第8話 羽衣

 車内の空気が一段と重くなった。

「六花さん、そりゃあ・・」と呟きながら甘利先生がシフトレバーを操作して車を発進させた。エンジン音に撒いて会話を聞かれないようにしているようだ。

 それでも「喰べる」という言葉使いに、彼女を見る視線が強張るのを感じた。食べるって、やっぱりあのことよね。

「そこまでこの生徒は素性を知っているのか?」

「いいえ。でもこの娘はもう、そうね、身内みたいなものよ。だからはっきりさせておきたくてね。いいこと、実はこの娘は現時点で3人いるのよ。彼女は史華ふみかで愛称がチカ、その分身が文香と書いてブンというの」

 鳴神さんは歌うように、滑らかにいう。文香を説明する時に宙に指で、文の字を書いてみせた。心なしかはしゃいでるような弾んだ声音だ。

「そして魍魎になりつつある、敵性の意識をもつミカという存在があるの」

 困り果てた先生は後部座席に「本当か」と声をかけた。

 唐突にこんな事象を話されて、すぐに理解できるはずもないだろうし、それはわたしに断りを入れて話すべきことだと思うけど、とむっとした。

「なあ、午前中に学内で声を掛けてくれたよな。相談があるって、それはこの件なのかい?」

 なるほどブンは約束通りに、一旦大学には向かったらしい。けれどそれからの行動は読めない。

「すみません、それはきっとブンです。午前中とは服が違うと思います」

「ごめん、覚えてないというか、ごめん、服とか見てない」

 そうよね、男子は顔しか見ようとしない。視界の端でこっそりと胸に目線を落としてくる。女子は初めから胸をじっと見ている。

「つまりだ、少なくとも僕は2人目には会ったということだね。一体相談事って何だと思う。君は聞いているの?」

 わたしは素気なくかぶりを振った。

「そこで問題なのは、ミカが魍魎という事を知らずにブンが単独行動をして、しかも連絡がつかないって事。彼女の現在地は解るのよね」

 わたしのこの人に向けていた好意が、ぼろぼろと剥落していく気がする。

「はい、元彼の働いているビストロの近所です。わたしの代わりにそこまで尾行して行ったんだけど」

 iPhoneのアプリで確認しても、移動した様子はない。ランチタイムのほとんどをそこで過ごしたらしい。ビストロ前にある小さな公園にポイントはある。

「連絡が付かなくなってどのくらい経つ?」

「もうお昼過ぎだから3時間くらいです」

「そりゃまずいな。とにかくその場所に向かおう」

 と先生は大きくハンドルを切った。


 砂場にそれは突き立っていた。

 まるで墓標のように真っ直ぐ。

 見慣れたスマホの暗黒の画面。

 これでは返信もできないし、そして公園から位置が動くはずもない。

「手がかりはここにはないわね」

 鳴神さんはそう言って、視線を向こうに逸らした。

「私が行ってみる。貴方も元彼と鉢合わせはしたくないでしょうし、またビストロが関係しているのかもしれない。そこまで疑ってみるべきね」

 そのまま助手席から降りて、お店の中に呑まれて行った。

 それを二人で見送って、わたしは口火を切った。

 運転席に座る先生の後頭部がピクリとして、動揺を露わにしている。

「あのひと、一体何なんです。今までわたしは陰陽師だと聞いてました。ちょっと酷くありません?わたしはあのひとの身内になった覚えはありません」

 口調に拒絶の色が混じるのを抑えきれない。それでも庇おうとするバックミラーの先生の表情にも怒りが湧いてくる。

「一口には言えないけど。彼女は陰陽師でも何でもない。君とは関わりを持ってしまったんだね。難しい人に近づいたもんだよ、君も僕も」

「わたしの秘密は洗いざらい喋られてしまいました」

 ミラーに映る目がわたしを見ている。そこには逡巡と、畏れが入り混じった瞬きがある。やはり鏡に映るものには信頼が置けないな、と思う。いつもの先生の瞳ではない、惰弱なものがある。

「雪女なんだ」

 内臓でも吐き出したかのように、力のない声音。その言葉は余りにも非現実的だ。そんな筈はないと思う反面、わたしも分身を持つ身とわかり戦慄する。

「巻き込みたくない、いや。巻き込むべきでもない。けれど君はもう魅入られてしまったようだ。鳴神六花に」

「それって昔語りですよね。伝承とか」

 沈黙が彼の確信を裏打ちしている、

「そうだな。伝承と違う点は、彼女は魍魎や、悪霊、憑き物を喰べて生きている。その昔は人間の生気を喰べることもあったそうだ。神隠しが日常にあった、江戸時代初頭からの記憶もある。それは史実との符合を僕が確認している」

 彼は運転席から振り返りこう言った。それでそれが真実だとわかった。

「僕はこの眼で見たよ、信じられないものを、死闘を。彼女は絶対零度の領域まで、相手を引き摺り込むことができるという。逆らえないよ。その素性を知った後ではね」


 鳴神六花はビストロを出て、ゆらりとした足取りでやってくる。

 その瞳が鱗のように黄金色に輝いている。

 そう。

 その幽鬼のような眼をわたしはかつて見たことがある。

 あのときは、敵として

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