#2


―― 2019年1月17日(木)0:56 東京都品川区五反田 高野こころの相談室 ――



結局、紹介状を書き上げた時にはすっかり1時ごろになってしまっていた。


こんな時間に「Dice」は開いているだろうか?


そう思いながら、高野は受付の鍵付きの棚にノートパソコンから出力した紹介状を入れ、帰り支度をして相談室を出る。


深夜の五反田駅は週半ばだというのにとてもにぎわっている。


流石、都内屈指の夜の街だ。


飲食店の多くが飲み屋で、窓からどの店も人が沢山いるのがわかる。




風俗店のキャッチの若い男性に「今晩どうです?」と声をかけられるが、「大丈夫です」と軽くかわす。


かわした直後に、今度は「お兄ちゃんチョットどう?」と外国人の露出が多めの女性に声をかけられるが、これにも頭を下げて取り合わない。


積極的に営業をかける彼らは気を悪くする様子もなく、次々に人に声をかける。


後ろの方で「えぇ~、どうしようかなぁ」とサラリーマンの男性が酔っぱらいながら大きい声を上げているのを聞いて、「これは捕まったな」と高野は心の中でニヤリと笑う。


案の定、欲望に負けたサラリーマンはキャッチの男性と価格交渉を始める。


「ほら、やっぱり」と高野は頷きながら道を歩く。




繁華街エリアから少し離れてくると、酔っ払った若いサラリーマンが道の端で嘔吐おうとしており、それを上司が「仕方ねぇな」と言いながら介抱している。


若いなぁ・・・、とまだ30代半ばのくせに高野は苦笑する。


高野は酒飲みでカウンセラーということもあって、こうした人間味あふれる五反田という街が嫌いではなかった。


「お大事に。明日も頑張れよ」と心の中で若いサラリーマンに声をかけ、高野は大通りを離れる。




そこから5分程度歩くと、お目当ての建物が見えてくる。


赤いレンガのできた当時は「モダン」だった建物…。


「モダン」という言葉自体最近はあまり使わないが、この昭和レトロな建物はきっと当時かなり目を引いたに違いない。

入り口は完全に古いマンションで、扉は特に無く、道路から低い階段を上がるといきなり吹き抜けのエントランスが見えてくる。


入ってすぐ左手には、古めかしい電球つきの看板に「スナック みどり」と書かれた紫色の外装の店がある。電気がついているので、ここは営業しているらしいが、その隣の2つの店はシャッターが降りている。


時間が時間だからもう閉まっているのか、あるいは閉店してしまったのか、わからないが…。


右手にはひらがなで「あじや」と書かれた古めかしい看板を出している小料理店や、何語か検討もつかない外国語で書かれた看板の店など数件が今も営業しているようだ。


2階もあるようだが、店があるのか、それとも住民が住んでいるのか、1階のここからでは見当もつかない。そもそも階段はどこなのか?


探索したい気持ちもあるものの、それはまたの機会にしようと心に決める。


高野のお目当ての店は、エントランスの中心にぽっかりと開いた地下へ降りる階段の先にあった。




階段を降りると、地下エリアがあり、そこは白熱灯で比較的明るい。


LEDライトが普及しているこのご時世で、未だに白熱灯というのがまたレトロな印象を与える。


青みがかった白熱灯の光が、レモンイエローのタイルを照らしており、なんとなく、不気味な感じがする。


なんだろうと思ったが、あれだ。…ホラー映画でゾンビが出てくる病院の通路のような感じだ。この空間には血まみれの白衣のナースがよく似合いそうだ。…偏見だが。


6店舗分のスペースがあるが、やっている様子なのは2軒のみ。


残りは全てシャッターが降りている。


1件は階段を降りてすぐの右手前にあるスナック。黒い看板に黄色い文字で「LUNA」と書かれている。


中からは笑い声とカラオケの音が漏れてきており、常連客でにぎわっている感じがする。


そして、もう1件がお目当ての店、「Dice」だ。場所はこの地下エリアの一番右奥。


暗いブラウンの店で、看板には白地に黒い文字で「Bar Dice」と書かれている。


ここだ。


それにしてもこんなマニアックな場所にあるバーをよく見つけたな、とクライエントの行動力に感心する。


外観は悪くない。シックで落ち着いた色合い、小窓からやや暗めの暖色の照明が漏れ出ており、落ち着いた雰囲気がある。


…これ、結構いいんじゃないか?


まるで銀座にありそうな少し高級感のある雰囲気の店だ。


名店の予感がしながら、高野は扉を開いた。




カランカラン…。


上品な鐘の音が鳴り、高野の来店がバーの中に伝わる。


「…いらっしゃませ」


店の奥から落ち着いた男性の声が聞こえる。


「まだやってますか?」


高野は薄暗い店内の奥に足を踏み入れ、扉を閉めた。


「…ええ。どうぞ、お好きな席におかけください」


奥のカウンターにいるのはバーのマスターだろう。


かなり小柄な方のようだ。顔も童顔な感じがするが、かもし出す雰囲気は中年…高野よりも年上に感じる。


コートを脱いだ後、バーのカウンターに座り、高野は店内をキョロキョロと見回した。


なんとなく、不思議な感じのする店だ。


「Dice」という店名は英語で「サイコロ」を意味する筈で、恐らく欧米の内装ではないかと思っていたのだが、どこか昔やったRPGのゲームの中のようなファンタジー感がある。


テーマ居酒屋なのか?それにしては細部の作り込みにこだわりを感じる。


この感覚を言語化しようと店内を見回して気づいたのが、店内のありとあらゆる文字が全て日本語ではないということ。


明かりも今どき珍しく、ランプで電気の類は一切使っていない。


マスターがゲーム好きなのだろうか?ここまで徹底していることに感服する。


「…なにをご注文されますか?」


マスターが静かに高野に尋ねる。


高野はハッ、として、「そうだな…」と考える。


酒好きなので、基本的に日本酒、ウィスキー、焼酎、ワインなんでも歓迎だが、こういう場ではファーストオーダーはなにが適切か…。


「…オススメってありますか?できれば甘いカクテル以外で」


こういう時はマスターのチョイスにゆだねてみたい。


マスターは「…そうですね」と呟き、高野をチラリと見る。


「…ちなみにお客様はどちらの出身でしょうか?」


「え?」


「…いえ、あまり見たことのない服装なので」


高野は自分の格好を見る。


ワインレッドのネクタイとグレーのYシャツ、上から黒いセーターを着ている。上から濃いグレーのジャケットを羽織っていて、茶色のチェックのスラックスを履いている。


一般的なオフィスカジュアルだと思うのだが…。


自分の格好のセンスはもしかして一般的ではないのだろうか。それはカウンセラーとしてマズい…。


急に不安になってきたところで、ふと、あることに思い至る。


やっぱり、ここはテーマ居酒屋なのか。だとすると、これはロールプレイ…。


だとしたらここは乗っておくべきか…。


高野はニヤリ、と笑う。


「そうでしょうね。埼玉という北の大地から来ました」


「…サイタマ?聞いたことのない国ですね」


マスターは首を傾げる。


…なかなかこのマスター、ノリがいい。完全に自分の役に入り込んでいる。異世界風テーマ居酒屋ってヤツか。


「Dice」という名前、もしかしたら最近流行りのTRPGから来ているのかもしれないな。


そちらがその気ならば、こちらもその雰囲気を楽しむことにする。


高野は神妙しんみょう面持おももちでマスターに頷いてみせる。


「ここからはるか遠い大地ですからね。マスターがご存知ないのも無理はないでしょう」


「…なるほど。まだまだ不勉強のようです」


マスターは頷く。


「…それでは遠方から来たお客様にはレイル共和国産のものを用意いたしましょう」


ははぁ~、このバーは「レイル共和国」という国の設定ということだな。


…実際は品川区五反田なのに、なんというこだわり。


高野は昔、秋葉原でメイド喫茶に行ったことを思い出す。


「…ワインはお飲みになれますか?」


「ワインですか!赤も白もどちらも好きです。できれば赤で重いヤツがいいです」


マスターは「…かしこまりました」と頷く。


「…では丁度、最近良いワインを仕入れましたので、これにしましょう。『ガイエン・ショーン』という赤ワインです。レイル共和国がほこるぶどう農園地帯、オハイ湖のゲルティワイナリーの逸品ですよ」


マスターは良く切れそうなソムリエナイフを使ってワインを手早く開栓し、背の高いチューリップ型のグラス―――確かこれはボルドーグラスという名前の筈だ―――ワインを注いでいく。


ボルドーグラスは中央部が若干狭まっている「The ワイングラス」といった感じのグラスよりもやや背が高いグラスだ。ワインが舌全体に行き渡るように飲み口が広い工夫がされていて、パワフルなワインに向いている。


丁度最近カウンセリングでワイン好きのクライエントに教えてもらったなぁ、と思い出しながらグラスを眺める。


ワインの説明といい、このマスター、ちょっと好きかもしれない。


高野は注がれたワインに口をつける。


ワインの細かい作法はわからないが、美味ければ勝ちだと思っている。


「…ッ!美味い」


これ、本当の葡萄ぶどうの品種はなんだろうか。カベルネ・ソーヴィニヨンか?それともシラー?


あまりワインに詳しくはないが、これは美味い。


黒胡椒のようなアロマがする。爽やかな酸味とやや強い甘味、そしてしっかりとしたタンニン…。生き生きとした風味があり、好き嫌いは分かれると思う。


しかし、高野はこのワインが結構好みだ。


「…お口に合ったようでなによりです」


マスターはフッ、と笑う。


この落ち着いたマスターもまた良い。


彼の存在が、酒好きが一度は憧れる「…マスター、俺、振られちまったよ」的な会話ができそうなムーディな空間を演出してくれる。


振られたいわけではないが、一度、高野もやってみたい。


「ここ、めちゃくちゃ良い店ですね。前から気になっていたんですが、知り合いにもうすぐお店をたたむと聞いて、慌てて駆けつけました。…残念でなりません」


マスターは首を傾げる。


「…はて?店を閉める予定はありませんが…」


「え…!?」


「ちょっと、緑川さん!」と高野は心の中で受付嬢の名前を叫ぶ。


これはいけない。凄く失礼なことを言ってしまった。


「あれ…私の勘違いでしたか…。すみません。失礼なことを」


「…いえ」




その時、カラン、と来店を告げる鐘の音が聞こえた。


「マスター、ウィスキーを」


男性の声だ。常連なのか、入店するなり、オーダーを入れる。


「…雪降ってきたわ。寒いわね…あら?」


その常連は服についた雪を払うと、こちらを見て、先客に驚いたのか目を細めた。


こちらも彼?彼女?を見て顔が固まる。




それもその筈、店に現れたこの常連の顔は白い狼の顔…。


身長は2m近い大柄。


両腕は高野の1.5倍は太く、筋骨隆々。


紫色のファー付きコートをまとい、派手だが、上品な金色のネックレスやブレスレット、ピアスなどの装飾品を身に着けている。


高野のボキャブラリーでこの眼の前の常連客を表現するならば、ゲームに出てくる狼の獣人。しかもオネエだ。


テーマ居酒屋にしても、これは気合い入り過ぎ…ていうか、駅前をこれで歩いてきたのか?勇者すぎる…。


高野は呆気に取られながら常連客のオネエを見つめる。




「…こんばんは」


常連客は微笑んだ。コスプレにしては顔の作りがリアルすぎる。最近の特殊メイクはここまでできるのか?


ハリウッドも顔負けだ。これが最近のコスプレイヤーの技術力なのか…。


高野は「こんばんは」と会釈えしゃくを返す。


そして、いや…違う、とすぐに自分の理解が異なることに気づく。


マスターと会話する常連客の尻尾が言葉に反応して動いている。


これは…作り物じゃない?




「…あの」


しばらく迷っていたが、意を決して2人の会話をさえぎって高野は声を上げる。


「「?」」


マスターと常連客は会話を中断し、こちらを見た。


「…ここって五反田の「Dice」、ですよね?」


「? ゴタンダ?ここはネゴルの「Honey Beeハニー・ビー」だけど?」


常連客が眉をひそめる。




…設定だよな?そういう設定…。




高野は嫌な予感がした。


そして、「ちょっと失礼」と断ってカウンター席から降り、扉に駆け寄り、扉を開け放った。




見たことのない大通りにうっすらと雪が積もっている。


それはまるでゲームのような幻想的な中世ヨーロッパの町並みだった。


高野のよく知っている五反田の街ではない。


そして、そこを行き交う人々はエルフにドワーフ、そしてバーのマスターのような小人。高野のような人間もいるが、まるでゲームの世界に飛び込んだような…。




これは…。


これはコスプレじゃない…。


ここ数年、アニメや漫画、小説で流行っているアレだ。


マジか、36歳にして…。


状況を完全に理解した。


これって…これって…。






「異世界転移ぃぃぃいいいいいい!?」


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