逃亡

成瀬哀

逃亡


 とある人が言うには、その作品は真っ黒だという。キャンバスの布地が見えないほどに塗り潰された漆黒の顔料に、吸い込まれそうになるようだったと。


 とある画家は言った。真っ白なキャンバスに向かい、筆を掲げる瞬間がこの上なく緊張すると。下絵でも描けばいいものであるが、柔らかい布に硬い鉛筆を立てる行為は嫌っている。だから別に紙を用意して、習作を済ませてからキャンバスに向かっていたが、その習作で描けた通りの具合で筆が運ぶとも限らない。最後の一筆を決めるのは、これで作品の味が決まった、と見えた瞬間だった。調理をしていて味見をし、調味料を加えて調整をしてから料理が完成したと告げることと同じであると。だからこそ、その味の出発点であり、ベースとなる最初の味、最初に入れる筆が何よりも緊張するのだと。


 同じ作品を見た人が言うに、その作品は真っ赤だった。キャンバスの隅から隅まで、まるで初めに赤く染めた布地を張ったかのように、綺麗に赤く染まっていたと。


 とある画家は言った。筆を使って塗り広げるのは、至極恐ろしいことであると。筆から滴るインクが、そのこぼれ落ちて出来る滲みとその走りが、どんなに美しく描けた作品でもダメにしてしまうのだと。水と顔料の具合を変え、ちょうど良い塩梅のインクを用いた時でも、筆の穂先が段々と乾いてくるのが嫌であると。どんなに配合を上手くしようと努めても、混ぜ合わせた色の顔料が織りなす曖昧な色彩は、二度と同じ色として再現などはできないのであると。


 A美術館に近日飾られたその画は『逃亡』という題が記されていた。作者はこれまでに幾度か同美術館に画を寄贈していた作家である。なんでも、この作家はA美術館の館長と古くからの付き合いで、一度作家が贈った作品を館長がいたく気に入り、館内に飾ったことから寄贈が行われるようになったという。とはいえ、館長もさほど暇があったわけでなく、作品が完成したら館長の秘書が作家の元へ訪問し、館長は作家と共に作品完成を祝い食事を軽くする、といった具合が毎回だった。作家は人見知りが酷かったために、秘書が訪れる時には毎度、作品と共に作品名を書いたメモを添えて、自身は物陰に身を潜めていた。秘書が去るのを見ると、作家はすぐに館長に食事の連絡をするのだった。


 とある画家は言った。キャンバスに筆を走らせるのは辞めにしたのだと。筆の代わりに指で顔料を塗り伸ばして描く方が、顔料の乾き具合や質感を感じることもできて気持ちがよかった。だが、指が顔料で赤く染まってしまったから、今回の画を集大成としたいと。これが最後の画になると。


 それまでの作品と同じように、この『逃亡』という作品も、もちろん秘書が取りに向かった。作家から、もうすぐ作品が仕上がるから取りに来てほしい、との旨が入ったのである。秘書が作家のアトリエに着くと、通常通り鍵は外されており、作品がいつも立てかけられているイーゼルには一つのキャンバスがあった。その時の秘書の話によると、作品は真っ白であったという。作品の脇には普段と同じく『逃亡』と記された作品の題を示す紙があった。

 物陰から出た作家は、毎度のように館長に連絡を入れた。作品は無事に運ばれるだろうから、今宵の夕食を共にしようと。館長は快く応じた。度々寄贈をしているとはいえ、この作家は名もない画家だった。ここ数日までは。この作家の集大成となったこの『逃亡』が彼を「とある画家」として有名にしたのである。


ところで、この話を聞いてあなたには真相が見えたであろうか。

同じ『逃亡』というこの作品を鑑賞した、とある人物には黒く、別の人物には赤く、またそれを受け取りに来た秘書には白く見えたというこの作品に隠された真実が。もし見えたと言うならば、あなたは我々警察に求められる洞察力があるのだろう。これからの捜査に一翼担っていただきたいものである。




*習作=練習のための作品を示す。

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逃亡 成瀬哀 @NaruseAi

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