の言うなりになり、早くこの場を去りたいと思った。


「殿下の仰る通りにいたします」


 妃教育で培った美しい所作で淑女の礼をし、まだ言い足りなさそうな二人を置いて、その場を去った。

 自分を呼ぶ声が聞こえた気もするが、騎士も足を止めることはしなかったので、これ幸いと足早に帰路についた。



 帰りの馬車の中、ティアナはあまりの情けなさに心の中で泣いた。

 従者や付き添いの侍女に気付かれぬよう、淑女として自分を奮い立たせ涙をこぼすことはしない。

 


 それがティアナの侯爵令嬢としての矜持だった。


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