第2話 歪んだ歯車

 胸の奥のざらつきは、一晩寝ても消えてくれなかった。


 翌朝の職員室は、春の陽気とは似ても似つかない重苦しい空気で満ちている。

 その理由の大半を占めるのが、屋上からの生徒の転落事故。

 本人が無傷だったからこそ大事にはいたらなかったものの、「優等生・神原千尋」がやらかしたにしてはショッキングすぎた。


 だからこそ、今年赴任したばかりの新任教師・笹山大護ささやまだいごは、俺の顔を見るなり、ため息をひとつ深く吐いた。


「で、神原。昨日の池ポチャ事件についてなんだけどさ……」

「池ポチャって言い方やめません?」

「どうでもいいだろ! なんで立入禁止の屋上に行ったんだお前は!!」


 怒鳴り声が職員室に響いて、何人かの教師が肩を跳ねさせる。

 笹山は「あ、やっべ」と小さく呟いて、わざとらしく咳払いした。


「……なんか悩みでもあるのか?」

「ないです」

「そうか、ないか。ならよか―――よくねぇんだよなぁこれが!!」


 机を叩く勢いで詰め寄られ、思わず背筋が伸びる。

 教師に詰められるのって怖いんだよ、意外と。


「お前な、自分がどれだけ周りに期待されてるかわかってんのか?」

「すみません。でも、本当に悪気は―――」

「悪気がねぇってのは、やらかしたやつの常套句なんだ。そう言っとけば罪が軽くなると思ってんのが見え見えなんだよ、バーカ」


 笹山は大袈裟に肩を落とし、けれどどこか本気で心配しているような声で続けた。


「まぁでも……お前に怪我がなくて良かったよ。そこだけは本当に、奇跡みたいなもんだ」


 奇跡。

 昨日、何度も聞いた単語だ。


『神原くん、あの浅い池で怪我がないって、すごく運がよかったのね』

『桜の枝がうまい角度でクッションになったなんて、漫画みたいね?』

『ちーくんはやっぱり奇跡を呼ぶ子だねぇ』


 駆けつけてきた教師も、養護教諭も、両親でさえも。

 誰も“神原千尋”が落ちて死ぬ。そんな未来を、本気で想像していない。


 その息苦しいくらいの信頼は、優等生として積み上げてきた結果だと理解している。

 たけど、それが昨日は、やけに重く感じられた。


「……すみませんでした。以後、気を付けます」


 優等生らしく頭を下げると、笹山はふうと息を吐き、俺の肩を叩く。


「お前はできるヤツなんだからさ、頼むぞ、神原」


 その「頼むぞ」がやけに重くて、自然と一歩下がっていた。


 教室に向かうまでの道中、廊下の鏡にふと、疲れ切った自分の顔が反射した。


「……分かってんだよ、そのくらい」


 鏡に映る自分の顔は、理想のそれじゃなかった。

 頬を叩いて、いつもの笑みを貼り付けて―――それでも胸の違和感だけは、擦っても消えないままだった。


 お前は本当に心の底から、笑えているのか。



     ◇



 胸の奥にざらつきを抱えたまま、教室の戸を開く。


「ちひろぉぉぉぉ!!」

「うぐぇ!」


 開けた瞬間、濃紺の弾丸が飛んでくる。

 ダークグレーの髪が肩のあたりでふわっと跳ねて、その持ち主―――姫宮陽菜ひめみやひなが半泣きの顔で抱きついてきた。


「生きてるよね? 幽霊じゃないよね!? 朝一緒に登校できなかったから今確認するからね!!」

「生きてる生きてる、超元気」


 額にそっと手を当てて「ほら、ちゃんと体温あるだろ」と軽口を叩くと、陽菜はほっとしたように息を吐いた。


「も~~……ほんとに心臓止まるかと思ったんだから! もう噂になってるよ? 『あの神原が女子にフラれて、そのショックで飛び降りた」って」

「いや待て、それは誤解がデカすぎる」


 頭を抱える俺に、さらに追加攻撃。


「見てた子がいたんだって。放課後、教室でフラれたとこ」


 ざわっ……と教室が騒ぎ始める。

 放っておけば、毒みたいに広がる類だ。


「陽菜、よく聞いてくれ。俺はフラれてない」

「うん」

「屋上から落ちたのは、風に当たってうとうとしてただけなんだ。眠くなって、それで―――どぼん」

「逆に心配なんだけど!?」

「でも“失恋ショックで飛び降り”よりはマシだろ」


 どっと周囲で笑いが起きて、噂の毒が少し薄まっていく。


 正直、ほとんど嘘だ。

 でも「ショックで飛び降りた」よりは、ただ「千尋がアホだった」で噂で広がる方が、幾分かマシだろう。

 あの女子生徒も、自分を責めてしまうかもしれないし。


 そして案の定、前の席の男子がガタッと立ち上がり、食いついてきた。


「マジで? それ本当かよ、神原」

「もちもち。マジで死ぬ気だったら家で静かに実行してるよ」

「ちょっと笑えねぇ冗談だな!?」


 男子が大袈裟にツッコみ、笑いが起きる。

 このまま噂が収束してくれれば、それでいい。


「で、本当のとこ、どうなんだよ千尋」


 机を引く音と共に、隣の席から声が降ってきた。

 栗色の癖っ毛が跳ねた男子―――蓮見悠真はすみゆうま。もう一人の幼馴染で、俺の裏側まで知っている数少ない人間だ。

 それこそ、弱点もこいつがその気になれば一瞬で白日の下に晒される。別名、対神原最終兵器。


「お前がフラれたのは事実。でもその程度で飛び降りしないのも事実。となれば、問題はその後―――屋上で何があったかってとこか?」


 さすが、小学校からの腐れ縁。

 俺の「笑顔の角度」がほんの少しズレたのを見逃さない。


 何があった、か。


 夕日に照らされて淡く光り輝く白銀の髪。

 夜の始まりを溶かしたかのような暗い紫紺の瞳。

 柵越しに見てきた、人形のような白く小さい、あの顔。


「……幽霊、かも」

「なになに、どゆこと?」


 悠真の前の席から、陽菜が身を乗り出す。

 どうせ、本当のことなんて誰も信じない。

 なら、完全に笑い話にしてしまった方が、気持ちは楽かもしれない。


「えっとさ、こんな感じで―――」


 ノートを広げ、ペンを走らせようとした、その時だった。


「あ、ゆっきーおはよー」


 教室前方、廊下側の席から、何気ない挨拶が飛んだ。


「……おはよう」


 小さく、沈んだ声。

 でも耳に残る、不思議な響き。

 顔の輪郭だけ描いて、シャーペンの先が紙の上で止まった。


 頭の中で、昨日の夕暮れがフラッシュバックする。

 銀糸のような白い髪。柵に添えられた細い指先。風に揺れる制服。


 顔を上げる。


 白い髪。

 灰色の気配。

 昨日、屋上にいた“幽霊”が、何事もなかったように教室の中を歩いていた。


 彼女は教室のざわめきから距離を取るようにして、教室前方、窓際の席へ向かって歩く。

 あれだけ現実離れして視線を吸い寄せそうなのに、雑談に勤しむクラスメイトたちは誰一人として彼女を見ていなかった。


 無視されているというより、そもそも認識されていない方が近い反応。

 一挙手一投足、それが“神原千尋”という仮面に相応しいものなのかを常に見張られている俺とは真逆だ。


「……見つけた」


 思わず、声にならない声が喉から漏れる。

 幻覚でも、夢でもない。

 昨日の屋上で自分に「来るな」と告げた少女が、何事もなかったかのようにクラスの中に溶け込んでいる。


「千尋?」


 陽菜の呼びかけが遠く聞こえた。

 悠真が「ビビった?」とニヤニヤしているのも視界の端で分かる。


 ―――違う。

 ビビッてなんか、ない。


 椅子を引いて立ち上がる。

 自分でも驚くくらい、脚は迷わず彼女の席へ向かっていた。

 屋上の幽霊少女は、教室のざわめきを薄いガラス越しに眺めているみたいに、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 俺の影が机の上に落ちた時、ようやく彼女は顔を上げる。


 暗い紫紺の瞳が、まっすぐこちらを射抜いた。


 ドクン、と、心臓が一つ跳ねる。

 その一拍で、胸のざらつきが一瞬だけ別の何かに変わった気がした。


「なにか用?」


 昨日と同じ、抑揚の薄い声。

 あの屋上から何も変わっていないようで、少しだけ違う。教室という現実の中にいるせいか、彼女が少しだけ人間に近く見えた。


「昨日のこと、なんだけ―――」


 そう言いかけた声は、背後から聞こえた盛大な音に遮られた。


「あああああぁぁぁ、あたしのペンタゴォォォォン!!」


 陽菜の悲鳴。

 振り返ると、机から落ちたペンギン型のペンケースがはじけ飛び、中身のカラーボールペンや蛍光ペンが床一面に散らばっていた。


「助けてあげなよ、“優等生”くん」


 冷淡に呟く少女に言われるまでもなく、俺の身体は考えるより先に動いた。


「大丈夫か。拾うの手伝うよ」


 しゃがみこんでペンを拾い集める。

 いつもの優等生の反射が発動する。

 全部拾い終わる頃には、予鈴が鳴っていて―――


 俺は、あの幽霊に声をかけることができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る