クレメン侯爵邸のサロン③



*****



「陛下、パーティーでおつかれのところ失礼いたします」


 翌朝早く、ふついのクラウスのしつ室に、マルティナが訪ねてきた。

 クラウスもマルティナと話したいと思っていたのでちょうど良かったと思った。


「どうしても早々に話しておきたいことがございましたので……」


 ソファに座るクラウスの横に立ち、マルティナはいつものように右手の指をぴしりと揃えて黒髪を撫でつけている。


「実は昨日、陛下がパーティーでお留守の間に、北方の地ガザの国司が訪ねてきました」

「ガザの? 確か先日の大雨で川がはんらんして大きながいが出ていたのだったな」


 ちょうど結婚式の夜の出来事で、太上王に任せたままになっていた。

 確か領主に一任してきゅうえん活動は順調に進んでいるという話だった。


「ガザの国司の話では、救援物資がまったく届いていないということです」

「まさか……。何かのちがいではないのか?」


 確か物資を受け取ったという国司のサインが入った報告書があったはずだ。


「本当にガザの国司なのか?」

「私はそう思っています」


 最初はマルティナも確信を持っているわけではなかった。



*****



 昨日の夕方のことだった──。

 マルティナが職業王妃の公務を終え、自室に戻ろうとしていると、えっけん室の前でさわいでいる男がいた。

 男はひどくうすよごれたしょうでやつれきっていて、「王様を出してくれ!」とさけんでいる。

 あしらわれるように衛兵に追い出されそうになっている男のどろまみれのくつを見て、マルティナは気になった。揉めている衛兵の前に割って入り「王様はお留守なのです」と告げると、男はがっくりと肩を落としている。


「どのような用件でしょう? 私が代わりにお聞きしましょうか?」


 マルティナが右手で髪を撫でつけ尋ねると、男はげんな表情を浮かべた。


「代わりに?」

「私はクラウス様の職業王妃です。王の代行も職務の一つです」


 に答えるマルティナに、男はあやしむようにけんを寄せる。


「職業王妃というのは、もっと年配のかんろくある女性だと聞いていましたが……、新しい王妃様はあなたですか……」


 思ったよりもじゃくはいむすめだと、明らかにがっかりしていた。


「あなたにこんな話をしてもだと思いますが……」


 そう前置きして、男はガザの国司だと名乗り、そのさんじょうを訴えた。


「領主様に救援物資のお願いをしても一向に届かず、昨日ようやく届いた物資は形だけのわずかな量で、とてもじゃないが町全体に配給できるようなものではありません。このままではたみえ、人は野垂れ死ぬしかありません」


 マルティナは国司が切々と訴える内容の数々を、しばらくだまって聞いていた。

 そして国司がすべて言い終えたあと、ようやく口を開き尋ねた。


「あなたがガザの国司だと証明できるものはありますか?」

「いえ、それが……どろみずに流されて着るものさえない状態で……」


 国司は国からけんされる役人だが、長年辺境の役人をしている者は王宮に知り合いもなく、本人だとかくにんすることが難しい。しかも。


「災害えんは基本的に領主が行うことになっています。職業王妃といえども、王の許可なく支援物資を送ることはできません」


 マルティナの型通りの返答に、国司は吐き捨てるように怒りをぶつける。


「その領主様が何もしてくれないから、こうやって王宮に来たんじゃないか!」


 しかしすぐに我に返って、絶望の表情を浮かべながら謝った。


「あなたにおこっても仕方がないですね。すみません。領主様に声が届かぬなら王様に直接お願いしようと思い、無礼を承知で来たのですが……お留守なのですね……。はは、私は……ガザは……やはり天に見放されたのでしょう。民の待つガザに……戻ります」


 国司は疲れ切ったように言って、肩を落として出て行った。

 そこにはガザの民を助けて欲しいというしんな願いがめられているように感じた。

 うそをついているようには思えない。むしろそんな噓をつく意味などない。



*****



どろみちを歩き回ったような靴をいていました。さい地を回ったのでしょう。泥に埋もれているという本人の話とじゅんがないように思いました」

「うむ。なるほど」


 クラウスはマルティナの話を聞いて納得した。


「その国司が言うには領主からの救援物資は、ちゅうの役人にほとんど横領されており、被害にあった民に少しも行き届いていないとのことです」

「なんだと?」

「治水工事の方ものらりくらりと工事を進め、いつ完成するかも分からない状態だそうです。これでは次にまた同じようなこうずいが起これば、再び大きな被害が出ると。領主が派遣してきたかんとくかんり散らすだけでまったく使えないとも言っていました」

「ガザは確か……スタンリー公の領地だったか……」


 スタンリー公は太上王の信頼も厚く、クラウスにも非常に好意的な人物だった。

 これまで取りたてて問題視することはなかったが、アランは気を付けろと言っていた。


「君はどうすればいいと思う? マルティナ」

「!」


 クラウスに意見を求められてマルティナは驚いた。

 王妃になってから、若いだの小娘だのと言われ、まともにマルティナの意見を聞こうとしてくれた貴族はいない。自分の意見に耳を傾けてくれる人がいることが嬉しかった。

 マルティナは深呼吸を一つして、思ったままに答えた。


「職業王妃養成院の通常業務として、私は多くの被災地に出向いて参りました。私が現地におもむくことをお許しくださいませ」

「そなたが?」

「はい。国司の言うことがもし本当なら、民達は未来に希望が持てず絶望しております。こんな時、救援物資と共に必ず助けると言ってくれる者がいればどれほど心強いことでしょう。それが国の王妃であればなおさらです。それこそがシルヴィア様が目指した道ではないかと思っております」

「ふむ。なるほど……」


 クラウスは感心したように深く肯いた。そしてとんでもないことを言った。


「ならば、私もいっしょに行くことにしよう」

「えっ? 陛下が?」


 マルティナは驚いた。


「王妃だけでなく王もいた方が安心するだろう」

「そ、それはもちろんですが……被災地は足場も悪く……陛下には……」

「なんだ? 足場が悪いと歩けないようななんじゃくな男に見えるか?」

「い、いえ。そのようなことは……。ですが今日もご予定が埋まっております」

 即位を祝う重臣達の挨拶の謁見が、しばらくぎっしりまっている。

「ごますりに来る重臣と飢えて苦しんでいる民と、どちらを優先すべきか?」


 問われてマルティナはまどいながら答えた。


「そ、それはもちろん……民を……」

「ならば問題はない」

「で、では……。私が王宮に残り陛下の代行で重臣の謁見を致します」


 だが、クラウスは少し考えてマルティナの申し出をきゃっした。


「いや、そなたも同行するがいい。今日の予定はすべて延期する!」

「ですが……」


 少しでもクラウスの負担を減らしたいと思うマルティナは、反論しようとした。


「君は非常に優秀だが、自分の立場というものが分かっていないようだ」


 重臣達がクラウスのいない謁見で、どれほどあくらつざんこくな言葉を投げかけることか。

 だから王妃お披露目の舞踏会でも、マルティナが心配で控えの間にひそんで見張っていた。


「王妃などと呼ばれても、初代シルヴィア様の時代とは違う。あの頃と同じような権力と発言力を、平和な世ではいした貴族達の中で持てると信じているのか?」


 仕事熱心なのはいいが、こちらの心配する気持ちも少しは分かってほしい。

 思わず立ち上がって一歩二歩と詰め寄っていた。

 マルティナは驚いて一歩二歩と後ろに下がる。


「そ、それは……」

「シルヴィア様の時代のように重臣達がなおに従うと思わぬことだ」


 クラウスがさらに詰め寄り、マルティナは三歩四歩と後ろに下がる。


「わ、私はそんなこと少しも……きゃっ!!」


 慌てて後ろに下がろうとして足がもつれた。そのまま尻もちをついたと思ったが……。

 ふわりとクラウスの腕がマルティナの背中を支えていた。

 目の前には、ほっとしたようなクラウスの顔があった。


「!!」


 マルティナはどきりとして、慌ててクラウスの胸を押しのけきょをとった。

 胸がどきどきと騒がしい。これ以上ここにいたら胸が飛び出すのではないかと思った。


「わ、分かりました。私も同行致します。で、では準備がございますので私は下がらせて頂きます。失礼致します!!」


 マルティナは黒髪を撫でつけ、逃げるようにクラウスの部屋から出たのだった。



*****



「な、何をなさっているのですか、マルティナ様……」


 じょの雑用を終え、部屋に戻ってきたメリーは思わず叫んだ。

 マルティナが部屋の中をもうスピードでかっしている。

 しかもなぜだか後ろ向きに、だ。


「見て分からない? 後ろ向きに走っているのよ」

「そ、それは見たら分かりますが、なぜそんなことを?」


 マルティナは足を止め、額に浮かぶあせいて答えた。


「後ろ向きに走れるって危機に面した時には大事だと思うの」

「どんな危機でございますか? 危機なら前に向き直って走る方がいいと思いますが」

「それができない場合があるでしょう? 向き直るゆうもない場合が」

「さっぱり見当がつきませんが、それはいのししのようなけものに急にとっしんされたらということでしょうか?」

「ええ、そうね。まさに猪ね。その通りよ。しかもだんは美しい駿しゅんのように品行方正なのに、何かをきっかけにとつぜんあらぶる猪にひょうへんするの。そういう場合の話よ」

「どういう場合でございますかっ!?」


 メリーはまた変な方向にずれているマルティナにため息をついた。


「そんなことよりも、今日これから陛下に同行してガザに行くことになったわ。出かける準備をしてくれるかしら、メリー」

「王様とご一緒に? では、王様と同じ馬車に乗って? ついにマルティナ様を職業王妃と認めて下さったのですか?」


 メリーはぱっと顔を輝かせた。


「認めたというか……むしろ怒らせてしまったようだわ」

「怒らせた?」

「ええ。何が陛下のお気にさわったのか分からないのだけど、私の意見を真摯に受け止めて下さっていたのが急に口調を荒らげ、私が自分の立場をわきまえていないとかなんとか」

「まあっ! そのような厳しいお言葉を?」


 これはいよいよ王妃解任なのではと、メリーは心配になった。


「ガザの視察は私が言いだしたことだから、そこまで言うなら自分でやれという意味での同行じゃないかしら」

「マルティナ様の王妃としての資質をためされるおつもりなのでは?」

「そうかもしれないわ。今度こそやり遂げて陛下に認めてもらわなければ」

「ええ! 私も全力でお手伝い致しますわ!」

「では被災地に必要なものを書き出して陛下に持ち出す許可を得ましょう!」

「はい!」


 マルティナとメリーは養成院時代のことを思い出しながら、大急ぎで必要な物の手配をする。養成院から連れてきた優秀な侍女たちと手分けをして、昼前には準備を整えた。

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