04:家が潰れたその日のこと。

 けたたましい警告音の幻聴に飛び起きることが多々ある。それはもうとっくに聞こえないはずなのに、ずっと昔に聞き馴染みすぎたせいかその音は血肉のように付きまとい続ける。

 目が覚めれば背中は冷や汗でぐっしょり濡れ、吐き気に身体を蹴飛ばされ慌てて洗面台に駆けこむ。何もない胃の中身を戻しながらぜえぜえと肩で息をする、息が出来ている。まだ生きている。まだ自分は生きている。その事実に頭を抱えて嗚咽を零す夜を何度越えたのか、もう覚えていない。

 頭を冷やそうと家の外に出れば夜風がないていた。灯台の明かりが今日も夜を照らしている影に、アイルは風よけの塀に座り込み大きく深呼吸する、馴染みの生臭さが鼻に張り付いた。潮の匂いに何も思わなくなったのはいつからだったか。思案の中の深夜、まばらに街灯が輝き遠くに見える海面はまだゆらゆらと星を写している。


 あの日もこんな夜だったと過去の自分が息を呑む。


 何かの理由があったのだと思う。この夜鳥羽で補給を受けていたアリトモス号から連れ出されて、多分休暇なのだろう思ってアイルは隊員の一人と市場を巡った。そのまま日が暮れて保安隊の基地で一晩泊まることになった。山の上にある基地からみた景色が、港の明かりが稲穂のように揺れていたことを覚えている。

 幼い自分が海辺へ指をさして、アリトモス号はあのあたりだねと隊員に……彼女に話した。彼女はそうだね、きみは目が良いねとアイルの髪を撫でてはもう遅いから寝なさいと促した。実際随分と遅い時間まで起きていたはずだ。そして。

 ……そのまま船は出航した。

 どたばたと忙しなかったせいか自分が参っていたのか、それとも周囲が参っていたせいか当時どんなことが起きていたのかアイルは覚えていない。少なくともその時はすぐ帰ってくると思っていた、緊急で出撃することになったのかもしれないと。だから帰れると。

 数日経って、アリトモス号がアーセナル海を出たことを知らされたあたりからは本当に記憶がない。少なくともアリトモス号が海域を出たということはまた前線に向かったのだろう。とても大変なことになっていたはずだと、そんな憶測だけしか残さない夜が背に圧し掛かる。子どもながらにも分かっていた。分かっていたけれど、迎えを期待しつづけて。それで何年経った?

 アイルはそんな自分がまた嫌になった。

 自分が何がしたいのかも分からないまま、昔の理不尽に苛まれ続けている。大人たちの理由で自分は生み出されて育てられて、そして捨てられた。そう、捨てられたのだ。


「本当は分かってるのにな」


 言い聞かせるように形にした呟きは夜闇に飲み込まれる。迎えが来るなんて希望を言い聞かせても結局音沙汰がないのは、きっと向こうは自分のことなど忘れ去ってしまったのだ。

 いっそこの島に取り込まれてしまったほうが楽だったのかもしれない、実際楽なのだと思う。しかしそれでも昼間の自分は、あの水平線を見るたびに夢を見てしまう。いつか、いつか、自身を迎え入れてくれるものがくることを。自分を置いていったあの人が帰ってくることを。へどろのようにぐちゃぐちゃになった心が未練を求めて腕を伸ばす、その腕は重力に逆らえずに溶け落ちて周囲を汚すことも分かっているのにやめられない。


 帰りたい家があって、会いたいひとがいて。

 それでいて諦めたいのは悪夢に頭がやられているせいか?


 膝を抱えて顔をうずめる、息苦しいだけだ。込み上げるものを噛み殺す、息苦しいだけだ。それでもそれを飲み込み続けて、噛み殺し続けて、この痛みはまだこの身体に収まっている。だからまだ大丈夫だ、まだ待てる。まだ、待っていられる。


「──……、」


 息を吸う、息を吐く。

 喉が霞めていたい、胸の奥が霞めていたい。

 いたい。

 痛い。

 でも、苦しくなんてない。


「もう寝よう」


 振り切るように立ち上がって部屋に戻ろうと踵を返す。明日も多分漁は休みだが、それでも陸の仕事はたくさんあるのだ。あまり自分の感傷に浸ってもいられない、すくなくとも生きて行けるだけの金銭を稼がなければいけないのだ。死にたくはないのだ、なら働くしかない。

 頭の中の思考を絞め殺しながら扉に手をかける、それでいい。今夜も同じで、明日も多分同じだ。それでよかったのだ。

 よかったはずなのだ。


 ◆


 稲光が走った。凄まじい音、耳をふさぎたくなるほどに鉄が啼く。思わぬ大声にアイルは咄嗟に振り返った。水平線なんて見えるはずがない深夜の海に、赤い煙が立ち込めていた。光がまるで閉じ込められたかのように箱状に形を成して、幾重にも重なって。その中に大きな空飛ぶ船の姿が目視できる、できてしまう。空中戦艦なんて随分と珍しいものが現在進行形で港へと突き進んでいたのだ。


「事故か……? ──違う、あれは……!?」


 異質な光景、水の箱。赤い光、焼けた煙。

 劈くような独特な水の臭い。港に響く緊急の鐘の音、びりびりと鳴るサイレンの音。

 ──タークルの群れだ。


 まるで水平線を焼くように夜が照らされ、港から複数の光が飛び上がるのが見えた。緊急発進を受けたのであろうアセンが海上の炎煙に突っ込んでいくのがここからでもわかる、戦闘が始まっている。が、問題はそこではなかった。

 ここは灯台だ、港の中でも一番海にせり出している場所からここまで鮮明に戦闘の様子が見て取れるのだ。戦闘箇所があまりにも近い、距離感覚が狂っているかと思ったがそうでもなく大惨事まで秒読みのところまで来ているということだ。


「このままだと港にぶつかる……!」


 最悪を想定して家に駆けこむと、逃げる準備を終わらせたところだったらしいアイルの保護者であるトウチカ爺さんが「まずそうか」ととぼけたように笑う。相変わらずのマイペースに少々気抜けしつつもアイルは「うん、やばい」と端的に状況を伝えるとトウチカ爺さんはそうかとどこか楽し気にしながら、アイルに自分の荷物をとってくるように促した。


「脱出し次第灯台に火を入れるからな」


 その言葉に頷いてアイルは自分の部屋に戻る。速攻で手に取ったのは、一時退避用の袋ではなく常に準備をしていた個人用のキャリーバッグを持った。仕事に必要なものと生活に必要な最低限のものが入れてある、この家を完全に捨て去る時に使うものだと再三言われたものだった。

 この部屋とも今夜限りでおさらばだと思うと少しばかり胸が痛んだが、それどころじゃあない。追加で必要なものはなんだったかと頭を少し叩く、気は進まなかったがやっぱり捨てる気にもなれずにとっておいた静かの海大社のパンフレットを掴んで強引に手荷物用のバッグに突っ込んだ。それ以外にも持っていくものを突っ込んだがバッグはさほど埋まることはなかった。

 荷物を手に家を出ると、もう軽トラックに乗っていたトウチカ爺さんが端末を耳に当て誰かと話しているところだった。目線で行くぞと言われ、アイルは軽トラックに乗り込んだ。

 

「ご武運を」

 

 そうトウチカ爺さんが通話を切り、軽トラが相変わらずぐだぐだのエンジン音を鳴らしながら走り出す。流れていく景色、後ろを見れば我が家であった灯台が遠くの炎に照らされ黒く浮き上がっていた。その光景からアイルは目が離せなかった。

 港の光が見える頃合いになると、灯台の光が一層強く大きく輝くのがみえた。遅れて薄く震える音が響き渡る──タークルへ向けた合成敵意音だ。トウチカ爺さんが遠隔操作で灯台の光源を最大まで上げ、あの音を響かせるとなると本当にあの家はこれで最後になるらしい。あの船とタークルを灯台に呼び寄せて、港を守るために。

 

「アイル」

「ん、」

「上はどうだ」

「……大丈夫、気が付いたみたいだ」


 視線の先の夜の空には、きらきらとブーストを吹かせながら飛び回るアセンたちが見えていた。アセンの軌道が灯台をかすめていく、ごうごうと音を叫びながら飛んでいく船を誘導しているらしい。

 船はとりあえず行先を決める程度の機能は残っているらしく、ぱちぱちと光を瞬きさせつつ誘導に従って灯台に向かっていく。あれはもう助からないことを分かっているらしい。


「あの船何か言ってる」

「読めるか」

「えっと……」


 光が言葉を伝えていることに気が付いたアイルは、パニックになりかけの頭を抑えつつ解読を試みる。


「”しゃざい”……”かんしゃ”……”さよなら”……」


 あぁ、これから人が死ぬのか。


「そうか、読んでくれてありがとう。アイル」

「……うん」


 灯台の光が潰れたのは、そのすぐ後のことだった。

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