存在しない夏休みの思い出
秋来一年
中学二年 夏
蝉の声。テレビでは二十四時間だか八時間だか分かんないけどぶっ続けで番組がやっていて、ちゃぶ台の上にはまだ空欄の目立つ問題集が開かれている。シャーペンは持ち主の手を離れて、問題集のわきに転がっていた。
首筋を汗がつたう。その感覚は不快だったが、扇風機の風があたるとひんやりして少し涼しい。
夏休みものこり一週間。畳で大の字になった俺の脳裏に浮かぶのは、幼馴染の
「宿題は早く終わらせちゃいなさいよ。私は見せてあげないんだからね」
眼鏡におさげ。委員長然とした格好の吉乃は、見た目通りに真面目だ。終業式の日に言われた際は「へいへい」と聞き流していた言葉が、今更になって刺さる。
「あー、くそ。あちい」
こうも暑いと宿題なんかやってられない。俺は現実逃避のためスマホを手に取る。
と、メールが来ていることに気付いた。表示されてる送り主は
「週末お祭りあるけど、行かない?」
「行く」
ノータイムだった。すぐに返信を送る。
そのあと何往復かメールをやりとりし、土曜の一八時に待ち合わせることになった。
楽しみな予定ができたことで、にわかに宿題へのモチベーションが上がる。夏祭りをめいっぱい楽しむために、なんとか宿題を終わらせなければ。
「うっし」
気合いをいれて身体を起こし、俺はシャーペンを手に取った。
◇
土曜日。十八時。
約束通り待ち合わせ場所に行った俺は、思わず息をのんだ。
「どう、かな……?」
琴葉が振り向く。その身を包むのは、白の浴衣だ。赤と黒の金魚が優雅に泳いでいる。髪も浴衣に合わせてアップにしており、普段は隠されている白いうなじが、目に眩しかった。
「え、っと。普段と違いすぎて、びっくりした」
俺がそう言うと、琴葉は少し頬を膨らます。
「それで?」
「……似合ってます」
可愛いです、とは流石に言えなかった。そんなこと言おうもんなら、顔から火が出る。
俺の、いまにして思えば40点くらいの返答に、けれど、琴葉は満足したらしい。
へへへ、と恥ずかしそうに頬を緩めていて、耳が赤くなっている。
それを見た俺は、そんな顔もできんのかよズルじゃん、と思った。
「じゃ、行こっか」
琴葉の隣、お互いの存在を感じられるくらいの距離を、歩いて行く。
手は繋がない。ここは学校の目と鼻の先。知り合いに見られたら、何を言われるか分かったもんじゃない。
祭りの空気は不思議だ。もう見飽きたはずの、近所の境内。それなのに、こんなに心が浮き立つなんて。
「屋台で食べる焼きそばって、なんでこんなにおいしいんだろうね」
ベタな会話をしつつ、俺たちは人混みから外れて、少し落ち着けそうなスポットを探した。
運良く空いていたベンチに腰掛け、俺はフランクフルトを、琴葉はりんご飴を囓る。
「
「やだよ歩きづらい」
言いつつ、ほんとは少しだけ後悔していた。せっかく琴葉が浴衣を着てきてくれたんだ。俺も来年までに浴衣用意しとくか。
「りんご飴ひと口あげるから、フランクフルトひと口ちょーだい?」
「ん」
フランクフルトを差し出しながら、俺はふと思った。
今日は、いつもより大人っぽい琴葉にどきどきしっぱなしで、なんか悔しい。ここらで一つ、仕返ししたい。
「フランクフルトもおいしいね」
満足げに咀嚼する琴葉が照れるのを想像しつつ、俺は言った。
「はい、間接キスー」
琴葉は照れても、そんなに顔に出ない。
けど、俺は知っている。琴葉は照れると耳が赤くなるのだ。
さて、琴葉の耳はどうなったかな、と視線をやろうとしたとき、その耳が視界から消えた。
より正確に言うなら、近づきすぎて見えなくなった。
「……ねえ、間接、だけでいいの?」
声は、小さいのに、やけにはっきり届いた。
耳朶をくすぐる吐息に、頭がおかしくなりそうになる。
「……なーん、てね」
冗談っぽく、いかにも何でもないって表情で言った琴葉の耳は真っ赤で。それでもう俺は抑えられなくなって、奪うように初めてのキスをした。
◇
で、その一部始終を誰かに見られてた。
いやまあ正確には、見られてたのは俺と浴衣姿の女の子が、二人で夏祭りにきてた、ってとこだけなんだけど。
九月一日。
久しぶりに登校した俺は、噂の的となっていた。
「おい、涼悟! お前、浴衣美人と夏祭りデートしてたってマジ?」
「いやいや、ないない。どうせ誰かの見間違いだろ」
素知らぬ顔で友人からの追撃をやり過ごす。
「ねえ、吉乃、涼悟くんのこと聞いた?! 吉乃はそれでいいの?!」
と、教室の端の方から、甲高い声が聞こえてくる。
見れば、吉乃にその友達が突っかかっているところだった。
「別にどうでもいいわよ。前から何度も言ってるけど、涼悟は単なる幼馴染みなんだし」
「でもぉ」
なおも食い下がる吉乃の友達。
吉乃はそれを、うんざりした瞳で眺めている。
「そうだぞ秋山。俺たちは単に家が近いだけ。だいたい、誰がこんな真面目眼鏡と」
困ってそうな吉乃を助けるべく、俺は言った。
ちくり、と罪悪感に胸が痛む。
「は? 誰が真面目眼鏡ですって?」
しかし、よかれと思って放った俺の言葉は、どうやら悪手だったらしい。
「……あの? 吉乃さん?」
吉乃からどす黒いオーラが立ち上りそして。
「――いっ?!」
本気の蹴りを食らった俺は、新学期早々保健室送りになったのだった。
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