異世界転移してもカウンセラーをしています

チョッキリ

1.職場近くのバーは異世界に繋がっていました

#1

―― アマイア暦1328年水仙すいせんの月19日 朝 ギルド 病室 ――



壁に背を預けて、ベッドに座っているエルフの女性がいる。


彼女が高野のこの世界で最初のクライエントだ。




彼女は色素の薄い黄緑色の髪に白い肌、同色の長いまつげに、ペリドットのような美しい黄緑色の瞳をしていた。


鼻の上まで布で顔を覆っているが、美しい女性だとひと目でわかる顔立ちだ。



だが、そんな彼女になにがあったのか、容易に想像できる程、痛々しい傷が各所にあった。


まず、彼女の耳だ。「ソシア」にかじり取られたのか、左耳は歯型がはっきりとわかる形で大きく欠けており、右耳にも小さいが同様の傷跡がちらほら見える。


そして右手の小指と薬指がない。これも噛み千切られたか、引き千切られたかしたのか、指の皮がまばらにぶら下がっている。


一番目立つのは彼女の左腕だ。左腕は肩から先がくなっている。


「ソシア」は人の肉を好んで食すという。彼女の耳や指や腕が、食べるために奪われたのか、それとも彼女の反応を楽しむために奪われたのかはわからない…。


だが、この光景を見ただけで高野は言葉を失った。


一体どれだけ自分は恵まれた環境に育ってきたのだろうか。


そして、ゲブリエールに大見得おおみえを切ったは良いが、これは自分が果たして対処できるレベルなのだろうか。




正直、元の世界でこうしたケースに直面することがあったならば、もっと適任者を探すか、あるいは上級者に教えを請いながらカウンセリングを行っただろう。


しかし、ここでは適任者も上級者も存在しない。




ごくり、と高野は唾を飲み込む。


…やるしかない。


この世界でもカウンセラーとして生きていくために。


高野は覚悟を決めて彼女に話しかけた。




―― 2019年1月16日(水)23:18 東京都品川区五反田 高野こころの相談室 ――



「先生、お疲れさまでした」


受付の緑川みどりかわつむじは相談室をノックし、高野に帰宅の挨拶をする。


「あ、緑川さん、お疲れ様です。今日もありがとうございます」


高野は相談室に置いてあるノートパソコンから顔を上げ、緑川に挨拶する。




高野こころの相談室を開室して2年。


開設当初から受付をしてくれている彼女は、人当たりの良い笑顔でクライエントからも評判が良い。


20代前半とは思えない程、受け答えがしっかりしていて彼女を雇って正解だったと高野は思う。


社会人1年目のあのおどおどして不安げだった時代が懐かしい…。


今や、高野を含め、3人のカウンセラーの面談スケジュールを上手にコントロールしてくれる彼女は、この相談室に無くてはならない存在だ。


本当に感謝している。




「他の先生ももう帰られましたから、あと残っているのは私と先生だけです。先生もそろそろあがられますか?」


高野はノートパソコンと彼女を見比べて「うむむ…」と呟く。


施錠やセキュリティの設定、電気の確認などが面倒なので、正直、彼女と一緒に相談室を出たいのは山々なのだが…。


残念ながら今日のケースでクライエントから依頼された心療内科向けの紹介状の準備がまだ終わらない。


個人情報があるので、バレると大山おおやま三代みしろにどやされるのだが、家にノートパソコンを持ち帰ってしまおうかな…という葛藤と戦い、結局、理性が勝つ。


「ごめん。大島さんの紹介状がまだ終わらないからもう少し残るよ」


緑川はその返答を予想していたらしく「そうですよね」と顔をくもらせる。


「今日、6人連続でしたもんね。書く暇、全くありませんでしたね。本当にすみません」


「…いや、ありがたいことだよ。個人の相談室でこんなに忙しいのは。これも緑川さんがうまく調整してくれるおかげだね」


「いえいえ…」と緑川は照れながら首を振る。


「とんでもないです。立地が良いんですよ。駅から徒歩10分の超好立地ですもん」


「まあそれもある…」


確かに古い建物とはいえ、こんなに良い場所に店を構えることができたのはありがたいことだ。


しかも、オーナーが親戚の知り合いということもあって、初期費用は大分安く抑えることができた。


だが、テナントの出入りも激しいこの街で月々の場所代を払いながら生き延びるのはなかなか一苦労だ。


隣駅の大崎がオフィス街であることもあって、サラリーマン人口の多いこの街では、会社終わりの17時以降にクライエントが集中する傾向がある。特に18~20時は人気で、毎日予約がいっぱいになる。


高野こころの相談室では1回25分と55分のカウンセリングのコースを選べるが、日々ストレスと戦っているサラリーマンのクライエントたちの多くは、55分コースを選ぶことが多い。


一応、相談室は22時に閉室だが、皆その時間に終わることは難しいので、結局帰宅は23時ごろになる。


今のところ、クライエントが途切れないのはありがたいことだが、前職時代からの友人で共同経営者であるカウンセラーの大山と三代にも大分無理をさせてしまっている。


集団をターゲットにしたり、ビデオ通話アプリや電話相談を利用するなど、もう少しカウンセリングのシステム自体にメスを入れても良いのかもしれないが、まだそうした新しい試みに手をつけられるほど心に余裕が持てない。


今日は元々の17時半~20時半までぶっ通しの55分コース4件の予約に加えて、駆け込みで20時半と21時に25分コースが2件追加された。


高野は大山、三代とともに、下積み時代、精神科で朝から晩まで検査、カウンセリング、集団療法と馬車馬のように働かされていた。それに比べれば、今は随分楽だが、そうは言っても流石に疲れて、脳がパンパンな感じがあった。


とりあえず、2年はこうしてなんとか相談室を続けることができたが、明日はわからない。


頑張ろう。一生懸命働こう。


高野は心の中で自分に言い聞かせる。ようやく持てた自分たちの城だ。この場所を頑張って守りたい。


「…けど、これに関しては、できるだけ急いで作ってしまって、明日本人が持っていけるように準備しておくよ。その代わり、明日はちょっとのんびり出勤するね」


「わかりました。それじゃあ紹介状ができたら受付の鍵のある棚の中に入れておいてください。明日大島さんに渡しておきます。じゃあ、先生、無理しないでくださいね!お疲れさまです」


緑川は笑顔でペコリと頭を下げる。


「お疲れさまです」


高野もそれに笑顔で応じる。


そして、ドアがパタン、と閉まると再びノートパソコンとにらめっこを始める。


「あ!」とドアの向こうで声が聞こえ、再びドアが開く。


「あ、ノック忘れちゃいました。ごめんなさい」


「いいよ。どうした?」


高野はノートパソコンから再度、顔を上げる。


「ごめんさない。別に仕事を中断させる程大した用ではないんですけど…この間、先生、「Dice」ってバーが気になっているって言ってませんでしたっけ?」


「え?気になってる!」


高野は途端とたんに目を輝かせる。


「Dice」とは駅近くにあるバーだ。


…夜の街の駅近のバーというと聞こえはいいが、五反田は駅近で立地が良くても栄えているとは限らない。


あまり知られていないが、寂れたマンションのような建物が駅から5分程度の場所にあり、その建物の中には、恐らく高度経済成長の時代には栄えていたのだろうと思われるレトロな雰囲気の店がいくつも立ち並んでいる。


「Dice」はその集合体の1つで、あろうことか寂れたマンションのような建物の地下に存在するらしい。


らしい、というのは酒好きのクライエントに教えてもらった情報であって、自分で行ったことがないからだ。


カウンセリングで話題になったものはできるだけチェックするのがモットーである高野は、近いうちに必ず足を運ぼうと思っていた。


「昨日、帰り道にちょっと覗いたんですけど、あそこ、もうすぐ閉店するみたいですよ」


「えっ・・・マジ?」


やっぱり場所が悪かったか、と思いつつも、一度も行ったことがないまま店が閉店するのは悔しい。


足を運んで、クライエントにも感想を伝えたいし…。


週末に、と思っていたが、今日にでも行かなくては…!!


あ、でも今日は平日か…。しかも、水曜日だ。どうするか…。


大山も三代もいないし、一人で行くかどうかで高野は迷う。


「行くなら今だと思います。…ただ、飲みすぎないでくださいね。明日もケース、6件ありますからね!」


う…。


その通りだ。カウンセリングに支障をきたすのは絶対ダメだ。


だが、どうせカウンセリングは夕方からだ。昼間は記録やカウンセリングの準備などをする予定だからそれほど心配はしていない。


…でも、調子に乗らずに1杯だけ飲みに行こう。


それであれだ。良かったら閉店する前に大山と三代も連れて行こう。そうしよう。


なんだったら緑川さんも誘って職場飲みにしようか。


「…1杯だけ、どうしても気になるから1杯だけ飲んでくる」


緑川は頷く。


「そうしてください。それじゃあ…お仕事を何度もお邪魔してすみませんでした。今度こそお疲れ様です」


「はーい!また明日」


緑川は頭を下げて、今度こそと、ドアを閉める。


高野はにやけた口を一生懸命押さえながら「これ書き終えたら飲みに行くぞ」と呟き、ノートパソコンへと再び向き合った。



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