第一話 変わりゆく日常 2
「……ぃ~、秀彰~、いつまで寝てるのよー? パン冷めちゃうから早く下りて来なさーい!」
「……ぁ?」
階下から響く母の呼び声に起こされ、秀彰は重い瞼を開いた。目覚めは最悪で、軽い頭痛と全身を包む気怠さが睡眠過多の時を思わせる。おもむろに布団を剥ごうとしたが、手応えはなく空振りした。使い慣れた枕の感触もない。背中だけがやけに冷えている。
(あぁ、そうか)
未だ巡りの悪い頭をコンコンと小突くと、サボっていた記憶中枢が仕事を思い出したかのように覚醒し、昨晩の一部始終を脳裏に描き出す。
(あの後、親に見つかると面倒だからって、どうにかリビングから自分の部屋まで這って行ったんだっけか。それで――)
ドアノブを回した所までは覚えているが、それ以上の記憶は無い。制服のまま床に転がっている時点で、大体の察しは付く。
(汗、すげぇかいてる。気持ち悪ぃ)
首筋や背中に掛けてべっとりと不快な汗が付着している。これで風邪をひかなかったのは生まれ持った体の丈夫さか、それとも――。
(……馬鹿な事考えてないで、さっさとシャワー浴びるか)
秀彰は寝惚け眼を擦りつつ、殺風景な部屋を抜け出し階段を下りる。そのまま風呂場へ向かおうと狭い廊下を歩いていると、リビングから顔を出した母に呼び止められた。
「どこ行くの? 朝ごはん用意出来てるわよ」
「先にシャワー浴びてくる」
制服姿の息子を見て、母は露骨に顔をしかめる。
「あんた、その格好で寝てたの? だらしないわねぇ」
「疲れが溜まってたんだよ」
「部活にも入ってないくせに何言ってんだか……」
文句を言いつつも「着替え出しておくから」と、スリッパの音を響かせながら廊下を駆けていく。そんな働き者の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、秀彰は風呂場への歩みを再開した。
シャツを脱ぎ、上半身裸になると真っ先に洗面台の鏡で肩口の傷痕を確認する。昨晩の出来事はもしや夢だったのではないか。秀彰の抱いた疑念は、鏡に映った幾何学模様によって払拭された。
(見えづらい位置に刻まれたのは幸いだったな)
服を着ていればちょうど隠れる部位だ。触ると少し痛むが、強く押されなければどうと言う事はない。じきに痛みも消えるだろう。
と、いきなり洗面場の扉が開け放たれた。
「替えのカッターシャツと下着、カゴに掛けておくからね……どうしたの、そんな驚いた顔して?」
「……いや、突然開けるからびっくりしただけだ」
「あ、そう。風邪ひかないうちに入りなさいよ」
突然現れた母はパタパタと忙しない足音を残し、リビングへ戻っていく。足音が聞こえなくなった後も、秀彰は目を見開いたまま、暫し放心状態に陥っていた。
(……心臓に悪ぃ)
咄嗟にタオルで傷口を隠して事なきを得たものの、見つかれば余計な詮索と心配をされかねない。父親不在のこの家で、ただでさえ母には迷惑を掛け続けてきたのだ。これ以上の心労は増やしたくない。
(当分は、隠しておいた方がいいだろうな)
当分という期間がいつを指すのか。もしかすると墓場まで持っていく秘密になるかもしれない。なんとなく不義理のようなモノを感じつつも、今の秀彰には事情を話す気など沸かなかった。
シャワーを浴び終え、新しいカッターシャツに袖を通す。すると、ようやく昨日の夕食を逃した事を思い出したのか、秀彰の腹の虫がぐぅと呻いた。
「腹減った」
「はいはい、もう朝食出来てるわよ」
腹を擦りながら食卓に着くと、淹れたての珈琲を母が注いでくれた。角砂糖とクリープは自分で入れ、スプーンで混ぜる。
ブラック無糖派の母から言わせれば、息子の飲み方は「お子様」らしいが、勧められるまま無理に飲んで、困った犬のような情けない顔を晒すのはもう懲り懲りだ。
その時の証拠写真は、今でも母の携帯電話に残っており、秀彰が何か反抗的な素振りを見せる度、ドヤ顔で突き付けてくる。若かりし頃はイジメっ子だったに違いない。
「バターとジャム、好きな方付けて食べなさい」
「……、いただきます」
トーストの上に苺ジャムを塗って、齧りつく。合間にグリーンサラダとハムエッグを胃に収めながら、普段とは違う豪華な朝食に舌鼓を打った。
パートを掛け持ちしている母は昼夜問わず忙しいため、こうして親子二人が揃って朝食を取る機会は、実は結構珍しいことだったりする。朝食は食パン一枚で済ますことがほとんどで、夕飯はパートの合間に母が作ったものを時間差で食べている。
たまにお互いが休みの日があっても、何故かそういう日に限ってどちらかに用事が出来てしまい、同じ時間を共有することはまず無い。要するに、間が悪い家族なのだ。
「学校はどう? 上手くやってる?」
「停学食らった以外は、順調だよ」
ズズズとマグカップに注がれた珈琲を啜る。何の気なしに答えた言葉が地雷だったと秀彰が悟るのは、数秒後だった。
「へぇぇぇぇ、順調? 順調なの? それは良かったわねぇ」
目を細め、笑顔を作る母のこめかみには、隠す気のない大きな青筋が浮かんでいる。普段はそこまで短気ではないのだが、一度怒りを買うとそれはそれは長々と続く。さながら毒のように。
(やばい、余計な事言うんじゃなかった)
後悔するも、時既に遅し。母は大きな溜め息を一つ吐いた後、睨むような目で息子を見ながら、饒舌に愚痴り始める。
「はぁぁ……全くもぉ、なんだってこの子は問題ばかり起こすのかしらねぇ。高校入学が決まって、赤く染めてた髪もバッチリ黒に戻して、さぁこれで秀彰も真っ当な青春を謳歌するのかぁ、としみじみ思ってた矢先よ! ほんっと、何を考えているのか。親の顔が見てみたいわ」
「いや、親はアンタ――」
「黙らっしゃい!」
ピシャリと発言を遮られ、秀彰は所在なさげに肩身を狭くした。
「ああもう、思い出したらまた腹が立ってきたっ! 入学式の日の事件、あの時の警察の対応も最悪だったわ。なーにが『お子さんの家庭環境にも問題があるんじゃないですかねぇ』よ。厭味ったらしく言い捨てたあの顔。片親だからって、頭ごなしに決め付けるんじゃないってのっ!」
怒りの収まらない様子の母は舌の回りに任せて思いの丈をぶち撒けると、当て付けのように黒ずんだ珈琲をズズズと啜った。こうなると機嫌を直すのは大変だ。
「いや、本当に申し訳ない。反省してる、いや、してます、ハイ」
「どうだか。あんたの事だから、また近いうちに問題起こすんじゃないの?」
テーブルに肘を付き、口端をひん曲げて母は言った。
「ねぇ、『紅の狼』さん?」
「ぐ……ぅぅぅ」
グサリ、と心が抉られる音がした。紅の狼とは中学時代、誰しもが掛かるであろう病の影響で前髪の一部を赤に染めていた秀彰に付けられたアダ名だ。当時は秀彰自身もそこそこカッコイイと密かに感じていたものの、こうして実の親の目の前で呼ばれると羞恥の暴力でもんどり打って床上を転がりたくなる。
どうにか話題を変えようと、秀彰は脇にあったリモコンを操作してテレビを点けた。いつもはまるで興味のない文字と音声の羅列をただ眺めるだけの装置としか思っていないが、この時ばかりは縋るような思いで画面を見つめる。
ちょうどCMが明けたようで、画面には中年の女性キャスターが報道フロアから最新のニュースを読み上げている所だった。
『えー、たった今入ってきたニュースです。本日未明、△△県○○市内にある高校の校舎内で、女性が血塗れで倒れているのを出勤してきた教師が発見しました。女性は病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認され――』
それはなんとも物騒な事件のニュースだった。
口に含んだトーストを珈琲で流しこみながら見ていると、やがて画面は中継映像へと切り替わる。
そこに映しだされた光景は、見覚えのあるなんてレベルではなかった。
(おいおい、こりゃあ……)
飲み終えたマグカップを置くことすら忘れ、秀彰はテレビに見入っていた。風呂上がりだというのに、嫌な汗が首筋を伝って流れる。
『なお、発見した教師の話によりますと、亡くなったのはこの学校に勤務する――』
「ね、ねぇ、秀彰! ここってまさか……あんたの学校……じゃないわよね……?」
たまらず声を上げたのは、母の方だった。
「あぁ、間違いない」
「はぁ……やっぱり……」
秀彰は最低限の言葉だけ返し、頷いてみせる。
画面に映っていたのは、秀彰が今年から通い始めた高校だ。校門の両脇に植えられた桜の木と遠く映る木造旧校舎の配置が、記憶の中の光景と完全に一致する。赤坂家の食卓に不穏な空気が流れ始めた。
――トゥルルルル。
緊迫した空気を打ち破ったのは、固定電話のコール音だった。けたたましく鳴り響く音に一瞬驚くも、母が慌てて電話台へと駆け寄る。
「はい、赤坂です。あ、美月先生ですか。いつも息子がお世話になっております。 事件……えぇ! 今ちょうどテレビで見てました。もうビックリして……休校、ですか。指示があるまで自宅待機と……分かりました。いえいえとんでもない! 先生方も色々と大変でしょう。息子にもそう伝えます…………へ、取材対策? あぁ、大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても、うちの子は――」
「………」
担任からと思しき電話応対を聞き流しながら、秀彰は天気予報に切り替わったテレビ画面を無言で睨んでいた。
(これも痕印者の仕業ってワケじゃないよな?)
身の回りで立ち続けにおかしな現象ばかり起こっているせいで、一種の認知バイアスが掛かっているのを自覚しながらも、そう疑わざるを得ない。
入学式の日。式典を終えて友人の土方信吾とファーストフード店に行った時のことだ。他校の不良に絡まれた信吾を助けようと喧嘩騒ぎを起こした際、その不可思議な現象は突然起こった。
(あのパーカーを着た自称『痕印者』の男が暴れ始めた時、俺の周りには大勢の人が居た。そいつらの一部は確かに目撃したはずだ。手も触れずに周囲の物体を切り裂く異能者の姿を)
だが、その後ニュースや新聞で流れた情報の中にそいつの情報は一切無かった。あるのはただ血気盛んな高校生共が殴り合いの喧嘩をしたという内容だけ。秀彰も目撃した真実をそのまま警察や取材記者にも伝えたが、それがメディアの媒体に載ることはなく、結果として闇へと消し去られた。
秀彰だけではない。他の目撃者も同じようにしたはずだ。一人二人の目撃談なら単なる与太話で済まされそうだが、数が集まればマスメディアだって無視出来ないネタになるだろうに。
(報道できない理由が別にあるのか? 例えば、どこかの組織から報道規制が掛かっていたりとかして……)
と、そこまで考えたところで秀彰は頭を振り、思考を雲散させる。
これでは陰謀論者と変わらない。裏の取り得ない推察など、時間の無駄だと結論付ける。
(今、俺がすべきは何だ?)
自分自身に言い聞かせるかのように、自問自答してみる。
答えは容易く出てきた。
(痕印者という存在、能力への理解――これだ)
自分に足りないのは痕印者という存在への理解だ。でなければ生身の人間と何も変わらない。宝の持ち腐れというヤツだ。
(このタイミングで休校になるってのも、俺の運がまだまだ捨てたモンじゃないって証拠だな)
未だ電話を続けている母を横目に、秀彰は忍び足で自室へ戻る。そして手早く私服に着替えると、そのまま玄関先へと向かった。
「あっ、すみませんっ、ちょっとだけお待ち頂けますか」
再び階段を降りたところで、当然のごとく母の目に留まり、呼び止められてしまう。
「秀彰っ、あんた着替えてどこに行こうとしてるのっ!? まさか学校に行くんじゃないでしょうね!」
「いいや、ちょっと近所の公園まで散歩に行くだけだって」
靴を履き替え、玄関の敷居を跨ぎながら秀彰が答える。どう考えたって信ぴょう性のない理由だが、そこは長年連れ添った肉親。止めても無駄だと悟ったのだろう。
母は呆れた顔で息子を睨みつつも、すぐに呆れたような溜息を吐いて、放免した。
「あんたって子は……ま、いいわ。人様の迷惑になることだけはするんじゃないのよ。あと、先生達には絶対見つからないこと、いいわね?」
「分かってるよ、母さん」
トントンと靴の先を玄関床で叩きながら、秀彰は軽やかな足取りで自宅を後にした。向かう先は団地裏の寂れた公園。通称『廃墟公園』だ。
※
(ここも相変わらずだな。俺が中学の頃からずっと荒れ放題だ)
張り巡らされたタイガーロープを跨ぎ、荒れた土を踏みしめる。公園内に広がった光景を見渡せば、秀彰の心に懐かしさと同時に侘しさがこみ上げてきた。
園内には錆だらけになった遊具の残骸から始まり、虫食いや割れ傷の目立つ木製ベンチ、収集されていないゴミ箱、商品棚の破損した自動販売機など、一目で管理放棄された様子が覗い知れる。
その原因とも言えるのが、公園を取り囲むように建設されたオンボロの県営団地だ。母が言うには、元々この公園は団地住人の利用を目的とした住区基幹公園として造られたそうだ。
それが数年前の団地建て替え工事によって、住んでいた入居者らは新しい公営住宅へと移り住み、利用客の居なくなった公園は取り壊される日を待つのみとなっている。中途半端に処理されたまま放置されているのは、行政側の事情らしいが、詳しいことは秀彰にも分からない。
昔は近所の子供がやってくる事もあったが、誰が流したか『幽霊が出る』という噂のせいでそれもめっきり減った。廃墟公園という呼び名もそれに拍車を掛けているだろう。今では怖いもの見たさに変わり者が訪れるくらいだ。
成り行き事情はどうあれ、この場所は痕印者の能力を測るのに願ってもない環境にあるという訳だ。目撃者や巻き添えに気を配る必要もないし、建物の一部が壊れたところで誰も気が付きはしない。何か起きても、向こうが勝手に霊の仕業にしてくれる。
(問題はどうやって能力を発動させるか、だな)
軽くストレッチをしながら、秀彰は頭を捻る。初歩中の初歩だが、現状一番難しい問題でもある。なにせ取扱説明書も無ければ、手取り足取り指導してくれる教官も居ないのだから。まずは手探り、行き当たりばったりで方法を暗中模索し、取っ掛かりを得るしかないだろう。その上で訓練を重ね、最適の手段を確立していけばいいのだ。
「すぅぅっ……」
秀彰は目を閉じ、心を落ち着かせる。高めた意識を、痕印の刻まれた肩口へと向けた。
(幸運にも俺は痕印者が能力を使う場面を目の前で見ている。思い出せ、あの時のヤツの一挙手一投足――その全てを)
記憶を辿り、トレースしながら脳裏に描いていく。幾重にも張り巡らされた思念の糸が、おぼろげなイメージを紡ぎだす。次第に秀彰の脳内にはパーカーを着た不気味な男の姿が顕現した。
(……右手を掲げ、何かを叫んでいる)
同じように秀彰も右手を掲げ、口を開く。だが、開いただけで何を唱えれば良いかなんて分かるはずがない。
「……ぁ、る、と」
だが、それは杞憂だった。
突如、秀彰の唇が意思を持ったように勝手に動き始め、出来損ないの言葉を告げた。不気味なオカルト体験だが、当人にしてみれば嬉しい誤算だ。
自分ではない何かの意思を甘受しつつ、それに従うように秀彰は喉から空気を絞り出して声出しをサポートした。
「……ぃ……なるとぉ…」
吐息混じりの声は次第に大きくなり、やがてはっきりとした言葉へと変わっていった。
「ワイ……ナルト…ッ」
繰り返された声は、『ワイナルト』という一つの言葉になった。聞き覚えのない言葉なのに、不思議と馴染みのある響きに思える。例えるなら、幼少期の呼び名のような、胸にすっと入り込んでくる感覚。
(名前――そうか、そういうことか……ッッ)
その答えに辿り着いた時、秀彰の背筋に雷に打たれたような衝撃がひた走った。閉じていた目を見開き、掲げていた右手をゆっくりと下ろす。するとひとりでに動いていた唇はピタリと止み、辺りには静寂が戻った。
「すぅぅぅ……」
再度呼吸を整え、瞳を閉じる。たった数分の内に、暗がりの中から一筋の光を見つけた。そんな気分だった。
高まっていく意識の中、秀彰は右手を掲げる。そして今度は自らの意志で、その名を――己が痕印の名を、あらん限りの声力で咆哮した。
「『ワイナルト』ォォォォォッッッ!」
瞬間、猛烈な砂埃が周囲に巻き起こり、視界が霞む。地表を根こそぎ持ち上げるような、凄まじい感覚に呑まれ、思わず秀彰の身体も見えざる力に持って行かれそうになった。それでも負けじと足裏に力を込め、腕を下げずに発動を続ける。
やがて巻き上がった砂埃が地面へと帰着し、視界が晴れると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
(な、なんだこれは……!?)
掲げた腕の先にあった砂場が丸ごと空中で静止している。いや、よく見れば浮き上がっているのは、砂だけだ。砂中に埋もれていたと思しき空き缶やスコップらは、カラカラと乾いた音を立てつつ、砂の隙間から零れ落ちていく。
(砂だけが浮かび上がったってことは、俺の痕印は”砂を操る能力”か? ……いや、これだけで判断するのは早計だ)
暫く砂の動向を見守っていたが、地上三メートルほどの位置で止まったまま、動く気配はない。要領を得ぬまま、これが自分の能力かと内心で呟いた途端、秀彰の心は言いようのない喪失感に包まれる。
(おいおい嘘だろ、ホントにこれっぽっちかよ!?)
それが秀彰にとって嘘偽りのない、正直な感想だった。パーカー男が見せたのは、不可視の刃で物体を切り裂くような超常能力。それをベースに考えるのなら、対象を爆発させたり瞬間冷凍させたり、そんな派手なモノが自分にも使えるのだと、勝手に思い込んでいた。だが、現実に起こった結果はこれだ。
『期待はずれ』、その言葉が秀彰の頭の中をグルグルと回り、冷静だった思考を掻き乱す。まだ最終的な結論を出すのは早すぎると分かっていても、沸き上がってくる苛立ちは抑えきれない。
「クソッッ!!」
怒りに任せ、秀彰は転がってきた空き缶を蹴飛ばす。張り詰めていた集中の糸が一挙に切れた。そして――恐らくそれが、次の現象への駆動条件となった。
(……なんだ?)
望んでいた第二変化。それは秀彰の予期せぬタイミングで訪れる。
異様な気配を感じ取り、ふと俯いていた顔を上げるとそこには、砂場の上に浮かんだはずの大量の砂々。それがあろうことか、発動者の彼目掛けて突っ込んできたのだ。
「な――ッッ」
何が起こったのか、考えている余裕など微塵もなかった。秀彰は咄嗟の判断で両腕をクロスし、顔面をガードする。それが精一杯だった。
「……ぐぐッ……おぉぉぉ…ッッ!!!??」
斜め上空から飛来した砂は凄まじい勢いを伴って、秀彰の身体へと容赦なく降り注ぐ。猛烈な雹の嵐を真っ向から受け止めているような感覚に、苦悶の叫びすら上げられない。
(な、なんなんだよ、一体……ッッ!?)
時折混じる小石の尖端で服が裂け、じわりと肌から血が滲む。痛みよりも、何が起こっているのか分からないという不安の方が、秀彰の心に深刻なダメージを与えた。
永劫に続くかと思えた長い苦痛の期間だが、実際には数秒間の出来事だったらしい。
「……がはっ……けほっ……、ふぅ……はぁ……」
音が止んだのを確認し、ゆっくりと腕を下げる。もうもうと立ち込める砂煙に噎せ返りながらも、ようやく凶悪な災害が過ぎ去った事に安堵し、秀彰は溜めていた息を緩やかに吐き出した。
「ぐ……ッッ」
途端、限界を超えた疲労を感じ、秀彰は崩れ落ちるようにその場へ尻もちを付いた。ずしゃり、と背中越しに大量の砂の感触が伝わる。振り向く気力もないが、推測することは可能だ。先程飛来してきた砂の集積分だろう。
「はぁはぁ、ぐ……ッ、ペッッ!」
口内に溜まった砂埃混じりの血を地面に吐き捨てる。危うく自分の能力に殺されるところだった。
「じゃじゃ馬にも程があるだろ畜生……ッ!」
握りしめた拳を地面に叩きつける。鈍い痛みがこみ上げ、まだ自分は生きているということを教えてくれた。昂ぶった気持ちが少しだけ穏やかになる。
「ふぅぅ……」
秀彰は長く大きな溜め息を吐き、気分をリセットさせようと試みた。散々な目にはあったが、得られたモノは決して少なくはない。記憶頼りの見様見真似で能力発動に漕ぎ着けたのは、奇跡と言ってもいいはずだ。
(今回の実験で判明したのは、痕印発動に至るまでの手順と効果対象。『右手を掲げ、痕印の名を叫ぶことで、砂場の砂が浮き上がった』。その後の発動者への強襲も含めての効果なのかは、現状では分からんな。不慣れな発動による暴走ということも十分考えられる)
秀彰は脳内ノートに書き記すつもりで、事の一部始終を思い返した。後はこの手順を繰り返して最適化し、痕印能力の根幹部分を完全に把握する。能力の良し悪しを論じるのはそれからでも遅くはないだろう。
(それにしても……馬鹿みたいに疲れたな)
千鳥足の酔っぱらいのように、ふらふらと足元をおぼつかせながら、秀彰はどうにか公園の入り口まで歩く。
(今日のところは一旦家に戻って、自室でのんびり過ごすか)
眉間から滴る赤い液体を服の袖で拭こうとして、秀彰ははたと気付いた。
「なんつって言い訳すりゃあいいんだよ、コレ……」
目下に広がるお気に入りの私服は、鮮血と砂埃まみれでボロボロだ。重い足取りがさらに重くなる。頭に浮かんでくるのは烈火の如く説教を垂れている母親の姿。
「はぁ………」
どこかに耳栓でも落ちてないかと見渡しながら、秀彰はため息混じりに家路へと向かうのだった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます