第六話 不完全な自立 2

 ~全身数十箇所をメッタ刺し、暴力団の抗争に巻き込まれ?~


 ――今日未明、南方自動車道インターチェンジ付近にて二十代から三十代と見られる三人の男性が血を流して倒れているのを付近の住民が発見した。男性らは病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。


 地元警察の調べによると、被害者の男性らは以前から指定暴力団『吉田組』の幹部と接点が有り、何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高いと見ている。


 男性らの身体にはいずれも刃物のようなモノで複数箇所刺された形跡があり、地元警察の捜査本部は恨みを買った暴力団による組織的犯行も視野に入れ、今後も慎重に捜査を進めていく方針だという――


「粛清か、それにしてもここまで徹底的にやるとはねぇ」


 真田煉華は不機嫌そうに呟くと、読みかけの朝刊を折り畳んでから机の端に放り投げた。宿直室の狭い窓からは日暮れへと傾きかけた黄色い日差しが差し込んでいる。


 読んでいた記事は凄惨な内容だが小見出し程度にしか書かれておらず、代わりに同紙一面には政治家の問題発言がこれ見よがしにデカデカと踊っていた。


 机上には他にも開封済みの便箋が一枚、雑な破かれ方をして置かれていた。差出人の名は無い。同梱されていたのは証明写真機で撮影されたような面白みのない顔写真で、見るからに悪人面をした男が一人ずつ、計三枚写っていた。彼らはメッタ刺し事件の被害者であり、つい先日真田を襲撃した加害者でもある。


「アッチもようやく本腰を入れてきた、って事かしら」


 自らに語り掛けるように呟きながら、真田は積年の汚れが染み付いた古臭い天井をじっと睨む。向こうがその気になれば、標的を始末するための手段も場所も選ばないだろう。家族や友人を人質として拉致することも、無関係な者を巻き添えにこの学校を襲撃することも厭わない。聖痕民団とはそういう組織だと、かつて特行時代に同僚だった仲間から聞いた記憶を掘り起こし、再認識した。


 ふと、窓の外から飛び込んできた歓声に意識を奪われる。運動部の活気ある掛け声がここまで響いてくるのだ。平穏な日常風景。だが、それを享受する精神的余裕は、もはや彼女の心には無かった。いや、振り返ればそんなもの最初から、教職に就こうと思い立った時から、無かったのかもしれない。


(結局のトコロ、アタシは教職に向いてなかったってことかね……)


 自嘲しようと口元を歪めるが上手く笑えず、苦虫を噛み潰したような表情になる。三年前に特行を辞め、念願の教師になるべく一から学び、晴れて転職した。なのに、やはり自分は血なまぐさい抗争の運命から逃れられないのだと、今になって諦めにも似た思いで悟っている。


(けど、ま、それでもいいさ。所詮アタシは、戦地から逃れた卑怯者だ。最後に夢見れただけでも儲けものだと思わなきゃ、死んだ仲間達に顔向けなんて出来ないわよ)


 痕印、覚醒、そして特行入り。数々の輝かしき思い出があり、それ以上の苦難と悲劇があった。謂れ無き迫害、裏切り者との決別、そして『奴ら』との生存戦争。特行という名の下で積み上げた屍体は正しく山となり、流した人血は河となった。


 当然恨みも相当買った。だから聖痕民団は彼女を仇敵と見なし、排除すべき危機として刺客を送り込んできたのだ。別段それは構わない。雑魚が何人来ようと全て叩き潰すだけだ。真田は勇壮に、かつ過剰ではない自信を持ちながらそう思う一方で、見過ごせない懸念も胸に秘めていた。それは他ならぬ教え子、赤坂秀彰のことだ。


(アタシは別にどうなったっていい。けどアイツが、この先の未来を担う若者がその割を食って死んじまうってのは、ダメだ。それだけは耐えられない)


 一時の感情で抱え込んでしまったあの生意気な子供をどうするべきか、真田は日々真剣に悩んでいた。このまま手ぬるい個人授業を続けていても、きっと良い方向へは進まないだろう。ならばさっさと特行へ預けてしまえばいい。それが最善の選択なのは、彼女も気付いている。


(……いい加減、ここいらで踏ん切りを付けるべきよね)


 すっかり冷めた珈琲で口内を濯ぐように飲んでいると、宿直室の扉がコンコンと控えめに鳴った。


「失礼します」


 やってきたのは懸念材料、もとい、大事な教え子の赤坂秀彰だ。彼は慣れた調子で上履きを脱ぐと、机を挟んで体面に座った。まるで勝手知ったる他人の家だな、と真田は内心で呆れる。


「鈴峰から何か情報は聞き出せたのかい?」

「えぇ、裏に居る組織が聖痕民団だと証言してくれました。それと、俺がソイツらの標的になった経緯も一応は」


 真田はニヤリと口端を上げ、皮肉るような調子で笑った。


「へえ、そいつは災難だったわね」

「いえ、むしろ願ったり叶ったりですよ」


 秀彰も同じく笑う。そのニュアンスは真逆だ。


「どういう意味だい、そりゃあ」

「これでますます強い痕印者達と戦える、そう考えたら胸の高鳴りが収まらないって事ですよ。瀬能とかいうガキの時も、鈴峰先輩の時も、俺は常に死と隣合わせに戦ってきた。命を賭しての駆け引き、緊迫感、これを味わっているからこそ生きているって実感するんです」

「相変わらずイカれてるわね、アンタの思考は。いいや、幼いって言うべきかしら」


 真田は粋がる教え子の考えを拒絶し、引き換えに蔑んだ視線を恵んでやった。決して共感など出来やしないと、念を押すかのように。


 しかし、それは偽物フェイクだ。真田にとって秀彰の自殺願望染みた無謀さは、かつての自分を見せられるようで疎ましかった。


 ゆえに真田は知っていた。こういう手合いは大事なモノを失うまで、信念を変えようとは思わないのだと。


「だったら真田センセ、今後はもっと実戦的な訓練を積ませてください。痕印者の世界で生き抜くためには、俺はまだまだ力不足だ」

「つまり人殺しの手段として、アタシに痕印の使い方を教わりたいってか?」


 だから敢えて真田は秀彰の心の領分まで踏み込み、神経を逆撫でする。


「……あくまで自衛目的ですけど、相手が殺す気で来るのならそれ相応の対処も覚えておかないと、やられるがままです」

「ハッ、便利な大義名分だね。命を狙われているから好き勝手に能力を行使出来る。他人も殺せる。殺人衝動を持った異常者にとっちゃ、願ったり叶ったりだ」


 バン、と手の平で丸机を叩く。先刻までの笑みはいずこか、真田の目は完全に据わっている。突然の豹変ぶりに、さしもの秀彰も気圧されて背筋をビクリと弾かせる。だが、負けず嫌いの塊で出来た男子生徒はそれくらいでは引かない。


「落ち着いてください、真田センセ。俺は何も――」

「自惚れるな。痕印者に必要なのは能力を律する意思だ。痕印とは弱者を守るための力だ。人を殺すための道具じゃない」

「けどそれはセンセの……いや、特行の考え方でしょう?」


 真田は身を乗り出し、秀彰の襟元に掴みかかる。呼吸を阻害され、苦悶の表情になっても、秀彰は反論を止めない。


「ぐっ……図星だろ、自分の正義を他人に、押し付けるな……っ!」

「あの女に、鈴峰に唆されたのか? 目を覚ませよ、赤坂」

「――違うっ!」


 力強い否定の声とともに、秀彰は真田の肘と腕を掴み返してそのまま半回転しながら彼女の身体を投げ落とした。その合気道に似た投げ技は真田が訓練中に教えた技術だが、まさか自分に返ってくるとは思っていなかった。

 畳の上に尻から着地した真田は短い悲鳴を発すと、信じられないモノを見るかのような目で教え子の顔を眺めている。


「俺は見ず知らずの弱者なんてどうでもいい。守るのは自分と周りの人間だけで充分だ。あぁそうだよ、聖痕民潭だかなんだか知らねぇが、『殺されて喜ばれる悪人』と戦えるってんならそれが俺の本望ってヤツだよ」

「……本気で言ってるのか?」

「えぇ、本気です」


 その言葉を聞いた真田は両手を脱力させ、頭もクタリと垂れさせた。だが、それはほんの数秒間だけだった。すぐに顔を上げると、感情を押し殺した声で秀彰に冷たく言い放つ。


「なら勝手にしろ。アタシはもう、アンタに教えることなんて何もない」

「……それじゃ契約違反だ。あの時、俺を一人前の痕印者にするって言ったのは嘘だったのか?」

「特行に居る昔の知り合いには、前もって話を付けてある。今後はそこで教えてもらいなさい」


 真田は立ち上がると、スーツの内ポケットから名刺のような紙切れを取り出し、強引に秀彰の手の中へと押し込んだ。そして、そのまま宿直室の外へと押し返した。


「く……ふざけんなっ! テメェ、途中で授業放棄するってんのかよっ! それでも教師かっ!」


 旧校舎の廊下に追い出されても、秀彰の怒り声は収まらない。


「なぁ、何とか言えよっ! おいっ! 真田ぁ!!」


 真田は応じず、無言のまま老朽化した扉を閉める。やがて物音を聞きつけた生徒らが集まり、秀彰を遠目から観察していたが、彼が睨みを効かせると蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「――クソッ!!」


 秀彰は昂ぶる怒りに任せ、廊下に設置された手洗い場をガツンと強く殴りつけた。拳の皮が捲れ、鮮血が滲んでも、気分が収まるまで何度も何度も殴り続ける。


「…………」


 その悲痛な音が鳴り止むのを、真田は宿直室の扉に背を当てながら待っていた。離れていく心の距離を測るように、五本の手指をピンと伸ばしながら。


「これでいい、そうだ、これが正解なの、アタシは何も間違っちゃいない」


 やがて宿直室の周りが静かになったのを確認すると、真田は虚ろな眼差しで呟く。感情的なモノは何一つ無かった。涙さえも流さない。何故ならこれは演技だから。教え子を逆上させ、自分のもとから離れさせるための、くだらない三文芝居だ。


 不要な物は全部置き捨て、真田は着の身着のまま宿直室を後にする。暫くの間、ここへは訪れない方がいいだろう。無断欠勤が続けばそのうち懲戒処分になるだろうが、それでも構わない。


 扉を閉める前、彼女は最後にもう一度、狭い室内を眺めてみた。振り返れば此処には様々な思い出が染みのようにこびり付いている。この学校へ赴任して来た時、林の婆さんには教育指導という名目で散々絞られたのをよく覚えている。宿直当番という夜の学校に泊まる業務があると聞かされた時も、最初は怖くてたまらなかったものだ。それが今では我が家のような安心感さえある。


 後はあの――可愛げのない男子生徒との出会いも、多少は影響しているのかもしれない。


「……どうだか、ね」


 これ以上感傷的な気分に浸るのは無為だと、真田は立て付けの悪い扉を強めに閉めた。向かう先は山奥にある特行の訓練施設。あそこなら無関係な人間を巻き込まず、全力で戦えるはずだ。


「さぁて、久しぶりに大暴れしちゃいますか」


 ズレた眼鏡の位置を指で修正しつつ、焔心の魔女は歩き出す。自分と教え子の未来を守るために。


   ※


(くそっ!!)


 夕暮れ時の駅前通りを、秀彰は無我夢中で駆けていた。ロクに前も見ず、邪魔な通行人らに肩がぶつかろうとお構いなしに、ただ走る。中には当然、怒りを露わにして掴みかかる連中も居たが、逆にこちらが凄んでやると押し黙り、すごすごと引き下がっていく。低俗な優越感が一瞬だけ胸を満たし、すぐにドブ底のような嫌悪感がそれを焼いた。目に映る何もかもが鬱陶しい。


(あんな自分勝手な女を信用した俺が馬鹿だった……!)


 期待を裏切られたという喪失感が、記憶の中の思い出すら黒く塗りつぶす。熱くなりすぎているのは自分でも分かっている。だが、冷静になれと思えば思うほど頭の熱は更に高まり、正常な判断をさせてくれない。だから秀彰は走った。走り続けた。燻った感情が消え去るまで、ひたすら無我夢中に。


 どれくらい走っただろう。息切れを感じて足を止めた途端、フラリと倒れこんでしまいそうな疲労感に苛まれた俺は、その場で膝に手を付き、一時の休息を取ることにした。


「はぁ……はぁっ、……ふぅ」


 荒ぶる息を整え、ふと顔を上げると目の前には小さな交番があった。開けっ放しの戸の向こうでは二人の男性警官が背広を着た長身の男と、隣り合った机を挟んで何やら話し込んでいる。


 と、ちょうど用事が済んだのか、背広の男が椅子から立ち上がってこちらへと歩き始めた。その後ろでは二人の警官が、敬礼しながらその男を見送っている。妙な待遇だなと思うより早く、秀彰は背広男の顔を見て、思わず声を掛けていた。


「アンタは、あの時の……」

「んぁー?」


 気の抜けるような間抜けな声がソイツの口から漏れたかと思いきや、すぐにニヤッと獣染みた獰猛な笑いに変わる。まるで静と動とがスイッチで切り替わるかのような、極端な態度を持つ人間を秀彰はもう一人知っている。加えて、彼女と同種のニオイを目の前の男からも感じていた。


「おぉ、誰かと思えば例のボウズじゃねえか。元気そうでなによりだ」


 言いながら男は右腕に挟んでいたトレンチコートを取り出すと、バサッと大きな音を立てつつ、慣れた調子で一気に纏った。短く揃えたオールバックの黒髪に威圧的な眼光、額に痛々しく刻まれた一文字の傷痕が、彼の異質な存在感を醸し出している。


 見間違えようもない。入学式の日、秀彰が初めて遭遇した痕印者と死闘を演じた後に現れた刑事風の男。当時は名乗らなかったが、彼はソイツの名前を知っている。


「真道、龍一……」

「どうして俺の名前を知ってるんだ、って問いたいトコロだが、生憎事情はあの腐れ縁女から聞いているんでな。別に驚きゃしねぇさ」


 低い声でそう告げると、真道はコートの懐から煙草の箱とライターを取り出して一服しようとしたが、ふと背後から感じる警官らの視線に気付いたのか、トントンと箱を指で小突いて寂しげに懐へと戻した。


「ちょっくら場所を変えて話そうや。ここじゃちと目立ちすぎるからな」

「話って、俺は別に……って、おいっ!?」


 真道はあろうことか交番の脇に停めてあったミニパトの後部座席へ秀彰を無理やり押し込むと、自らも運転席に乗り込んで勝手にエンジンを掛け始めた。あまりの手際の良さに怒ることも忘れ、秀彰は呆然と車窓の外を眺めていた。ガラスの向こうには先程の警官二人が、あちらも呆然とした面持ちでこちらの様子を眺めている。


「……良いんですか、勝手に運転しても」

「マズけりゃ止めてるはずだ。彼らだってカカシじゃない」


 真道は素知らぬ顔で言い放つが、警官の反応を見る限りあれは完全に予想外の反応だった。きっと何かしらの特権がこの男には与えられていて、それで仕方なく見逃したと見るのが妥当だろう。考えたくもないが、もし将来この男の下で働くことになったら、後々尻拭いで大変な目に遭うのは想像に難くない。


 ルームミラーを見ると、いつの間に準備したのか真道の口元には火の点いた煙草が差し込まれていた。道理で先程からやけに煙たい訳だ。副流煙で満たされた車内の空気を入れ替えようと、秀彰は勝手に車窓を開けた。なんて自分勝手な男なんだ。内心でそう毒吐いている間に、気付けば秀彰の頭に上り詰めていた血はすっかり冷めていた。


「俺を何処に連れて行く気ですか?」

「どこって決まってるだろ、俺の職場。公安特務執行部水橋支部だ」


 ハンドルを片手で捌きながら、真道は事も無げに告げる。なるほど、と秀彰の中で合点がいった。薄々感じてはいたが、真田が口添えしたという特行の知り合いとはこの男、真道の事だったのだと。


「……………」


 再び車窓の外へと視線を投げ、秀彰は静かに溜め息を吐いた。もしかすると真道は、このまま自分を組織に引き入れるつもりなのか。いや、彼にその気が無くとも、真田の依頼とあれば協力を惜しまない間柄なのかもしれない。腐れ縁とボカしていたが、仮に昔の交際相手だったとしたらどうだ。どちらが立場的に上なのかは知らないが、あの暴力女教師のことだ。過去の男の弱みくらい、余裕で握りしめていそうな雰囲気はある。


「……くくっ」


 不意に車内に響いた笑い声は、秀彰のモノではなかった。


「何がおかしいんです?」

「いや、なんつーかボウズの顔が通夜の参列者みてぇに暗かったからよ、『ドナドナ』って歌を急に思い出して笑っちまっただけだ」


 小馬鹿にされたような笑い方にムッとしてミラーを睨んだが、真道は依然としてフロントガラスの向こうを注視したまま、余所見をする素振りは見せない。パトカーという国家権力の象徴を運転しているせいもあろうが、法定速度を遵守した緩やかな走りで住宅街路をのんびりと進む様は、どうにもこの男の印象とそぐわなかった。平気でカーチェイスや追い越しをするようなタイプだと思っていたのに。


「つまりは俺を出荷するってコトですか。その特行とやらに」

「おいおい、人のコトを奴隷商人みたいに言うなよ」


 赤信号に引っかかると、真道は鼻から濃煙を棚引かせながら、車用灰皿にトントンと灰殻を落とした。


「俺はあの激情家、ボウズにとっちゃあ先生にあたる人に頼まれた口なんだぜ?」

「だからなんですか。勘違いしているようなので言っておきますけど、俺はまだ特行に入ると決めたワケじゃありません。真田セン……セイが、勝手にアンタと連絡を取って進めた話だ」

「ほう、ならお前さんはまだアイツの下で痕印者としての心得を教わりたいって言うのか?」


 信号が変わり、エンジンが哮りを上げる。アクセルをベタ踏みでもしたのだろうか、発進と同時に俺の身体はガクンと後ろに倒れ込みそうになる。先程までの安全運転とは打って変わり、速度超過しないギリギリのスピードで公道を駆け抜けていく。それは有無を言わさぬ、強引で傲慢な脅しのように思えた。


「……っ、それは……」

「そこまで執着する理由が俺には分からねえなぁ。そんなにいい女か?」

「違うっ!」


 不意に二人の乗った車が、ガツッと嫌な音を立てて左右に揺れた。それはタイヤの下に入り込んだ小石が跳ねて暴れたせいだったが、そのアクシデントの元凶は後部座席に座る男子学生の仕業だった。


「――うをっ!?」


 前後に他の車の影が無かったのは、不幸中の幸いだった。真道の運転する車はフラフラと危うい蛇行運転を続けた後、路肩に突っ込みかけながらも何とか無事に停止した。


「あ、あっぶねぇなぁ……もう少しで懲罰モノだったぞ」


 ハンドルに上半身をもたれ掛かりながら、真道は首だけ上に傾けてルームミラー越しに俺の顔を覗き見た。そこには怒り半分驚き半分といった食えない表情が浮かんでいる。


「癇癪起こすのは別に構わんけども、俺ごと自爆させようってのは迷惑極まりないからやめろや」

「……ふん」


 どうやら真道は誰に原因があるか思い至ったらしい。てっきり振り向きざまに顔面でも殴られるのかと構えていたが、意外と平和主義者のようだ。秀彰は鼻から強く息を吐き出すと、消化不良の感情をぶつけるように唇を尖らせながら続きを漏らす。


「そんなんじゃない、俺はただ真田センセに約束を果たして貰いたいだけだ。一人前の痕印者になるまで面倒を見ると言ったのに、途中で投げ出すなんて教職者として、いや、大人として恥ずべきことだろ。失望を通り越して呆れるくらいだ」

「ははぁ、そういうことか」


 秀彰の独白を聞き終えた真道は、不精に伸びた顎ひげを手の平で擦りつつ、何やら面白げなオモチャを見つけた子供のように、ニヤニヤと無礼な笑みを顔中に貼り付けている。


「青いねぇ、実に青々しくてよろしい」

「何がだよ」

「要はアレと喧嘩したって事だろ? それで引っ込みがつかなくなって飛び出したところ、俺とバッタリ出くわしたってワケだ」

「な、なんでそこまで……っ!?」


 言って、ハッと口を押さえるが後の祭りだ。真道は愉快げに口笛を一つ吹いてから、新しい煙草に火を点け始める。


「ま、ボウズの気持ちも分かるし、アイツの大人気なさも俺は重々承知している。なにせアイツは昔からあぁいう性格の女だ。自分の傍に居ることで仲間を危険に晒していると分かったら、有無を言わさず遠ざけようとする。勝手なヤツだ。けど、ボウズもそれは承知で師事を仰いだんだろ?」

「勿論。けど俺は別に、自分がどうなろうと知ったこっちゃな――」

「それだ。その考えが余計にアイツを追い詰めてるんだよ」


 急に真道の眼光が鋭さを増し、瞳の奥に怒りの炎が灯った。その迫力に気圧された秀彰は、何も言えないまま押し黙ってしまう。


「自暴自棄ってのはな、守る側の人間からすりゃあ限りなく厄介な性格だ。放っときゃ勝手に野垂れ死ぬからな。だから常々目を光らせながら、ソイツを見張ってなきゃいけない。といっても所詮はどちらも人間、不意に油断することもあるだろう。期せずして集中力が切れたところを敵に狙われる可能性だってある。そうした不測の事態まで考慮して、アイツはお前を俺に託したんだろうよ」


 まるで魂の通った双子のように、真道は真田の気持ちを代弁し、そして迷いなく断言した。ズキリと胸の奥が傷んだのは、その意見を秀彰が知らず内に受け入れ、納得したからだろう。あれだけ高まっていた真田への反発心が、今では台風の目に呑まれたかのように、ピタリと止んでしまった。


「……そこまで考えて、センセは俺を……」


 秀彰はルームミラーから視線を外し、黒いレザーシートの掛かった後部座席の真ん中をぼんやりと眺めながら呟いた。真道の話を全て真に受ける気はないが、逆に自分の意見を変わらず貫き通せる自信も失っていた。ならば一体、どうすればいいのか。漠然とした不安が秀彰の思考に薄っすらと靄を掛けていく。


「ま、今俺が言ったのはあくまで個人的な観点からの想像だ。本人の前では言うなよ。絶対ブチ切れて、俺まで焼き殺されちまうからな」


 カチカチと規則正しく点滅していたハザードランプが消え、再びエンジンの勇ましい音が車内外に響き渡った。ハンドルを握った真道は不敵に笑みを零すと、次の交差点で大きくUターンを試みた。


「だから真実はお前さん自身の眼と耳で確かめろ。なぁんてカッコつけちまったけどよ、つまりはアレだ、喧嘩の仲直りは早い内にした方が後引かなくて良いってこった。ふはっ、これは俺の実体験から導き出された経験則だから、間違いないぜボウズ?」

「色々と苦労してるんすね……」

「ケッ、そういうのは止せよ、なんか惨めになっちまうだろうが」


 秀彰の安い同情を嫌がってか、真道は荒々しく煙草を掴むと、残り少なくなった煙草を灰皿へと押し付け、くしゃりと潰した。


「**高校だったな? そこの校門前で捨ててやるから、後は勝手にやってろ」


 投げやりな口調とともに吐き出された残留煙は、見事な龍の姿を描きながら立ち昇ると、やがては半開きの車窓の隙間から逃れるようにして消えていった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る