「   」

彼方灯火

第1話 談話室の基本情報に関する説明

 街の外れに談話室があった。談話室と言いながら、実際にはそれは部屋ではなかった。一つの立派な建物だ。いや、立派といえるかどうかは分からない。そうした評価は、評価する者によって変わる。そして、そうした評価は、大抵の場合どうでも良い。立派だと思えば立派だし、立派ではないと思えば立派ではない。


 談話室には管理人がいた。彼女の名前はリ・ドゥといった。どちらが姓で、どちらが名か誰も知らない。誰も知らないということは、彼女自身も知らないということでもある。第一、名前というものは、普通自分で付けたものではない。姓も、名も、生まれたときからそこにある。言い換えれば、生まれたときからそこにあってしまう。


 彼女は自分の年齢すら知らない。数えたことがないからだ。なぜ数える必要があるのか、彼女には分からない。そもそも、彼女は十進数信者でも何でもない。いっそのこと、二進数とか、三進数で表したら愉快なのではないか、という気がしたが、十進数をそれらの進数に変換するためには、少なくとも彼女の場合は紙とペンが必要で、今はそれらを用いて計算する気にはなれなかったから、その夢は実現しなかった。


 実現しないからこそ、夢といえるかもしれない。


 くだらないことを考えているな、とリ・ドゥは思う。


 談話室は、街の外れにあるものと、少なくとも彼女はそう考えているが、外れというのがどういう地理的条件を指すのか、実のところよく分かっていない。近くには線路が走っているし、目の前にはバスのロータリーがある。談話室はその一画の地下空間に設けられている。道路に口を開いた灰色がかかった階段を下りていくと、正面に木造りのドアが現れる。その表面に「談話室」と書かれたプレートが掲げられている。その先に談話室がある。


 時刻は午後四時。


 リ・ドゥは、カウンターの椅子に陣取って、一人で本を読んでいた。


 今はまだ誰もいない。


 でも、きっと、誰かが来る。


 その誰かが誰であるのかも、彼女はある程度予想している。


 カウンターに置かれたコーヒーの入った硝子製のグラスを持って、液体を少量口に含む。


 冷たい感触。


 自分の細い金髪が、一部、グラスの中に入り込んだ。


 水滴が付着する。


 自分で毛先を口に含んで、液体を体内に取り込む。


 余計に液体が付着した。


「ああ、どうでもいい」


 と、一人で呟いてみる。


 案外心地が良いものだ。


 談話室の中は薄暗かった。天井からぶら下がっている橙色のライトが、周囲をぼんやりと照らしている。ライトはいくつかあって、ぶら下がっているものもあれば、天井に直接へばり付いているものもある。こういうふうに、色々なタイプのものを用意しておくのが、この場所なりのやり方だった。そういうふうにして、様々な可能性に立ち向かおうとする前向きな姿勢なのだ。


 ドアが開く。


 リ・ドゥは顔を上げて、そちらを見る。


 眼鏡をかけた少年が、入り口の付近に立っている。後ろを向いて丁寧にドアを閉めてから、再びこちらに向き直ると、彼はようやく彼女の存在に気づき、片手を挙げて挨拶をした。


 リ・ドゥもそれに応じる。


 少年がこちらに向かって歩いてくる。


「やあ、疲れたよ」リ・ドゥの隣に腰を下ろして、彼は言った。「目がちかちかする」


「そう?」彼女は少年の目を覗き込む。「していないみたいだけど」


「うん、比喩だから」


「今日も勉強?」


「そうだよ」少年は頷いた。「僕って、勉強家だからさ」


「だから、何?」


「だから、勉強するんだ」


「順番が逆みたい」


 少年は持っていた本をカウンターの上に置く。図書館から借りてきたもののようだ。どれも表紙が薄汚れていて、所々に茶色い染みが形成されている。それどころか、本を構成する紙そのものが茶色がかっていた。もともとそういう紙なのだろう。現代の製本技術で作られたものでないことは明らかだった。


「ドルス君」リ・ドゥは少年の名前を呼んだ。わざとらしく、よそ行きの声で話した。「今日の勉強の成果を、聞かせてもらえるかな?」


「まだ、整理している途中」ドルスは応えた。「まあ、でも、うーん、話すことで整理できるかな」


「言ってごらん。聞いてあげるから」突然、普通の声に戻って、リ・ドゥは求める。


「言語はね、音から成るらしい」ドルスは話した。「音が先か、文字が先かという議論は、大分前から行われていて、もう結論は出ているといって良いんだ。うん、つまり、音が先という結論だね。でも、最近になって、そうとも言い切れないんじゃないかという意見が出てきた。要するに、音も文字も同時だったんじゃないか、ということなんだけどね。それで、ちょっと気になって、昔の書物を当たってみた。そうすると、当然、書物はどれも文字で書かれているわけだけど、これを眺めているだけでは全然頭に入ってこない。文字で書かれているだけでは、言語は言語として機能しないみたいなんだ。そこで、声に出して読んでみると、どうか。そうすると、これがなかなか不思議なことに、何を言っているのか分からなくても、分かるような心持ちになってくる。でも、それは、やっぱり音だけではないんだな。文字を見ながら、声にするということが大事みたいで……。ということで、今日の僕の結論は、言語には音と文字の両方が大切というところに行き着いた」


 ドルスの話を聞き終えて、リ・ドゥは小さく頷いた。


 何度か、頷く。


「分かった?」ドルスは確認する。


「分からない」リ・ドゥは答えた。

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