言葉使いの日記(ルビルビしおりつき)

 一馬は、頭をかかえていた。

 この休み時間が終われば、次の時間は地獄じごくの国語だ。

 

 別に、国語という科目自体が嫌いなわけじゃない。

 国語の先生が嫌いなわけでもない。ただ。


 ただ、一馬は国語の音読の授業が、苦手なのだ。

 教科書で今まで読んでいた話ではない話を勉強し始めるときや、授業の初めに、音読があることが多い。

 授業初めになくっても、とちゅうで急に音読がはさまることもある。

 音読があるかどうかは、当日、授業になって先生が指示するまで、分からない。

 だから、国語の授業自体が嫌いになっていた。


 なぜ、一馬が音読がきらいなのか。それは、読めない漢字が多すぎるからだ。

 彼は、漢字の読み方を覚えることがとても苦手なのだ。


 今日新しく習った漢字が五個あったとする。

 その中で、一馬が覚えて帰ることのできる漢字は三個くらい。

 しかも、点を別の場所にうってしまったり、線が一本足らなかったりと、何かが足りない状態で覚えてしまっていることが多い。


 さらになんとか漢字の形は覚えられたとしても、読み方までは覚えられないものが多い。

 音読みと訓読みがあって、前や後ろにきた言葉によって読み方が変わるものがある日本の漢字。

 それのせいで、どれだけ読めない漢字が増えることか。


 音読の宿題が出たときは、もっと大変だ。誰か大人の人に聞いてもらわなくてはいけないし、その人に感想やサインをもらわないといけない。


 一馬の音読の宿題を聞いてくれるのは、たいていお母さんである。お母さんは、一馬から音読の宿題があると聞くと、ひどくいやそうな顔をするようになった。


「だってアンタ、漢字の読み方がめちゃくちゃだもの」


 お母さんに言われてショックを受ける。漢字ドリルを買ってもらって何度も練習してみたが、やっぱり覚えられない。

 音読するときに、きちんと読み方は教科書に書き込もうとはしている。

 でも、自分が読んでいる時には書くことができなくて困る。


 クラスメートの男子が、声をかけてくる。


「おう、一馬。次の時間、お前地獄だな」

「サイアクサイテーだ」

「だろうな。ま、がんばれよ」


 一馬の肩をたたいて、クラスメートは自分の席に戻って行く。一馬は教室の時計を見て、大きなためいきをついた。それとほぼ同時に、チャイムが鳴った。


 音読の時間は、最悪だった。今日は物語を全員で一文ずつ読むというもので、一馬が読まなければならない一文は、三行ほどある長い文章だった。一文ずつ読むという指示は、あたった場所によっては読む場所がとても短い時もあるし、反対にとても長い時もある。


 一馬はその、長い文章にあたってしまったのだ。先生も、しまったという顔で彼を見ていた。しかし、別の人に代わってもらうわけにもいかない。


 一馬は、漢字の入っている言葉が出てくるたびに、先生から読み方を教えてもらい、なんとか読み終えた。

 読み終えたあと、漢字の横に小さくふりがなをうとうと思うのだが、すぐになんと読むのか忘れてしまって、メモをとることができない。


 他の生徒が読む文章を聞いていても、どんどん次へ進んでしまうので、ふりがなをうつスピードが追いつかない。一馬は、うつむいた。


 放課後、一馬の姿は図書館にあった。

 最近は、文字が嫌いになってしまい本を置いている場所に近づかないようにしていた。

 とはいえ、漢字を覚える本や、漢字ドリルを探すには、どうしても本が置いてある場所に来ざるを得なかったのだ。


 とにかく、本を読もう。誰かが言っていた。

 漢字や文章を読めるようになるためには、たくさん読めと。


 一馬は、とりあえず児童書コーナーに入ってみる。

 大人向けの本なんて、とてもじゃないが読めるものじゃない。

 児童書なら、まだ「総ルビつき」と書かれた本なら読むことができる。


 「総ルビつき」は、その名の通り、全ての漢字によみがながふってある本だ。

 これなら、読めない漢字が出てきて物語を読むのを止める必要がない。

 朝読書の本は、いつも「総ルビつき」と書かれた本を図書室で選ぶようにしていた。


 物語の本が嫌いなわけじゃない。漢字が読めるようになりさえすれば、もっと書店や図書館や図書室に行ってたくさん本を読もうと思うのに。


 そう思っていた時だった。一冊の本が、一馬の目にとまった。

 その本は、表紙がとても魅力みりょく的で、彼はその本を読みたいと強く思った。


『言葉使いの日記』


 そう書かれた本だった。手に取って裏表紙のあらすじを読んでみる。「言葉使い」というお仕事がある世界のお話だった。主人公は、「言葉使い」の村で生まれた少年だった。「言葉使い」とは、自分の覚えた言葉を自分なりに理解し、それを誰かに分け与えたり、人のいらない言葉をもらい受けたりする職業のようだ。その「言葉使い」の村で、言葉を覚えられない少年の成長物語と書かれている。


 これだ、と彼は思った。ぼくは、この本が読みたい。しかしあらすじの最後の言葉に、がっくりと肩をおとした。「総ルビつき」の言葉がないのだ。


 つまり、すべての漢字にふりがながふってあるわけではない、ということである。これは一馬にとっては、致命的だ。

 読めない漢字が出てきてしまったら、物語が途中で止まってしまい、誰か大人の人に助けを求めなければいけなくなる。


 でもこの物語をなんとか読みたいと思った一馬は、とりあえずページをめくってみる。自分が読める漢字ばかりなら、総ルビじゃなくても読めるはず、そう思ったのだ。


 ページをぱらぱらとめくってすぐに、彼は大きなため息をついた。

 自分の知らない漢字、習ったことはあるけれどすでに読み方を忘れた漢字が大量にあった。


 これでは、この物語をちゃんと読むことができない。一馬は、本を元の場所へ直そうとした。その時である。


「あら、やめちゃうん? めっちゃ読みたそうやのに」


 現れたのは、ピンクと紫色の髪をした女の子だった。


「総ルビじゃないと、読めないんだ」


 初対面の女の子にも関わらず、一馬はそう話していた。


「ああ、総ルビ。漢字って難しいもんな」


 女の子は、うなずく。


「それやったら、漢字が読めるようになったら、どうする?」

「そしたら、もっと物語を読むよ。楽しいだろうなぁ……」

「よっしゃ、それやったら、力を貸したろ」

 

 女の子はそう言うと、ニィッと笑った。


「ウチ、ジーニ。ジーニちゃんって呼んでな。よしなに」


 そう言うと、彼女はリュックサックを床に降ろす。


 リュックサックの中から、一冊の本が飛び出す。


『一馬は、漢字が読めない。新しく漢字を覚えることも、得意じゃない。漢字が読めるようになれば、きっとたくさん、物語を読むのに。物語をたくさん読めるようになったら、きっと世界は広がる。そう、彼は信じていた』


 一馬が、おどろいた顔をするのを見て、ジーニは笑った。


「ここには、今困っている人の話が出てくるねん。今日のお客さんは、アンタや」

「お客さん?」

「アンタにぴったりの本、見つけたる。ついといで」


 本を元の場所に収納すると、リュックサックに大きな穴が開いた。

 大人の人なら一人、子どもなら二人がようやく通れるような、せまい穴。

 のぞきこんでも、下はまっくらやみ。何も見えない。


「大丈夫、怖くあらへん。向こうで待ってるで」


 ジーニはそういうと、ためらいもなく穴の中へ飛び込んだ。

 一馬も、下を見ないように反対を向いていきおいをつけて、穴の中へ飛び込んだ。

 ふわりふわりと、ジーニと一馬は空中に浮いている。


「それで、アンタに必要な本って、なんや?」

「漢字が読めるようになる本、かな。読めるようにさえなれば、あとは自分で読みたい本を選べばいいし……」


 一馬の言葉に、ジーニは満足げにうなずいた。


「しっかりした答えや。それじゃ、行ってみよか」


 パチン、とジーニが指を鳴らすと二人は地面に着地した。


 近くの本棚では本が自由に飛び回り、ページを勝手に開いたり閉じたりしていた。

 なんとも奇妙だ、と一馬は思った。


 一馬の手に持っていた本。それが強烈な光を放っていた。

 思わず手をはなす。それが、ふわりと浮かび上がった。

 そしてそれは、ジーニの腕の中におさまる。

 腕の中におさまった本は、近くに合った道具を回収しながら、光り続ける。


 光がおさまって、一馬は本を見た。

 見た感じ、本に変化はないように見えた。

 すると一馬の気持ちが分かったように、ジーニが言う。


「見た目は変わってへんけど、中身が変わってん」


 ジーニが本の中に入っている、中からしおりをとりだした。

 不思議な色のしおりだった。見る角度によって七色に輝く、きれいなしおり。

 一馬の視線は、しおりにくぎづけになった。


「このしおりがあれば、ふりがながふっていない漢字が出てきても大丈夫や。しおりをページの上にかぶせれば、漢字に勝手にふりがなが出てくるねん」


「でも、しおりがないと読めなくなるんでしょ」


 心配そうに言う一馬に、ジーニが首を横に振って見せる。


「いや。このしおりが読み取った漢字の読み方は、この本の最後のページ、読み取った漢字たちのところにどんどん追加されていくんや。一馬は、このページの漢字を何度も読み直せば、少しずつしおりがなくても漢字が読めるようになる。そうしたら」


 ここで言葉を切り、ジーニは一馬の顔を見つめる。


「そうしたら、もっともっと、たくさんの本を読みたくなるはずや。音読だって嫌いじゃなくなるかもしれへん」


 それを聞いて、一馬はうなずいた。

 すると、どこから現れたのか、母親から買ってもらった書き込みのある漢字ドリルが出て来た。


 漢字ドリルをぱらぱらとめくって、ジーニは優しく言った。


「いっしょうけんめい、勉強したんやな。できないことをできるようになろうという努力、確かに受け取った。この漢字ドリルとその本を交換しよか」

「交換」

「せや。ウチは、アンタに今必要な本を与える。アンタは、今必要ない本を、ウチに渡す。そういう商売やねん」


 一馬、書き込みをしてしまった漢字ドリルを見た。

 もうこのドリルは、多分自分には必要ない。

 書き込みをしてしまっているし、なおかつこれからは、この本で勉強できるのだと、ジーニが言ってるんだから。


 一馬がうなずくとジーニは、おじぎをして言った。


「まいど、ありがとうございます。本と、そしてあなたが幸せでありますように」


 それを聞き終わると同時に、図書館に戻っていた。

 手には、しっかりと『言葉使いの日記』をにぎりしめて。


 家に帰ると早速、なおとは本を開いた。

 中にはにじいろのしおりがしっかりとはさまっていた。


 「言葉使い」の村に生まれた主人公は、言葉が覚えられないために、村の人からバカにされていた。少年は変わりたいと思って何度も何度もたくさんの本を読んで勉強したが、次の日になると、すべて忘れてしまう。


 ある日、不思議な本と出会い、その本が少年の見聞きした言葉を記録してくれるようになる。また、本に入っていた不思議なしおりの力で、少年は村の図書館にある本すべてを読み、本に書かれていた言葉、すべてを覚えることができた。少年はその本のおかげで、プロの「言葉使い」となり、村を飛び出し世界へとはばたいていく。


 主人公の姿が、漢字の読み方が覚えられない自分と重なってみえた。

 一馬はさっそく、学校の国語の教科書にしおりをあてながら読み進めてみる。


 すると、自分では読めない漢字の読み方が分かるようになったのだ。

 ふりがなのふられていない漢字でも、しおりを通してみると、漢字のとなりに小さく、ふりがなが浮かび上がるのだ。

 一馬は、それをただ読み上げるだけでよかった。


 そして読み上げた言葉は、『言葉使いの日記』の本の最後のページにどんどん書き込まれてゆく。ページの最後まで言葉が書き込まれると、なぜか新しいページが追加され、どんどんページに言葉が追加されていく。


 一馬は、ジーニが言った言葉を思い出した。

 このページにのっている言葉、それを覚えていけば、漢字の読み方も分かるようになる、とそう言っていた。


 それから毎日、一馬はどこへ行くにも『言葉使いの日記』を持っていくようになった。

 本だけでなく、ポスターやお店のメニュー表、漢字で書かれている様々なものを一馬はしおりを通して見つめた。

 すると、漢字の読み方とその意味が、本に書き足されていく。

 夜寝る前に、一馬はそのページを何度も読み返した。


 何日か経ったとき、彼は一つ気づいた。

 ページから消えた言葉があるのだ。不思議に思っていると、理由が分かった。

 その言葉は、一馬がすでに覚えた漢字の読み方だったのだ。


 ある日、一馬がきらいだった国語の音読の時間があった。

 また一馬の読む場所は、一文が数行続く場所にあたった。

 しかし、今度の彼は今までとはちがった。


 すらすらと自信を持って音読する一馬の様子を見て、他のクラスメート、そして先生までもがおどろいた様子だった。


 一馬は読み終えた後、先生とクラスメートの拍手をもらった。

 彼はうれしくてうれしくて、ますます漢字を覚えようと思った。


 漢字が読めるようになったことで、一馬は本が大好きになった。

 こうして、音読がきらいだった男の子は、音読も物語も大好きな男の子になったのだ。

 物語が大好きになった男の子は、いつしか自分で物語を作りたいと思うようになった。

 数年後、彼は作家になっていた。

 物語、音読が苦手だった男の子は、物語を作る人間になったのだった。




 

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