第9話 世界に関する説明

 ドルスは談話室のドアを開ける。ジュークボックスが、彼よりも先に室内に入っていった。部屋に入る前に、ドルスは一度後ろを振り返ったが、もう、そこがどこであるかは分からなかった。城のような建物の内部であることは間違いないが、暗くてよく見えない。そして、人間の場合、見えないものは分からない。


 部屋に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉める。


 室内はいつもより明るかった。天井に設けられた照明が、普段の二倍稼働している。一つ一つの光量を調節することはできないらしい。


 部屋の中をジュークボックスが駆けていって、いつもの位置に据わる。それから腕を収納すると、それ以上動かなくなった。


 ドルスは視線を正面に向ける。


 カウンターにリ・ドゥが座っていた。


「おかえりなさい」彼女が口を開いた。


「ただいま」時間差でドルスは応じる。


 暖かい部屋の中を進む。靴に付着していた雪が、ぱらぱらと床に零れた。それらは、熱の影響を受けて溶けていく。溶ければ気体となり、やがて部屋の中に浮遊することになる。


 リ・ドゥの前まで来て、ドルスは立ち止まった。彼女は椅子に座ったまま、脚をふらふらさせている。片手にウイスキーの入ったグラスを持っていた。頬が少々上気しているが、まだそれほど酔ってはなさそうだ。


「キーが使える場所は、見つかった?」リ・ドゥはドルスを見ないで尋ねる。


「見つかったよ」ドルスは答えた。


「そう……。随分と早かったのね」


「そうかな?」ドルスは首を傾げる。「僕としては、それなりに苦労したつもりだけど」


 リ・ドゥは何も言わない。


 身につけていた防寒具を脱いで、ドルスは彼女の隣に腰を下ろした。背後にあるキッチンから、ぱちぱちと何かが燃える音がする。コンロに火が灯っているらしい。その熱は間接的に影響を与えて、この部屋を暖めている。リ・ドゥの気遣いかもしれない、とドルスは考える。この部屋には暖房もストーブもなかった。


「君の世界征服は、もう、とっくに完了していたみたいだね」ドルスは言った。「キーを使う必要なんて、なかったんだ。世界を拡張する必要なんて、なかった。いや、それすらも君の手中にあったとでも言えばいいかな。僕は君に踊らされていたのかもしれない」


「サンバ? ポップ?」


「世界の範囲が曖昧で、世界征服ができないなら、少しずつ範囲を定めて、その総体を世界にしてしまえばいい」リ・ドゥの質問を無視して、ドルスは話した。「つまり、世界中に談話室を敷き詰めてしまえばいい。それも、ある特定の談話室と、同質、同列、等価のものをもってしてね。等価であるものは、等価なのだから、等価なんだ。つまり、ある一つが定まれば、ほかのすべてが定まるし、ほかのどれかが定まれば、ある一つも自ずと定まる。ここに前後の関係はない。すべて同時に成立する」

「私、世界を救いたかったの」


 リ・ドゥが呟いた。


 ドルスは彼女に目を向ける。


 リ・ドゥは彼の視線を無視して、グラスの中の液体を口の中に含んだ。それから、長すぎる金髪を片手で払う。いつも通りの仕草だ。


「その目標は、達成された?」ドルスは尋ねる。


「さあ、どうかしら」


「自分でやったことなのに、分からない?」


「それが普通でしょう」リ・ドゥは話す。「分からないことだらけだわ」


「しかし、今はもう、分かるだろう? 何しろ、この談話室が世界なんだから」


 そこで、リ・ドゥはようやくドルスを見た。


 彼女の目。


 ドルスが想像していた以上に、それは茫洋としていた。


 まるで、薬に溺れているように。


 そこには、何も感じられない。


 ただ、それは、目としてそこにある。


 それだけだった。


「ここには、私と貴方しかいないの」リ・ドゥは言った。「やっと、二人きりになれた」


 ドルスは彼女の目を見つめる。見つめても何もならないと分かっているのに、見つめてみた。そうすることが可能だからだ。


「二人きりになりたかったの?」


「別に……」リ・ドゥは再びグラスに口を付ける。「でも、考えることが減って、だから、それはよかった」


「何が、どういいの?」


「もう、説明するのも面倒」


「では、話すのをやめる?」


 リ・ドゥは息を吐く。


 彼女は持っていたグラスを手から離した。


 重力の影響を受けて、グラスは床に向かって落下していく。


 神によって計算された通りに、それは砕け、欠片が四方へと拡散した。


 神が、ドルスを見る。


「これで、よかったよね?」


「君がいいのなら、いいのでは?」ドルスは告げる。


「よかったよね?」


「君は、どう思うの?」


 リ・ドゥは手を伸ばし、ドルスの首に触れる。指が鋭角に曲げられ、爪が皮膚に食い込んだ。自分の首もとから液体が流れるのをドルスは感じる。


「いいって、言ってよ」


 そう呟いて、リ・ドゥはドルスに顔を近づける。


 滴。


 一つは、彼の首から零れる、赤色の。


 そして、もう一つ。


 透明のそれが、彼女の目から流れていた。

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