恋を知らない女帝はあなただけに微笑む
魚谷
序章 出会いは事故
生徒会長、華頂透子先輩と言えば、うちの高校で知らない人はいない、眉目秀麗、頭脳明晰、聖人君子――そんな四文字熟語が頭に浮かぶような有名人。
父親は大企業の社長をしているという資産家で、本人も、そして家にも、何の文句のつけようがない。
凛としたたたずまいで、微笑まず、教師相手にも自分の意を通す姿から、誰が呼び始めたか、氷の女帝。
そしてそんな先輩に身の程知らずにも、一目ぼれをした。
で……そんな先輩を、俺は今、押し倒している。
俺は自分の右手の下敷きになったものに目をやった。
制服のジャケットの上からでもはっきりと分かる、豊かなふくらみ――。
「……いつまで、私の上に乗っているつもり? ついでに、その手もどけなさい」
「す、すいません!」
先輩の緑色の瞳に睨まれ、俺は脇にどくと土下座をした。
「すいません、先輩! あの、その……とにかく申し訳ありませんでした…・っ!」
「……まずは顔をあげなさい。二年一組、吉井明君」
恐る恐る顔を上げ、先輩を仰ぐ。
こんな状況にもかかわらず、息を呑むほど先輩は綺麗だ。
切れ長の瞳に、抜けるように白い肌、つやつやした黒髪は腰に届くほど長い。
さらにプロポーションも言うことなし……。
「どうして俺のこと……。面識、ありましたか?」
「いいえ。まともに話しをするのは、はじめてよ。だから驚いてるの。まさかこんな目に遭うなんて、って」
「じゃあ、どうして俺の名前を?」
「生徒の名前と顔は極力一致するよう覚えてるから」
「全校生徒、全員ですか!?」
「当然でしょう。だって私は生徒会長よ? 話を元に戻すわね。私は確かに、面識のないあなたを呼び止め、作業を手伝ってもらった。そうよね」
「そ、そうです」
「“倉庫整理を手伝って”と言ったら、あなたは、“分かりました”――そう言ってくれたわ。作業を開始して十分くらいまではとても順調だったと記憶してる。倉庫代わりのこの空き教室は不要品も貴重品もまとめて段ボールに詰め込んでるから、女の私が荷物をどかすのはかなりの重労働で、あなたには感謝してるわ。予定もあったはずでしょうに……。私も申し訳なく思ったし、それ以上に感謝もしたわ。それなのに、どうしてあなたは突然、私を押し倒したの?」
「ご、誤解です……」
「何が誤解なの?」
「……押し倒すつもりはありませんでした。先輩がバランスを崩されました、よね?」
「足下に空き容器が転がっていることに気付かず、踏んでしまったわ」
「それで、そのまま倒れてしまうと思ったので、支えようとしたら……先輩は、実は倒れなくって……」
「――そう。私はすぐ態勢を立て直したわ。そんな私の目に飛び込んできたのは、勢い良く飛びかかってくる、あなたの姿。私は受け止めきれず、押し倒された。あまつさえ、あなたは私の左胸を握り締め……」
「全部、俺の勘違いでした、すいませんでしたぁ! 会長を襲おうとかそんな魂胆はなかったんです……! ど、どうか、許してください! 俺にできることなら、何でも協力しますから、どうかお願いします!!」
「あなたを教師に突き出すのは簡単……。でも確かに今の生徒会は人手不足なのよね。分かったわ。じゃあ、こうしましょう。これから夏休みまで、あなたを臨時の生徒会の庶務に任命します」
「庶務?」
「要は雑用係。文化祭の準備で、日常業務への人出が足りなかったから、ちょうど良かったわ」
「え、もう文化祭の準備をしてるんですか? この間、ゴールデンウィークが終わったばっかりなのに……。文化祭って……」
「九月よ」
「……ですよね」
「文化祭は学校にとっても、生徒にとっても、重要な行事なの。体育祭もあることを考えると、今から少しずつでも準備は進めないといけないの。そういうわけだから、あなたは庶務。いいわね?」
「はいっ」
「よろしい。無事に仕事をやり仰せたあかつきには、一連のやりとりを録音したこのデータは消してあげる。あなたが胸を握ったことも、忘れてあげるわ」
「! い、いつの間に……」
「悪く思わないで。いつ何時、何があるか分からない今のご時世、録音という客観的証拠を習得するのは自分の身を守るためだから。あなたの今の言い訳を信じてあげたいけれど……正直、そこまであなたの人間性を知らないわけだから」
「わ、分かりました」
「それじゃ、明日からお願い。放課後は生徒会室に直行するように。どうしでも参加できない用事が発生した場合は事前に、ないし、緊急性が高ければ事後――翌日、すみやかに私のところへ報告をするように。いいわね? 嘘の理由で仕事をサボった場合、録音データを先生方に提出することになるから。できれば、そんなことをさせないで欲しいわ」
「……俺も、して欲しくありません」
「共通の認識ができて良かったわ。それじゃあ、また明日」
先輩は柑橘系の香水をほんのりと漂わせ、去って行く。
こんな状況にもかかわらず、俺は先輩の後ろ姿から目が離せなかった。
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